シーン2-1 いずみ

 昼食を終えあやめと別れた優希は職員室で担任の北栄をつかまえて「具合が良くないので保健室に行ってきます」と告げた。北栄は「そうか、まあしっかり休んでこいよ」と、興味の無さそうな口調であったが承認してくれた。

 この担任は何事も基本的に無責任な態度を取ることがほとんどだが、こういう時にはその適当さがむしろありがたかった。

 優希は丁寧に北栄に礼を述べると、その足で保健室に向かう。北栄はそんな優希をぼんやりと見送った。



 保健室に辿り着いた優希が入口の引き戸をノックすると、中から「どうぞ」と明るい声が響き、それを確認した優希は静かに引き戸を開け、中へと滑り込むように入っていく。

 この保健室の主である養護教諭の座間ざまいずみは陽気な笑顔で優希を出迎えた。

 いずみは優しく陽気な性格と大人の色気溢れる抜群のプロポーションで学校内の男性の憧れの的となっている。いずみに本気で告白する男子生徒も後を絶たないとの評判も高い。女子たちにとっても頼れる姐御的存在として人気が高く、殺伐とした学校の中でいずみの存在は砂漠にあるオアシスと同じようなものであった。

 いずみは見ていたテレビの電源を切って、優希の方を向くと椅子を勧め、優希も大人しく腰を下ろす。


「お前はいつも泥棒かスパイみたいな入り方をするな。もっと堂々と入ってこれないのか?」

「すいません、いずみ先生。つい癖で……」


 いずみの指摘に優希は反射的に頭を下げるが、いずみにはそもそもそのことを深く追求するつもりもなく、「すぐに頭を下げるな。卑屈に見える」と言って制止した。優希はそれにも反応して頭を下げようとしてしまったが、いずみの言葉の意味を考え何とか踏みとどまる。


「お前のそのクセは根深いものがあるな……」

「常日頃から謝り倒して生きてますから」

「それはそれで問題だな……。時と場合を踏まえて謝るのならいいが、全てを謝れば解決するという考え方をしているのならすぐに改めろ。お前が生きづらくなるだけだ」

「わかりました」


 いずみの注意を受けて素直にうなずく優希。学食であやめと話していた時よりもずっと滑らかに口を動かしている。

 いずみはそんな優希の姿を目を細めて見つめ、次の話題に移った。


「今日も朝から結構やられたらしいな」

「いずみ先生、知っているんですか?」

「午前中に保健室に来た一年の女子が言ってたよ。今朝もまたやってました、とな」

「そうですか……」


 優希は表情を曇らせる。勿論、いずみが言っているのは南井たちのいじめのことだ。いずみは真面目な表情をして優希に尋ねる。


「手は出したのか、優希?」

「出してません。出さないと決めましたから」

「そうか……すると、今日も飛田に助けられたのか?」

「はい……いつも迷惑をかけてばかりで……」


 優希は暗い表情でうつむいてしまうが、いずみから「顔を上げていろ」と声がかかり、慌てて上を向いた。

 いずみは腕組みをして何かを思案するような表情を浮かべている。


「まあ、お前のいじめは今に始まった話でもないし、飛田がそこに割って入るのもあいつが勝手にやっていることで、どちらも私に干渉する権限があるわけじゃない。が、この問題をどうにかしないと、いつか決定的な破綻をきたすだろう。お前にとっては勿論のこと、南井たちにとっても飛田にとってもな」


 その言葉を聞いた優希の顔が苦渋に歪む。


「じゃあ、僕は……」

「結論を急ぐな、優希」

「でも……!」

「急ぐな、と言ったのが聞こえないのか!」


 声を上げて椅子から立ち上がった優希であったが、予想外に厳しいいずみの声が飛んできて言葉を詰まらせる。いずみは、こほん、と軽く咳払いをした後、仕事用の黒椅子に座り直すと優希にも着席を促した。大人しく椅子に腰かける優希。


「落ち着け優希。私は何も今すぐお前に何か行動を起こせと言っているわけじゃない。お前が『普通の人間』に手を上げたくない気持ちは、私が他の誰よりも知っているつもりだ」

「……」


 いずみは『普通の人間』という単語を強調して話したが、それに対して優希は何も言わず黙って耳を傾けている。

 いずみは優希の反応に首を傾げつつ話を続けた。


「だがな……恐らく飛田にも同じことを言われているだろうが、あれだけ手ひどくいじめを受けておいて、最初から何の抵抗もせず一方的にやられっ放し、私を含めて誰にも助けを求めず、ただただ耐えているだけというのは流石に不自然極まりない。最初はただ単に言い出しにくかったで済むかもしれないが、今の状況はそのレベルを超えている」

「誰かに……いずみ先生以外の誰かに相談してみろってことですか?」

「本来なら北栄に言うのが一番良いんだが、奴はああいう性格だからなぁ……」


 優希の問いかけに答えつついずみは嘆息した。北栄という男は最初に八束高校に赴任したころはやる気のある真面目な人間だったのだが、数年前の何時だったかを境にして急に無気力無責任なダメ人間に変わってしまった。その原因が何なのかはいずみにもよく分からないが、今の北栄には何も期待できないことだけははっきりしている。

 優希はそんないずみのことを黙ったままじっと見つめ、ゆっくりと口を開いた。


「僕は大丈夫です、いずみ先生」

「何が大丈夫なんだ、優希」

「今すぐ何かをする必要はないんですよね? 最近は体も落ち着いてきましたし、もうしばらくなら耐えられます」

「だから、それが良くないって言って……おっと、忘れる所だった」


 相も変わらずただただ耐えることしか頭にない優希の言葉に呆れかけたいずみであったが、そこであることを思い出し机の引き出しから何かを取り出す。

 いずみが取り出したのは何らかの粉薬の包みであった。全部で七包ある。


「ほら、一週間分の「レジステア」だ」

「ありがとうございます、いずみ先生!」

「ちゃんと毎日飲んでいるだろうな?」

「はい、これのおかげで随分助かっています」


 優希はいずみが「レジステア」と呼んだ粉薬を大事に懐のポケットの中にしまい込んだ。

 それを見ながら、いずみは考える目つきになる。


「それは何よりなんだが……正直、それの効果については私にもよく分からんのだよな。あの時、たまたま友人から譲り受けたそれを使ったおかげで、お前を助けられたわけではあるんだが……」

「いいじゃないですか、そういう偶然もありますよ」

「その気楽さがもう少し別な方向に出るといいんだがなぁ……」


 気楽に話す優希に、思考を巡らせていたいずみもそれを頭から放り投げて苦笑を浮かべた。

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