第二章

1. セオ村

 それは、エグリーズが気まぐれに一人旅に出たときのことだった。


 彼はよく、従者も付けぬままクラッセ城を飛び出すことがある。あの閉塞的な空間が苦痛になることが多々あって、城にいられなくなるのだ。


 もちろん、王子として大切にされてはいる。しかし、やはり側室の子という立場は微妙なものであった。エグリーズが産まれたばかりのころは特にそれが顕著に表れていたらしい。


 正室にしてみれば、自分が三人の王子をあげたというのに、なぜ今さら側室が必要なのかと……なぜ若い側室が必要なのかと、口には出さないが、憤懣やるかたない思いであったようだ。

 一方、エグリーズの母親は母親で、我が息子が一番優秀であると信じて疑うことなく、エグリーズを次期国王にしたいと公言して憚らない。

 いや、疑ってはいたのだろうし、誰も相手にしなかったが、でもそれが母の唯一の心の拠り所だったのだろう。なんとしても国母になりたかったのだ。側室が正室に勝つには、それしかない。


 母は陰では涙を流すこともあった。彼女はエグリーズによく言った。


「陛下は、本当はわたくしを一番に愛してくださっておるのじゃ。わたくしたちは出会うのが遅すぎただけ。だから、あなたのことも一番に愛してくださっておるはずじゃ」


 エグリーズには残念ながら、その母親の言葉を鵜呑みにすることはできなかった。

 確かに母は愛されているだろう。そして、自分自身も。

 しかしそれは、一番、ということではない。正室のことも、他の王子たちのことも、皆平等に愛している。

 それは花を愛でるような感覚に近いのではないだろうか。薔薇も馨しく、百合も愛しい。野に咲く名もない花にさえ、可愛らしさを感じることはできる。

 それと一緒なのではないだろうかと思っていた。そしてそれは、あながち間違ってはいないようだった。


 幼いが聡明な第四王子は、そのことを理解していた。そして自分の置かれた立場も。

 抜きん出てはならない。だから、常に三人の兄を立ててきた。そして、自分自身は『どことなく憎めない放蕩息子』の役割をずっと演じ続けていた。それがいつの間にか、自然と自分の人物像になってしまったのだ。


 しかし、たまに無性に羽目を外したくなるときもある。つまらない人間関係の輪から飛び出て、外へ。

 エグリーズが一人旅に出掛けるのは、そんなときだった。最初は、王を始め、母や兄弟、大臣たちも心配したものだが、最近は慣れてきたようで特に引き止められることはない。行き先は親友のいる隣国エイゼンであることが多いのも、彼らを安心させた。


 彼女、リュシイと出会ったのも、そんな旅の途中だった。

 行き先は特に決めてはいない。エイゼン城に向かっても構わないが、他の場所に行ってもいい。いつもと変わらない、気ままな旅だった。


 その前日は雨だった。そのために道はぬかるんでいた。しかし、大したことではなかろうと旅の続きを強行したことが間違いだった。旅慣れた自分に慢心し、旅には常に危険がつきまとうということを失念していた。


 国境はとうに越えた。もうすでにエイゼン国内だ。しかし辺境の地で道も整備されていない。獣道、と言っても差し支えのない道が続く。彼が馬を操り崖道に差し掛かったとき、途端に視界が揺れた。愛馬が突然座ったのかと思った。

 刹那。

 景色が回った。

 エグリーズは愛馬もろとも崩れた崖から転落したのだった。


          ◇


 目を覚ましたとき、目の前にいたのは一人の少女だった。彼を心配そうに覗き込んでいる。

 ついに天国に来たのだ、と思った。なぜならここには女神がいるではないか。


「よかった、生きてる」


 女神はほっとしたように、誰に言うともなく、そうつぶやいた。


「待っていてくださる? 誰か呼んで参りますから」


 待っていて、と言われなくとも身体が動かない。移動するなど不可能だ。

 それは承知しているようで、少女は返事を聞くことなく、立ち上がって掛けていった。


 ……女神ではないらしい。生きてる、と言っていた。だったらここは現実の世界なのだ。


 首を巡らせると、愛馬がそこに横たわっていた。もしや死んでしまったのかと思ったが、首だけを起こしてエグリーズのほうを向いたから、生きているのがわかった。


「……お前も、無事だったか」


 しかし、横たわったまま動こうとしない。脚の骨を折ったのかもしれない。

 横になったまま見上げれば、崩れた崖と折れた木々が目に入る。たぶん、あの木々が衝撃を吸収したのだろう。重ねて、皮肉なことに前日の雨で崖下は柔らかくなっていた。そうでなくては今頃……命はない。


