第6話 戦闘と終焉
先ほどまで『コロニーJ』を一望できた一枚ガラスは粉々に砕け散り、部屋の中には真っ黒い物体がゴロリと転がっている。それはまるで液体のようでも、鋼鉄のようでもあり、見る角度で質感が変わって見える。私はその異様さに、本能のように恐怖を感じた。
「きゃあ!」
ボタンが立ち上がって、怯えたように私の後ろに隠れる。うねうねと蠢くそれは、今度はまるで石油がゼリー状に固まったみたいにテラリと照明を反射している。水っぽいようで、それでも絨毯に染み入ることもなく、確実に私たちににじり寄って来た。
「なっ、何これ?!」
あーちゃんは前に出てくると、両腕を広げてゴールキーパーのように私たちを庇って立ちながらも、恐るおそる近づいてみている。黒い塊は一瞬うねり、次の瞬間弾けたように、矢のような無数の長い腕をあーちゃんに向かって放ってきた。
「駄目、あーちゃん!」
ナツメが叫んで、あーちゃんを背後から前方に押し倒した。酷く鈍い音がして、二人は絨毯の上に転がったが、間一髪『ソレ』からは逃れられた。黒い腕は、そのまま奥にいた私とボタンに襲いかかる。
「!」
私の腕と脇腹をすり抜けて、黒い指先はがっしりとボタンの腕を掴んでしまう。私は「しまった!」と感じた。
「っうわあぁ! キキョウ! さん!!」
黒い腕はボタンを引き寄せると、軽々と再びビルの外に向かって転がり落ちた。このままだと彼女が、『
『
私のすぐそばで呟く声が聞こえた。ナツメが彼女の猫背をますますと丸めて低姿勢になると、両腕をいっぱいに天に上げてから一気に振り下ろした。
『
それと同時に、彼女の細い腕から無数の疾風が放たれた。それは目にも止まらぬ速さで黒い腕を切り裂いていく。しかし塊からは新たな手が次々と生まれて、ボタンをより深く捕らえてしまった。
「駄目だ、浅い。逃げられる!」
「う、あ……」
苦しげな息がここまで聞こえる。黒い塊はビルの側面をじるじるとゆっくり下降して行った。私たちは破壊された窓際に駆け寄ってそれを見下ろすしかない。モクレンさんが、なぜか少し頭を抑えてしゃがみこむ。
「ん~。指輪つけてる手があるはずよ、ナツメは集中してそれを狙って~!」
「わかった」
モクレンさんの、彼女のキャラクターにしては大きい声に、ナツメは素直に黒い塊を凝視していた。明るい日差しの中でボタンの左手を捕らえる黒い指が鈍く光る……。怪物は何と、銀色の『指輪』をしていた。ナツメは右手の人差し指を一本立てて、それをゆっくりと上へ振りかぶった。
「見えた……」
『
ピンとした光が彼女の指先に集まって、次の瞬間光線が打ち下ろされた。ボタンの閉じられた瞳がわずかに開いたのが確認できた刹那、すごいエネルギーが彼女をかすめて、一番深く身体を握り込んでいた部分を吹き飛ばした。
次の瞬間にはボタンの身体が空中に投げ出されていた。落ちていく。ビルに沿っての落下はまるで映画のスローモーションのようで……。
『恋に落ちるのは、重力のせいじゃない(Gravitation is not responsible for people falling in love)』
鈍い痛みとともに、それなりに肉量のある柔らかい身体が、何とか私の腕の中に納まっていた。
「……キキョウさん」
ボタンの声が上ずる。心底感動したように腕の中から私を見上げた。私はボタンを支え、『空中』で不安定に佇んでいた。そう、私は自分の身体を、自分の意志で『持ち上げる』ことができる。
人を抱いたままそれをするのは初めてだった。宙は不安定だったが、目線はボタンを開放した黒い塊から外すことはできなかった。黒い塊は何度も伸縮し、ゴリゴリと唸り声を立てていたからだ。
「す……っごい、飛べるんだねぇ」
私は涙目のボタンを安心させるようにわずかに笑んだ。がそれも束の間、上に向かって大声を出した。
「モクレンさん!」
『私は、どうしたらいい?』
それは口には出さなかったけれど、無事に伝わったのかモクレンさんは口を結んで驚いたようにゆっくりと瞬きした。藤色の瞳は、真っ直ぐに私を見つめている。
「どうしたの? モクレンさん」
心配したあーちゃんが駆け寄る声が遠くに聞こえる。私とボタンは黒い塊から距離を取って、ゆっくりと部屋に向かって上昇し始めた。
「もー、どうしたらいいって~……」
『初対面なのに頼りにしちゃってまあ~』
「モクレンさん……」
脳内で彼女のうふうふとした笑い声が響いた。
「キキョウさんすぐ上がって来て~、急いで」
私は素早く頷くと、ビルの壁を伝って駆け上がった。割れた窓からボタンと一緒に転がり込む。黒い塊はブスブスと煙を吐きながら、窓の高さまでねっとりと上がって来ていた。
「「塞ぐ!!」」
『
あーちゃんとモクレンさんは同時に手のひらを外に向けた。見えない壁が、割れた窓をパキパキと封じたのを見届けると、ビルの中で、誰かが笑んだ気配が感じられた。
激しい衝撃音のあと、黒い塊が割れた窓の外側で爆発した。世界がフラッシュする、目を開けてもいられない。腕の中のボタンが、寝起きの赤ちゃんみたいに身じろぐ気配がした。
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