第八十一話 ベネフィット

第81話 ベネフィット その一



 青蘭にとって、快楽の玉は生まれたときから体内にあったもの。

 あることが正常であり、臓器の一部。

 それがないことは異常な事態なのだ。

 また、なくしたことで現実的な弊害へいがいも現れる。


 警察に訴えてもムダだということはわかっていた。

 黒川は悪魔の実験で生まれた特殊な生き物だ。アンドロマリウスの容貌を持っていることからも、彼は天使というより悪魔に近い存在である。

 人間の捜査網など簡単に突破してしまうだろう。


 だから、あとのことは神父に任せ、龍郎は青蘭を佐竹法律事務所へつれかえった。ソファーに寝かせても、青蘭はぼんやりと虚空を見つめるばかりで、まるで人形だ。快楽の玉と同時に魂までぬかれてしまったかのようだ。


「青蘭。お腹へってない? それに麻酔が切れたら痛むはずだ。おれ、痛みどめ買ってくる」


 体を切開されているのだから、鎮痛剤なしでは耐えられないはずだ。

 ほんとなら大きな病院へ入院させたいところだが、ついさっきできたばかりの手術跡を、医者にどう説明していいかわからない。

 いや、それだけじゃない。

 もしも、入院しているあいだに快楽の玉の効力がなくなったら、青蘭の変容に医師が驚愕する。研究対象にでもされると、青蘭の自由が失われてしまう。

 快楽の玉をとりもどすあいだ、青蘭の身のふりかたは慎重に考えなければならない。


「待ってて。すぐそこにコンビニがあったはずだから」


 龍郎が行こうとすると、青蘭の手が伸びてきた。龍郎の指先をキュッとつかむ。


「青蘭……」


 うつろに天井をながめる青蘭の両眼から、するりと涙がこぼれた。

 つらくないわけがない。

 これから自分の身に起こることを、青蘭は熟知している。

 以前にも経験していることだから……。


「龍郎さん……」

「うん」

「わたしのこと……嫌いになった?」

「ならないよ」

「ほんと?」

「ああ。おまえを嫌いになったりなんてしない。どんなことがあっても」


 青蘭は嗚咽おえつした。

 あふれる涙が止まらない。

 龍郎にはそんな青蘭を見つめ、手をにぎりかえすことしかできなかった。


「……今に、嫌いになるよ」

「ならない」

「だって、すぐに醜くなるよ。お金だって使えなくなったし、快楽の玉も……もうなんにも残ってない。わたしには……」

「青蘭」


 龍郎は青蘭の頰にふれ、唇にふれ、それから黙って抱きしめた。

 青蘭が龍郎の肩にあごをのせ、泣き声をかみころしている。

 こんなにも愛しい人を苦しめる黒川を、断じてゆるせない。たとえ青蘭の兄でも、あれは悪魔だ。次に会ったら、必ず滅却する。


 それ以上にゆるせないのは自分自身だ。また守れなかった。あまりにも無防備に敵の罠にハマった自分を、龍郎は憎悪すらした。


「青蘭がどんな姿でも、無一文でも、おれは君を愛してるよ。この気持ちは変わらない。永遠にだ」

「龍郎……さん……」


 泣きじゃくる青蘭を、長いこと抱きしめていた。

 快楽の玉の鼓動は感じられなくなったが、やはり天使の香りはする。青蘭自身がアスモデウスの魂の生まれ変わりだからだ。


「青蘭がそばにいてくれるだけでいい。ほかには何もいらない」

「うん……」


 泣き疲れたのか、開腹手術をされて体力を消耗したのか、青蘭はそのまま龍郎の腕のなかで眠りこんだ。


 青蘭が目をさましたときのために鎮痛剤を買ってこようと、龍郎が立ちあがったときだ。外から扉を叩かれる。


「龍郎。私だ。あけてくれ」

 フレデリック神父の声だ。


 龍郎は事務所の玄関の鍵を外した。

 神父が深刻な顔で入ってくる。

 悪いニュースだろうか?

 これ以上の悪いことなんてないはずだが。


 神父は青蘭が寝入っているのを見ると、龍郎を廊下に誘いだした。真夜中のこの時間だ。ビルのなかは龍郎たち以外の人の気配はない。ナイショ話をしても誰にも聞かれる心配はなかった。


「やはり、黒川が青蘭の兄だったな。ナイアルラトホテップの見せた幻影のなかで、私が見たのはそれだった」

「どうして教えてくれなかったんですか?」

「確証がなかった」

「そうかもしれませんが……」


 神父は龍郎を制し、話題を転じる。


「今は過去のことより、これからのことが大事だ。黒川を調べていたと言ったろう? じつは光矢製薬のバックには、ある新興宗教がついているようだ」

「新興宗教?」


 神父はうなずき、

「光の恩恵教団。ベネフィットと呼ばれている」

「ベネフィット……」


 どこかで、つい最近、聞いたような気がする。しばらく考えて、龍郎は思いだした。


「光矢製薬の化粧品に、ベネフィットっていうのがありましたね」

「そう。もっとも売れ筋の商品だな」

「でも、その商品を使用すると、人間を化け物に変えてしまう」


 龍郎は天野やよいとともに、友人の石塚綾子のマンションへ行ったときのことを話した。


「だから、おれはナイアルラトホテップが奉仕種族を作ってるのかと思った。でも、そうじゃなかったみたいだ。あれは人魚というより、トカゲに似ていた。アンドロマリウスの本性が海蛇だから、蛇神化したのかもしれない。つまり、アンドロマリウスの奉仕種族だ」


 神父はうなずき、告げた。


「ベネフィット教団の教祖の本名は知られていない。しかし、若い西洋人の男だという。おそらく、黒川だ」

「つまり、やつはそこにいる可能性がある?」

「ああ。教団の本拠地は明らかになっていないが、東京にも彼らの教会がある」

「そこへ行きましょう。一刻も早いうちがいい」

「だが、あの状態の青蘭を一人にはしておけないだろ? 看病する者がいないと」

「そうですね」


 すると、背後から声がした。

「ボクも行くよ」


 青蘭だ。

 いつのまにか目をさまし、龍郎たちの会話を聞いていたらしい。

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