第15話 『怒れるドラゴン』


 竜の間に一人残されたペディランサスは、昂る気持ちを抑えるのに必死であった。今すぐ、部屋を飛び出し勇者と剣を交わしたい。そして、その果てに訪れる名誉ある死を迎えたい。しかし、ペディランサスが真の姿であるドラゴンでいられるのはこの竜の間のみである。


 人の姿であっても十分に戦える実力は備えているが、その姿で倒れれば名もなき強者として物語の端に追いやられる可能性が高い。人々に受け継がれる物語の一部になるには、どうしてもドラゴンの姿でいる必要があったのだ。


 ペディランサスは、気持ちを静めようと瞑想に入る。だが、うまくはいかなかった。姫をさらってきてからの目まぐるしい日々が思い起こされるのだ。邪念を取り払おうと、ペディランサスはその長い首を強く振った。パキラが竜の間に駆け込んできたのは、そんなときであった。


「サンちゃんが逃走をはかりました!」


「馬鹿者! よりにもよって、この大事な日に!」 


 思わず声を荒げたペディランサス。その口端からは真っ赤な炎が漏れ出ている。いつになく感情をあらわにしたその姿に、パキラは怯えた表情を見せた。そしてそれが、ペディランサスに冷静さを取り戻させた。


「いや、すまぬ。それで状況は」


「ご指示の通り、牢に入れる前にトイレに連れて行ったのですが。いつまで経っても出てこず、確認したら既にもぬけの殻に」


 パキラの報告に、ペディランサスは首を傾げた。短い期間であったが、度重なる脱獄騒ぎからペディランサスは姫の嗜好をある程度であるが理解していた。姫は、脱獄に際し準備を怠らず、実に計画的にそれらを実行してきた。それが、トイレに入ったふりをして逃げ出すという今回のそれは実に雑ではないか。


「……姫に何か変わった様子はなかったか?」


「そういえば、姫は何かを恐れているようでした」


「どういうことだ?」


「勇者が姫を助けに来たことを伝えた時、僅かに震えているように……」


 部屋の隅に誂えた戸棚から、ガタンと物音が鳴った。ペディランサスがパキラへと目配せを送り、パキラが静かに扉をひらいた。


 中に潜んでいたのは、極限まで体を縮め怯えるサンデリアーナであった。パキラに促され、棚より出てきた彼女の手はガクガクと震えていた。日頃のふてぶてしい態度を思えば、あまりに異様なその姿に、ペディランサスの心がトゲに差されたように鋭い痛みに苛まれる。


「いったいいつからそこに。いや、それより何をそんなに怯えているのだ?」


 ペディランサスの問いかけに、サンデリアーナは応えようとしなかった。見かねたパキラが、姫を両腕で抱きしめる。パキラの豊満な身体が、サンデリアーナを優しく包み込みその熱が伝わっていく。


「そういえば、サンちゃん今回はどうやって逃げたの? 教えてくれたら、きっとペディランサス様がサンちゃんの願いを叶えてくれるよ」


「そうだな。だが脱獄の手段はあとでいい。先に望みを述べてみよ」


「……帰りたくない」


「王国にか?」


「私は、あそこから逃げてきたの」


「だがお主なら、城から逃げ出すなど容易いだろう」


「人間は貴方たちほど甘くない。お父様は、きっと逃げる私の足を潰すわ」


 ダンジョン主であるペディランサスの心中を表すかのように、ダンジョンが大きく揺れ動いた。ペディランサスの銀色の鱗が赤い炎に照らされ口の端どころではなく、全身の鱗の隙間から炎が漏れ出している。爛爛と輝く目には明らかに怒りが宿っている。


 ペディランサスの怒りに応じるかのように、パキラが自身のワイシャツのボタンを開け大きく胸をはだけさせる。これまで、地味な事務服に抑え込まれていた妖艶な魔力が部屋いっぱいい広がった。


 パキラが片膝をつき、ペディランサスにかしずく。ペディランサスは、豪然とその手をかざし大きな口を開いた。


「ダンジョン内の全兵力をもって勇者を迎え撃て!」

 

 その声が再び、ダンジョン中を震わせた。 


 その恐ろしく怒り狂ったドラゴンの姿を見たら、百人どころか王国中の人間が恐れを抱くであろう。しかし、その中でただ一人サンデリアーナ=ドラセナだけは怒りの奥に隠された自身に向けられた優しさを感じ取ることができていた。

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