 少女は中々帰ってこなかった。人がいる所がよほど遠いのか、あるいは見捨てられたか。またあるいは、夢だったのか。

 起き上がろうとしたが、身体に力が入らない。骨折しているのだろうか。しかし今は痛みも感じられなかった。


 もし、このまま誰も助けに来なかったらどうなるだろう、と考えてぞっとする。

 このまま死んでしまったら、死んだことも知られないままなのだろうか。放蕩息子が気まぐれに出奔したと思われるだろうか。

 王位に最も遠い第四王子など、いなくなっても困らないのかもしれない。


 ふと、色々な人の顔が思い出された。

 レディオスは、自分の国の片隅で友人が命を落としたことを知ったら、どう思うだろう。きっと衝撃を受けるだろうから、知らないままのほうがいいかもしれない。

 幼いころから一緒にいる幼馴染は、死んだことを知ったら涙を流すだろうか。けれど彼女に泣き顔は似合わない。だったらやはり彼女にも、知られないほうがいいだろう。


 遠くから、あの少女が何人か人を連れて走って来るのが目に入った。安堵した彼は、再び意識を手放した。


          ◇


 次に目を覚ますと、見慣れない部屋の中にいた。部屋の片隅に置かれた、小さく粗末なベッドに寝かされている。

 もっとよく周りの様子を窺おうと半身を起こそうとしたが、激痛が彼を襲い、再びベッドに倒れ込んでしまった。痛みのあまり、悲鳴すらも出てこない。

 起き上がる気配を感じたのか、そのときドアが開き、あの少女が顔を覗かせた。


「動いてはなりません。大人しくなさって」


 彼女は慌てたように駆け寄ってくると、エグリーズの肩をそっと抱いて、体勢を直させる。そしてはだけた掛け布団を、また彼に被せた。


「もしかしたら肋骨が折れているかもしれません。そうでなくとも、したたかに身体を打ち付けていますもの。でも、あの高さから落ちてこの程度の怪我なのは、あなたの馬が護ってくださったのかも」

「馬……!」


 少女の言葉にはっとする。そうだ、なぜ起きてすぐに思いつかなかった? 薄情な自分に舌打ちしたくなった。


「馬……私の、馬は!」


 思わず飛び起きようとして、また激痛に襲われてベッドに倒れ込む。少女は矢継ぎ早に言葉を重ねた。


「ご心配なさらないで。あなたの馬は大丈夫です。私どものほうで預かっております」


 少女の言葉に安心して、ほっと安堵のため息を漏らす。そして改めて辺りを見回した。


「ここは……」


 痛みになんとか耐えて、そう言葉を発する。すると少女はにっこりと微笑んで返してきた。


「セオ村の、私の家です」


 セオ村。聞いたことがない。


「あなたの家……」

「ええ。だから、お気遣いなく。私の他には誰もこの家には住んでおりませんし、よくなるまでこちらで養生なさったらいいわ。ああ、でもお家の方が心配されているわね。もし連絡が取れるのであれば、私のほうから。どちらからいらしているのです?」

「私は……クラッセから」

「まあ」


 そう言って彼女は黙り込んでしまった。どうやって隣国まで連絡を取ればいいのか、思案しているのだろう。エグリーズは慌てて言葉を重ねる。


「いや、しかし急いで連絡を取る必要はない。長の旅になることは家族の者も知っている。もし完治するのが長引くようであれば、そのとき考えたい。それより、いいのだろうか? お世話になっても」

「それは構いません。神が私にあの夢を見せたのですもの。それはきっと介抱しなさい、ということなのでしょう」

「……は?」


 なにか聞き間違えたのだろうか、と自分の耳を疑った。今、彼女は何を言ったのだろう?

 エグリーズのその様子を見た少女は、ああ、となにかに納得したようにうなずいて言った。


「私は、あなたが崖の下で倒れているのを知っていました。だから、様子を見に行ったのです」

「……はあ」


 何を言っているのかはよくわからないが、それを追求する元気はなかった。

 彼女は続ける。


「困っている人を助けるのは、人間として当然のこと。私どもは、当たり前のことをしただけですから」


 私ども。そうだ。エグリーズを助けに何人かの人が来てくれていた。


「かたじけない。この身体が治ったら、必ずあなた方にお礼をする」


 そう言ったが、少女は首を横に振った。


「いいえ、どうぞお気遣いなく」

「しかし、それでは私の気が済まない」


 そう言って譲ろうとしない彼を見て、少女は困ったように首を傾げる。


「……そうですわね。でしたら」

「なんなりと言ってくれ」


 勢い込んでそう言うエグリーズに、少女は微笑んだ。


「もし私が倒れていたら、助けてくださる?」


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。金銭のことであれ、仕事の手伝いであれ、なんだってするつもりだった。まさか、そんなことを言われるとは。


「それはもちろん」

「今回助けてくれた方、全員にしておきましょうか」

「それももちろん」

「では、それで。丸一日寝ていたのですもの、お腹も空いたでしょう。なにか持ってきますね。お口に合わないかもしれませんが」


 少女は踵を返し、ドアに向かう。エグリーズは慌てて彼女の背中に声を掛けた。


「私は、エグリーズと言う。あなたは」

「私は、リュシイと申します」


 そう言って、彼女は隣の部屋へ消えていった。少しして、食事の支度をしているのであろう音が聞こえた。

 彼女と言葉を交わすと、ますますさきほどの考えが頭をもたげた。

 やはり彼女は女神なのかもしれない。


 エグリーズは改めて、部屋の中を見回した。女神の如く美しい彼女に似つかわしくない、みすぼらしく狭い部屋だった。とても裕福な暮らしをしているようには見えない。

 何度も一人旅をする内、自分の置かれた環境のほうが異常なのだということは、知った。これでは怪我人一人養うのは大変だろうということくらいは見当がつく。


 けれど彼女はそれをおくびにも出さず、彼を看病してくれた。

 彼女はよく、エグリーズが寝かされている部屋の片隅にある小さな椅子に座って、白い布を広げていた。その布を張るように丸い木枠をはめ、彼女が針を動かすと、白い布にはみるみるうちに色とりどりの花が咲いた。

 エグリーズはその様子を眺めるのが好きだった。畑仕事もしているようだが、主にはこの針仕事で生計をまかなっているのだろう。女一人が生きていくには十分かもしれないが、怪我人を養うまでには至らないように思える。


 彼女はああ言ってくれたが、怪我が完治したらなにか手伝おう、と心に決めた。おそらくこの様子では金銭は受け取るまい。

 長年王子などやってきたせいであまり役に立たないかもしれないが、自分のできる限りのことはしよう、と誓った。

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