7

 タケシにはやらなければならないことがあった。

 星雄をブチのめす!!

 身勝手な欲望のためにマミの両親を刺しマミまで傷つけた。それだけではない。マミを自分のものにして弄ぼうとしていた。

 許さない。殺す!、殺す!!、殺す!!!、殺す!!!!、殺す!!!!!。タケシの中で殺意が臨界まで高まろうとしていた。その時、


ドスッ!!


タケシは腰のあたりに鈍い衝撃を感じた。

「タ、タケシィィィィィィ!!!!」同時にマミの涙声の悲鳴が響き渡った。

 仰向けで倒れていたはずの星雄がいつの間にか起き上がり、タケシの下腹部に凶器を突き立てていた。タケシに喰い込んだ冷たい凶器が何度も何度も体内を掻き回し、さらに奥へと向かってめり込んでくる。

「お、おまえ死ねよぉぉぉぉ!!!!」

星雄は歪んだ顔で絶叫していた。迷いのないありったけの力で包丁を押し込んできた。

 タケシの傷口からは大量の血液が噴き出し、激しく足元に飛び散っていた。ペンキでもぶちまけたかのようなおびただしい量だ。タケシの下半身は完全に麻痺し倒れ込んだ。もはや反撃することも立っていることさえ不可能だった。

 それでもタケシの闘争心は失われてはいなかった。星雄に対する殺意も失われてはいなかった。

「お前だけは絶対に殺す!!」

倒れたままのタケシの全身から黒い影が噴出した。どんどん膨れ上がり人間の3倍もの大きさの『狂獣』が禍々しい姿を見せた。タケシの殺意の塊だ。その大きさはタケシの殺意が最大級だという事を物語っている。長い漆黒の体毛が地獄の黒い焔に焼かれるように揺れた。

 星雄を睨みながら鋭利な牙のある口を全開まで開き、地獄の底まで届きそうな声で狂獣は吠えた。

「・・・・・・!!」

 星雄の動きが止まった。星雄は凝視していた。力が抜け包丁を放した。恐怖で動けなかった。全身の毛穴が開き衣服の下を滝のような汗が流れ落ちた。

 漆黒の狂獣はゆっくりと星雄に迫っていた。狂獣の牙と爪が星雄を切り裂いてやろうと狙っていた。

 星雄には訳が分からなかった。フリーズしていた。今ここで起きていることは現実なのだろうか。突如目の前に現れた巨大な漆黒の怪物に星雄の思考回路は焼き切れてしまっていた。ただ1つだけ理解できたのは、この漆黒の化け物に喰い殺される…という事だった。

 狂獣の狙いは確実に星雄だった。息づかいがわかる距離まで迫っていた。

「た…助けて!」

 星雄がそう漏らした時、狂獣は今までのゆっくりとした動きとはうって変わって、目にも止まらぬ速さで星雄の頭部に喰らいついた。そして星雄の体をまるで人形のように軽々と振り回した。

 狂獣は遂に実体化し敵対するものを攻撃するまでになっていた。人間を襲った。

「ぎゃぁぁぁぁぁ・・・・・!!!」

 星雄の身体は床といわず天井といわず乱暴に叩きつけられ、見る見るボロ雑巾のようにかわっていった。店内の椅子やテーブルがバラバラに砕けて飛び散った。星雄の身体は最後には吐き捨てられ店の窓を破って店外まで放り出された。そして警官隊の取り囲む路面に叩きつけられて転がった。

 全身血まみれだった。さらにあらゆる骨が砕けていた。意識はないが辛うじて生きてはいた。上半身には巨大な猛獣に噛まれたような牙の痕がびっしりと残っていた。

「犯人を確保!!」大勢の警官隊がピクリとも動かない立て籠り犯に跳びかかった。


 店内の狂獣は、なおも星雄を追って外へ出ようとしていた。まだ星雄を殺そうとしている。タケシの殺意が衰えない限り狂獣はそのターゲットを追うだろう。

 しかし狂獣が外に出て暴れれば大パニックになってしまう。これだけの騒動だ。警察、救急、消防そして各種マスコミが事態を見守っている。国中が事件の一挙一動を瞬きもせずに見守っているのだ。

