3. 生涯の相手
それからしばらくは、彼女は女性たちと一緒にいることが多くなった。
ときどき、誰も捕まらないときにエグリーズの近くにやってきた。
どうやら、この男は安全だと認識されたらしい。
あの男たちも、エグリーズを見かけるとそそくさと逃げ出すようになったから、ありがたい誤解はそのままのようだ。
ある日、仕事が終わってやはり井戸で使った道具を洗っていたときだ。
彼女がやってきて、すぐそこにしゃがみ込んだ。
「もう、そろそろですね」
そうぽつりと言った。
村人たちの畑仕事の手伝いを、何の苦もなくできるのだ。完治としか言いようがない。
ただなんとなく、ここが居心地が良くて、そのまま居ついてしまっただけだ。愛馬の完治を言い訳にして。
けれど、これ以上はもう無理だ。
帰らなければならない。これ以上、旅を続けるわけにはいかない。もう、城に帰らなければ。
「……数日の内には、帰ろうと思う」
「そうですか」
それきり彼女は黙り込んだ。そしてただ、農具を洗ったあとの水が流れるのを眺めている。
本当に、彼女をここに置いて行ってもいいのだろうか。
神のように崇められる一方で、死神と罵られる。安心して一人で外を歩くこともままならない。
いくらなんでもこの狭い村でこれは、つらいのではないだろうか。
「姫……、リュシイ殿」
「はい?」
なにを言おうとしているのか。馬鹿げたことだとわかってはいる。
でも命を救ってくれた人を、このまま見捨ててもいいのだろうか。
どうしても言わずにはいられなかった。
「もしよろしければ、私とともに来ていただけないだろうか」
その言葉の真意を量りかねたのか、彼女は首を傾げる。
「それは、どういう……」
エグリーズは彼女の次の言葉を遮り、矢継ぎ早に言う。
「私とともに、クラッセに帰っていただけないだろうか。生涯、あなたをお守りしたい」
言った。弾みとはいえ、けれど彼女を連れ出したいという気持ちに嘘はない。
彼女は何度も目を瞬かせ、ただぽかんとエグリーズを見つめているだけだった。
急に冷や汗がどっと出てくる。
「いや、そんな急に言われても困るだろう。考えておいて欲しい」
慌てて農具を片付ける。ちょうどそのとき村の女が井戸を使いにやってきたので、そのままそそくさとその場を立ち去る。
ふとそのとき、幼馴染の顔が浮かんだが、首を振ってその想いを振り払った。
◇
彼女からの返事は貰えないまま、数日が過ぎた。旅支度を整えて、世話になった家にお礼として幾ばくかの金子を渡す。
そして村人の馬を買い取って、一旦、国に帰ることに決めた。
幸い、愛馬は落ち着いていた。世話をしている村人たちに懐き始めてもいた。これなら心配ないだろう。
旅立ちの日には、村人総出で集まってくれた。心配そうな目をして、リュシイが彼の前に立つ。
「どうか、お気をつけて」
「世話になった、感謝する。私の馬のことだが、今は傷も癒えていないから世話を掛けてしまうが、あれは元々良い馬だ。ぜひ貰ってやって欲しい。きっと役に立つ」
彼女たちの目で見ても、あの馬が良い馬なのはわかるのだろう。「でも……」と、その申し出を受けるのを渋る。
「さきほど、あの馬によく言い聞かせておいた。必ず役に立つように、必ず姫を守るように、と。彼は了承してくれた。私にはわかる」
エグリーズが胸を張ってそう言うと、それ以上遠慮するのは逆に失礼にあたると思ったのか、リュシイは微笑んでうなずいた。
「では、私どものほうで預かります」
もしや彼女の顔を見るのは最後になるのかと思うと、立ち去りがたくなり、足を動かすことがためらわれた。
「リュシイ殿」
「はい」
「……返事は今、聞かせてはもらえないのだろうか」
返事? と、村人たちがざわざわとし始める。
彼女は目を伏せた。
「私は、この村で生きます。私では王子殿下に釣り合いません」
そこかしこで驚愕の声があがった。
まさか。自分の身分を明かしたことなどなかった。なにかわかるようなことを言っただろうか? 一目でそれとわかる持ち物でもあっただろうか?
「……どうして」
「昨夜、夢を見ました」
「……そうか」
村人たちは顔を見合わせて、そして思い思いのことを口にしている。
「ほらね、だから言っただろう」
「やはり身分の高い者だったんだ」
「俺、無礼なことを言っちまったかも」
「あー、俺、叩いちまった!」
「馬鹿だね、わからなかったのかい。あたしはなんとなくわかってたよ」
真実、そう思っていたのかどうかは定かではないが、そういった言葉が耳に届く。
「姫はこんなところで終わる方ではないと思っていたよ」
「まさに王子さまが迎えにきたのだね」
「ついていけばいいのに。そのほうが姫のためだ」
村人たちは好意的に思ってくれているらしい。
先日、リュシイを『あれ』と呼んで喧嘩していた男は、あからさまに安堵のため息をついた。他にも同じような反応を示すものがいた。
だが、彼女を姫と呼んで崇拝していた者たちまで、一緒になって送り出すことに賛成している。彼らも心の奥底では、恐怖しているのかもしれない。
やはり、この村に彼女を置いておけない。
「返事は今でなくともいい。もしその気になったらいつでも迎えにくる」
そう言葉を連ねたが、彼女は首を横に振るだけだった。
これは仕方ない。本人が望んでいないものを、無理強いするわけにはいかない。
「わかった。無理を言って申し訳なかった。でも」
そう言って、先日少女を手籠めにしようとした男たちを横目でちらりと見やる。
「もしあなたが誰かに傷つけられることがあったら、ぜひ私に言ってくれ。この命に賭けて、必ずそいつを追い込む」
二人が舌打ちしたのがわかった。効果のほどはわからないが、牽制程度にはなるだろう。
「もしなにか困ることでもあったら、いつでも私を呼んでいただきたい。あなた方は、私の恩人だ」
「はい」
彼女はそううなずいたが、隣国まで出向くことなどないだろう。
そして、少女はしばらく目を伏せた。
なんとなく気まずくなって、笑いながら言葉を続ける。
「気が変わっていただけると嬉しいのだけれどね」
しかしふとリュシイは顔を上げ、彼の瞳をまっすぐに見つめる。
「あの……、あなたの生涯のお相手は、残念ですけれど私ではありません」
いやにきっぱりとそう言った。何の話かと耳を傾ける。
「利発そうな瞳をなさった黒髪の女性が、あなたの傍にいらっしゃるでしょう」
「え?」
「細身の方です。背の高さはちょうど、あなたの胸のあたりかしら」
心当たりは、あった。しかし。
「いるにはいるが、彼女は別にそういった関係では……それに、なぜ、彼女を」
戸惑うエグリーズを他所に、リュシイは言った。
「夢で見たのです。寄り添う姿を」
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