第64話 毒公女 その三



「わらわの名を知らぬ者が、まさか魔界にいようとは。わが名は、アスタロト。魔界の三強の一柱なり」


 目の前の青蘭の姿が、みるみる巨大になっていく。髪が長く伸び、少女のように細身の体が、豊かな乳房を持つ女体へと変わっていった。じっさいの青蘭以上に、かなりグラマラス。

 だが、顔立ちはまだ青蘭のものだ。まぶたに濃い化粧をし、豪華な黄金の装身具を全身につけている。


「アスタロト。魔界の大公爵だ。ルシファー、ベルゼブブとならぶ魔王で、堕天使だとも言われる。でも、その起源はメソポタミア神話の女神だったんだ。古代ではオリエント全域のあらゆる女神と融合し、国家を越えて信仰された。キリスト教の布教で名をおとしめられた神だ」


 青蘭が耳元でささやく。

 もっとも悪魔は人間の思考が読めるので、アスタロトにもその声は聞こえたらしい。


「さよう。わらわは神だった。だが悪魔として名を堕とされ、醜悪な存在に変容させられた。許さぬ。わらわは今一度、神となる。神格をとりもどすのだ」


 魔王の姿は変化し続ける。

 背中に黒い竜の羽がつきだし、爪がとがり、牙が伸び、その爪と牙からは絶えず暗紫色の毒が流れている。

 下半身は大蛇の尾に、両腕は毒蛇の首になる。皮膚も腐ったような緑色へと変わる。

 顔だけが、まだ青蘭のままであることが、かえってグロテスクだ。愛しい人を侮蔑されているようで腹立たしい。


「そのために苦痛の玉と快楽の玉を奪おうとしたんだな? 思いだしたぞ。レラジェやサルガタナスはおまえの配下だ。レラジェを送りこみ暗殺しようとしたが、できなかった。だから、今度は自分でやってきたわけか」


 サルガタナスはレラジェが召使われたことで、自分の主君の仕業だと気づいたのかもしれない。女のやりくちだと匂わせていたのは、アスタロトを指していたのだ。


「さっきから、低級悪魔たちを使って、何度も『自分が青蘭だ』と嘘をつかせた。本物の青蘭に出会ったとき、おれが低級悪魔だと思って殺してしまうように仕向けた。違うか?」


「うるさいハエよのう。とく、わらわに賢者の石をあたえよ。さもなくば死ね!」


 いきなり、アスタロトの両腕が伸び、牙をむいて襲いかかってくる。巨大化した魔王の腕は、それだけで人間を丸飲みにするアナコンダより大きい。牙のさきから毒液がしたたる。


「龍郎さん。気をつけて。アスタロトの体はいたるところが毒なんだ」


 ふふふと魔王がふくみ笑う。


「レラジェに毒矢を授けたのも、わらわよ。わが毒にかかり、腐り死ぬがよいわ」


 両腕の蛇が左右から迫る。

 せめて片方だけでも攻撃を封じないと、逃げ場がない。


 龍郎は退魔の剣をかまえ、上下にゆらめくような動きをするアスタロトの右手の下をかいくぐる。かま首をさけ、切り落とそうとした。

 が、大蛇のほうが素早かった。サッと上に首を起こし、かわす。直後に百八十度急降下してきた。パックリあけた赤い口が猛スピードで迫る。


「龍郎さん! 危ない!」


 青蘭が父の形見のロザリオを高くかかげると、大蛇は一瞬、ひるんだ。

 そのすきに、龍郎は真っ赤な口のなかに退魔の剣をつっこむ。


 ギャアッとアスタロトの口から悲鳴があがり、右手の蛇は浄化された。だが、浄化の光が二の腕に達する前に、アスタロトは左の大蛇で、みずから右手を噛みちぎった。ちぎれたあとから、ふたたび大蛇の首が生える。

 ふれると腐るという毒液をたらしながら、ウネウネと近づいてくる。


「こいつ……強い」


 魔界の三強の一というのは嘘ではないらしい。


「龍郎さん。ボクも力を貸す。アンドロマリウスを使役する」

「ダメだ。青蘭」


 アンドロマリウスを使わなくても、龍郎が倒せば、悪魔の魔力は快楽の玉に吸われる。とは言え、青蘭の体の一部を渡さなくてすむだけ、まだしもアンドロマリウスの計略に逆らっていると言える。

 できうることなら、青蘭には戦わせたくない。


 しかし、そうも言っていられなさそうだ。このままでは、二人とも食い殺されるか、腐りおちて死んでしまう。


 アスタロトはヒヒヒ、ヒヒヒと笑いながら、両腕の蛇を交互につきだして、龍郎と青蘭をひと飲みにしようとする。あやういところでかわしていくが、強酸の池のすぐ脇にまで追いつめられた。もう、あとがない。


(どうする? なんとか、あの腕を切断しても、またたくまに再生する。毒液にふれただけで体が腐る)


 それにしても、ここは肉壁でできた世界なのに、なぜ、あの毒液がしたたりおちても腐らないのだろうか?

 肉だから腐るのが当然な気がするが、アスタロトの毒に耐性でもあるのだろうか?

 術者本人の作った結界の内だからか?


 この肉でかこまれた世界。

 まるで巨大な生き物の腹のなかに入りこんだような……。


(もしかして、そういうことなのか?)


 考えるうちにも、右と左から大蛇がとびかかってきた。

 こうなったら一か八かだ。

 龍郎は力いっぱい剣をつきさした。

 自分の足と足のあいだにだ。

 肉の地面に退魔の剣をつらぬきとおした。


 ぶるんと肉がふるえた。

 一瞬ののち、その部分が激しく脈動しだす。肉壁が苦しんでいる。


 やはり、そうだ。

 この結界は存在あるのだ。

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