 マミはこの狂獣を初めて見たが、タケシ絡みであろうことは容易に理解できた。タケシの全身から漆黒の影が見えたと思った直後に狂獣が現れた。現実にはあり得ないことだが、マミはもう大抵の事では驚かないと決めていた。

 裏ゲーム界の帝王として君臨したタケシがある日突如としてゲーム運を失った。サッカーゲームの指折りマッチで格下のヨシヲが攻撃する前にタケシの自爆点のみで敗北してしまうという驚愕の負け方をし、その玉座から転落し地獄に堕ちた。マミもヨシヲとデートの約束をさせられた。

 ヨシヲの女になるなど死んでも嫌だった。タケシがヨシヲにリベンジして打ち倒し救ってくれることを願った。

 しかしタケシはその後もバッティングセンターで1ゲーム中に20球もデッドボールを喰らったとか、おやつのプリンを鹿に喰われたとか…、負け人生一直線で、裏ゲーム界の帝王への復活の日は訪れなかった。

 まさに、真紅の占い師、麗羅の言った通りになっていった。

 タケシは世間から『負けの王者タケシ』と呼ばれて嘲り笑われた。それでも諦めなかった。

「自分で自分をあきらめなければ、人生に「負け」はない。」マミの父親の言葉はそれを物語る。

 ゲーム運を失ったタケシは剣道の授業中にヨシヲを暴力で倒しマミを守った。剣道と呼べるものではなく、ただの喧嘩だったらしいが…。それどころかタケシは狂気に取り憑かれたと噂になった。『地獄の狂獣タケシ』などと呼ぶ者までいた。

 それでもマミはタケシが助けてくれたことが素直に嬉しかった。そしてマミ自身がタケシの狂気を納める鞘(さや)になろうと決意したのだった。

 最近タケシとは会っていなかった。疎遠になりつつあった。

 それでも、もし今夜タケシが夕飯を食べに来てくれたら…、謝って思いを伝えようとまで思っていた。

 しかし、やって来たのはタケシではなく変態ストーカーの星雄だった。そしてこんな大事件になってしまった…。さらに星雄は身勝手な男で想像以上の変態野郎だった。

 マミの人生は、特に最近…驚きが多すぎる。

 毎回驚いていたらマミの体がもたない、次から驚くのはやめよう…何が起きても絶対に驚かない、と自分に言い聞かせた。

 そうしたら次は『狂獣』が出て来た。これまでの驚きの連続である程度の耐性が出来ていた。その経験がなければ今頃、卒倒していただろう。

 今、巨大な漆黒の猛獣がまだ闘争本能剥き出しで世間の目に触れようとしている。こんなものが世に出れば世界中がパニックに陥る。星雄以上の事件になってしまう!!。

 止めなければ。

 どうすれば良いのか咄嗟には解らなかったが「お…、おいで。こっちへ、おいで。」と、まるで犬を相手にするように恐る恐る手を差し伸べた。

 狂獣はマミに気づくとゆっくり向きを変えて近づいて来た。狂獣の躰は人間の約3倍の5メートル近くある。マミは狂獣に喰われるかもしれないと思った。

 あまりの恐怖に目を閉じた。

 狂獣は少しの間マミの伸ばした指先に鼻を近づけていた。

 タケシは少し前まで床に倒れながらも「殺す!殺す!!…」とうわ言のように呟いていたが今は静かに眠っているようだった。

 恐る恐る目を開いたマミは狂獣の躰が徐々に小さくなり始めていることに気づいた。


 警官隊が雪崩れ込んできた時、店内には体を刺されて倒れたマミの両親とタケシ、太ももに深い傷を負っているマミ、そしてその傍らには…漆黒の仔犬ほどの生物がいた。床に座り込んだままのマミに頭を撫でられていた。

「よしよし、良い子だねお前は。」

マミによく懐いていた。本物の仔犬のようにクンクンと鼻を鳴らした。この可愛らしい動物が星雄を噛んだとは誰も思わなかった。

「キミ、他に店内に大きな動物がいなかったか?」

「いいえ。」

「その動物は?」

「『たけし』はうちのペットですが、何か??」マミはこの漆黒の動物を『たけし』と呼んだ。タケシの名をそのまま付けていた。

「…」

警官はそれ以上何も言わなかった。

やがてさらに小さくなった狂獣はマミの腕の中で静かに消えていった。


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