第82話 パンドラの箱 その二



 その箱にはどこか見覚えがあった。

 どこで見たのか必死に考える。


(そうだ。黒川と出会った最初の日、美術館で……)


 それは絶望するパンドラの絵なのだと黒川は言った。あの絵のパンドラが持っていた箱だ。

 世界中のありとあらゆる災厄がつまっていた箱。最後に希望だけが残っていたという神話だ。だが、その残っているはずの希望がないと気づいたときのパンドラだと。


 絵のなかの青蘭が悲しげに微笑みながら箱をあけると、さらさらと砂がこぼれてきた。同時に龍郎たちのまわりで砂嵐がまきおこった。

 目をあけていられない。

 しばらく砂が体を叩きつけていくのにまかせる。


「青蘭……青蘭! 大丈夫か?」

「龍郎さん。どこ?」


 青蘭の声だけをたよりに歩いていく。

 しっかり手をにぎっていればよかった。絵のなかの青蘭が動きだして、おどろいたときに離してしまったから。


 手さぐりで歩いていると、誰かとぶつかった。やわらかな手が龍郎の手をにぎりしめてくる。


「青蘭?」


 龍郎も急いでにぎりかえす。

 すると、その手の持ちぬしがよりそってくる。花の香りがした。優しく包みこむような、誘うように艶やかな……。

 天使の香りだ。

 青蘭だと思い、龍郎は抱きよせた。


「青蘭。いきなり、何が起きたのかな? もう離れないようにしないと」


 さらりと羽毛のように繊細な髪の毛が、龍郎の頰をなでる。

 違和感をおぼえた。

 青蘭の髪がこんなに長かっただろうか? たしかに前髪は長めだが、それよりもっと豊かなロングヘアーのようだが……。


 ふふふとくすぐるような笑い声が聞こえた。


「ずっと……探していたの」


 ドキンと心臓がとびあがる。

 違う。

 青蘭じゃない。


 体を打つ砂嵐がいくぶん弱まった。

 龍郎は片手で目元を防御しながら、まぶたをあけてみた。


 なかば予想していた姿。

 龍郎の腕のなかにいたのは、白銀の髪の天使——アスモデウスだ。

 だが、目つきがおかしい。焦点があっていない。ちゃんと龍郎のことが見えているのかどうかも怪しい。


「なんで、アスモデウスが! 青蘭は? 青蘭はどこなんだ?」


 周囲を探すが、砂嵐のせいでよく見えない。

 龍郎が腕を離そうとすると、アスモデウスがものすごい力でしがみついてきた。青蘭でさえ少女のような体躯たいくからは想像もつかない剛力だが、それどころではない。骨がくだけそうだ。


「ちょ……離してくれ。ほんとにアスモデウスなのか? おまえが探してる天使は、おれじゃないよ」

「あなたを……探していた」


 このままでは、ほんとに死んでしまう。龍郎は無我夢中で抵抗した。右手でアスモデウスの胸をつくと、なぜか油のこげる匂いがして束縛がゆるむ。そのすきにあとずさった。


 アスモデウスは龍郎を見ていない。どこか天上の景色をながめているかのように、少し首をかしげてななめ上を見ながら、腕だけを伸ばしてきた。

 その胸に火傷のあとがある。それもたったいまあぶられたように真っ赤に焼け、血が流れていた。


(そうか。アスモデウスも悪魔なんだ。堕天したから)


 苦痛の玉の浄化の力で焼かれてしまうのか。

 愛する人の心臓にふれると、ただれる。そういう存在になりはてたのか。


 なんて皮肉で残酷な事実だろうと龍郎は思った。が、そこで気づく。

 天界から苦痛の玉を盗んだのはアスモデウスだ。その時点では苦痛の玉にふれても平気だったということだ。


 何かがおかしい。

 龍郎は狂人の目つきをしたアスモデウスを凝視した。

 ジリジリと焼けただれる傷跡から、オイルの匂いがする。この匂いには覚えがあった。ついさっきまで、この匂いをかいでいた。

 そう。テレピン油だ。油絵を描くときに、絵の具をとくために使用するオイルである。


 壊れたロボットのように立ちつくすアスモデウス。

 魂がぬけたように見えるが、もしも、もともと魂など持っていなかったとしたら……?


(長いあいださまよっていたと言ってた。ずっとつらくて、さみしくて、心細かったと。どんなに空虚だったろう。狂っても不思議はない。でも、これは……)


 龍郎は確信した。

 もしもこれが本物のアスモデウスなら、まだ体内にを持っているはずだ。時間を超えて、過去のアスモデウスに遭遇したというのなら。

 快楽の玉はアスモデウスの心臓だったのだから。アンドロマリウスが実験で青蘭に埋めこむまでは、ずっとアスモデウスの体内にあった。


 だが、今、この目の前にいるアスモデウスからは、快楽の玉の波動を感じない。偽物だからだ。


「ここは黒川の描いた絵のなかか。ヤツの結界にとりこまれたんだな?」


 返事はない。

 しかし、爛れた焼けあとから流れる真紅のものは、血ではなく絵の具だ。粘性が異なる。


 黒川の造りだした、まがいものの生命だろう。

 そうとわかれば、遠慮はいらない。

 早くこの世界から脱出し、青蘭を見つけなければ。

 アスモデウスの姿なのはやりにくいが、退魔するしかない。

 龍郎は右手に意識を集中した。


 そのときだ。

 表情のない作りもののアスモデウスが、どこからか箱をとりだした。絵のなかの天使が持っていたのと同じ箱。パンドラの箱だ。


「あなたを……離さない」


 アスモデウスの偽物が箱をひらく——

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