2.
ツゲヌイが旅に出ると、サウビはやっと眠ることができる。逃げたいと思っても、生まれ育った家を一度出てしまった女が戻ることはできないし、ひとりでいる女は男に身体を売るしかない。どちらにしろ男に虐げられるしか、生きていく術はないのだ。夫もおらず当座の生活ができるだけの金を持っていれば、運良くどこかの手伝いに雇ってもらえるかも知れないが、サウビには夫があり、金は渡されていない。それならばツゲヌイが留守になる日があるだけ、まだ幸運だ。
北の森では男女も老若も区別はなかった。全員が自分のできることをしなければ生活できず、日の出から日の入りまで働いていた。貧しい生活ではあったけれども、自分だけが儲けようとか楽をしようなんて人間はいなかった。山羊をつぶした家から肉が回ってくれば、誰かがジャガイモをふるまい、おまつり騒ぎになる。手を伸ばせば何でも手に入る生活など、北の森では夢物語だ。それでも、今よりはずっと笑っていた。破れた毛織物で寒さを凌いだ日ですら、春になったらと希望を持てた。
ツゲヌイが帰ってくれば、また殴られる。息を潜めるように、なるべくツゲヌイの目につかぬように、けれども家も商売も完璧に整えなくては。完璧に整えたって、ツゲヌイの機嫌が悪ければ殴られるのだ。
とにかく今は眠ろう。そして明日は野菜スープにバターを入れて、ゆっくり夕食を摂るのだ。
ツゲヌイが留守だからといって、商売を休むことはできない。誰かがツゲヌイに休んでいたと言うかも知れないし、何よりもサウビは留守中の金を預かっていない。今日を生きるために商売をして、最低限の生活費以外はすべてツゲヌイに渡さなくてはならない。溜め込んだ金はツゲヌイがすべてどこかへ隠し、自分が必要なときだけどこかから出してくる。
ツゲヌイが留守だと知れば訪れる隣の飾り物屋の内儀が、こっそりと傷に効く軟膏を塗ってくれる。そして頑張るのよ、と声を掛けてくれる。その暖かい手は、母を思い出す。自分がもしも子供を産むことがあれば、女でないほうがいい。女でなければ理不尽に殴られたりしないし、ひとりになっても身体を売るようなことをしなくて良いだろう。
ツゲヌイが数日中に帰ってくるだろう日に、サウビは床下に隠した母のショールを干して手入れをすることにした。風を通してやらなくては生地が傷むし、何よりも自分が目にしたかったからだ。広げて虫食いがないか確認していると、飾り物屋の内儀が客を案内してきた。
「あら、素敵! とても手が込んでいるわ。高価なんでしょうね」
内儀は客より先にサウビのショールに夢中になった。
「ああ、これがいいな。妹に贈るのにぴったりだ」
内儀と一緒に入ってきた客がショールに触れようとすると、サウビは慌てて前に立ちはだかった。
「これを売ることはできません。どんなにたくさんお金をいただいても、差し上げません」
内儀と客の驚いた顔を見て、サウビは下を向いた。このやりとりがツゲヌイの耳に入っただけで、ひどい折檻を受けるだろう。そのサウビの顔を見て、内儀も事情を察する。
「ああ、サウビ。これはツゲヌイには内緒のものなのね? 大丈夫よ、けして告げ口なんかしないわ」
内儀がサウビの肩を抱いたとき、街はずれの酒場の亭主が店先に顔を出した。
酒場の亭主はサウビに伝言を持ってきた。
「今、ツゲヌイが店に来てる。酒の支度をしておけと伝えろって。塩漬け肉はあるかい、サウビ」
数日後だと思っていたのに! これを見られてはいけない! サウビは慌ててショールを丸め、縋るような目を内儀に向けた。
「お願い……これを預かって」
床下の壺に戻す時間は、もうない。ツゲヌイはすぐに戻ってきてしまうかも知れないし、それまでに酒の支度を済まさなくては。オロオロと店を片づけ始めたサウビに、内儀はショールを大切に預かると約束し、酒場の亭主はこっそりと酒を一瓶渡した。客はその様子を黙って見ていた。
三人が出ていくときに、酒場の店主が溜息交じりに呟いた。
「まったく、気の毒な娘だよ。器量も気性も人並み外れて良いのに、ツゲヌイなんかに連れてこられてさ」
誰もがサウビを気の毒に思っても、助けることはできない。サウビがひとりで生きていくことはできないし、たとえば下働き女として雇おうとする者がいても、ツゲヌイから買い取らなくてはならない。こちらから売ってくれと申し出るのならば、ツゲヌイは大喜びで法外な金額を告げるだろう。そしてまた遠い村から、新しく何も知らない女を連れてくる。ツゲヌイの父親はそうやって女を交換しながら商売をしていたし、ツゲヌイもそのときどきで違う女に身の回りの世話をさせて育ってきたことを、街の人々は知っている。
女は殴って躾けるもの、役に立たなくなれば捨てるもの。それは間違っているのだとツゲヌイが学習する時期は、もう過ぎている。誰も何も言わずに、ただ次の女がなるべく辛くないようにと、祈ってやるだけだ。
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