第77話 化粧 その四



 龍郎の言葉を聞いて、綾子はとつぜん泣きくずれた。今まで張りつめていたものが、いっきにゆるんでしまったかのように。やはり、助けを求めていたのだ。


「泣かなくても大丈夫ですよ。心配事があればおっしゃってください」


 龍郎はふつうに説得しているだけのつもりなのに、なぜか青蘭がひじてつを叩きこんでくる。龍郎が自分以外の誰かに優しくしていると腹立たしいようだ。ヤキモチ妬いてくれるのは嬉しい。が、かなり痛い。ゲフッと変な声が出そうになるのをなんとかこらえた。


「……え、えっと。まず、ソファーに座りましょうか。そのほうが落ちついて話せるでしょう」


 やよいが気をきかせて、綾子のとなりで支えた。十五畳はあるリビングに、コの字型に置かれた高価そうなソファーへと、綾子をつれていく。

 龍郎は脇腹をさすりながら、あいてるほうの手で、こっそり青蘭の手をにぎった。


 青蘭がすばやく耳打ちしてくる。

「浮気したら殺すよ」

「しないよ。そんなんじゃないから」

「なら、いいけど」


 まったく、青蘭は可愛いなぁと思いつつ、龍郎は依頼人や綾子と直角に位置するあたりに座る。青蘭がとなりに腰かけた。


「いったい何があって、とつぜん会社を辞めたんですか?」


 泣き声が小さくなってきたところで聞くと、綾子はそれには答えなかった。感情的に切れぎれな単語をつぶやく。


「もうダメ……やっぱりあのとき……ピーリングしなきゃ」

「ピーリング?」


 男の龍郎には今ひとつなじみのない言葉だったが、やよいが説明してくれた。ジェルや石鹸などで顔のくすみをとるために古い角質を除去する方法だと。


 それで思いだした。

 退職する直前、その人たちが急激に老けこんだと、やよいは言っていた。綾子は同級生なのに、やよいの母親のように見られたという話だ。


(暗くて石塚さんの顔、よく見えないなぁ。どんな状態なんだろう? 化粧品会社に勤めてて老けるって、ふつうと反対だ)


 そのことに魔法が関係しているのではないかと龍郎は考えた。

 どうにかして、綾子の顔を見たい。

 しかし、綾子はそれを嫌がるだろう。


 龍郎が手立てを思案していたときだ。

 綾子はとうとつに立ちあがった。

 龍郎が無意識に、じろじろ見すぎたのかもしれない。

 悲鳴をあげながら、綾子はどこかへ走っていく。追っていくと、玄関とは別のドアへかけこんだ。なかから鍵をかける音がする。どうやら風呂場かトイレだ。


「石塚さん! どうしたんですか? ここ、あけてください」


 なかから、かすかにわめき声が聞こえてくる。

 やよいもドアにとびついた。


「綾子。お願い。話を聞かせて。言ってくれないとわからないよ」

「天野さん、ここは?」

「サニタリールームです。わたしも何度か泊まったことがあるので」

「だから鍵つきなのか。困ったな」


 すると、なかから、ひときわ高い悲鳴が響きわたった。


「石塚さん! 大丈夫ですか?」

「綾子! しっかりして。ここ、あけてよ」


 二人でドアを叩いていると、青蘭が言った。

「外から鍵あけられないの?」

「あっ、そうです。綾子のキーホルダーがバッグに入ってるかも」


 おそらくベッドルームへだろう。やよいが別のドアへ走っていく。しばらくして、チャームのぶらさがった鍵を持ってきた。大きいのは玄関の鍵。小型の鍵がいくつかひっついている。やよいがそれらを試していると、そのうちカチリと錠がまわった。


 急いで、サニタリールームにとびこむ。入った瞬間は暗かった。が、やよいがスイッチを入れ、とたんに明るくなる。なかのようすがハッキリと見てとれた。

 三畳はあるゆとりの空間に、洗面台、戸棚、浴室へ続くすりガラスのドアなどがある。


 洗面台の前に綾子がいた。

 こっちに背をむけている。洗面台に覆いかぶさるようにかがんでいるので、顔は見えない。

 が、正直、がくぜんとした。

 髪が真っ白なのだ。

 若白髪というにもほどがある。綾子の年から考えると、あまりにも不自然。


 ヒイッ、ヒイッと細い声をあげ、綾子は泣いている。泣きながら両手でしきりに顔をこすっていた。

 洗面台の上に化粧品のボトルが倒れていた。それがさっき説明されたピーリングジェルのようだ。


 綾子はピーリングしているのだ。

 見ていると、綾子が顔をこするたびに、すごい勢いで洗面台の上に、ボロボロと角質が落ちてくる。その量はあきらかに異常だ。


 なんだか、ゾクリとした。

 綾子の身に何が起きているのか?


「石塚さん。やめてください」


 龍郎はあわてて、背後から綾子をとりおさえた。

 すると、綾子が顔をあげた。

 おどろいて、龍郎は硬直してしまった。


 綾子の顔には穴があいている。

 いや、皮膚がごっそりがれて、その下からがのぞいているのだ。

 それは、うろこのように見えた。


「石塚さん……」

「綾子……」


 龍郎たちが絶句していると、綾子はさらに顔面をかきむしった。皮膚がピリピリと簡単にむける。まるで玉ねぎの皮を剥ぐように。

 その下から現れたのは、青黒い鱗に覆われた怪物の顔だ。トカゲのように見える。


(インスマス人——!)


 以前、何度か見たクトゥルフの奉仕種族。人魚だ。


「なんで……人間がインスマス人なんかに」


 青蘭が叫ぶ。

「ナイアルラトホテップだ! あいつの仕業だ!」


 そうだった。ナイアルラトホテップは以前にも、魔法で人を邪神の奉仕種族に変えていた。クトゥルフを召喚しようとしていたこともある。


「あのピーリングジェルが魔法の媒体か」

「そうだと思う」


 先刻、ナイアルラトホテップは龍郎たちの前に姿を現した。

 どうやら製薬会社で起こっている異変は、やつのせいらしい。


「あの……あの、綾子……どうしたんですか? わたしが狂ってるの?」


 顔をひきつらせて、やよいが笑いだす。このままでは依頼人がほんとに狂ってしまうと判断した。


「……もっと早くに助けられなくて、すまない」


 龍郎は右手をかかげた。

 神聖な光があたりに満ち、綾子の姿はかき消えた。




 了

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