第59話 辺土 その五



 ヘカトンケイルの足元を流れる溶岩流が、ややおさまってきた。


「ヘカトンケイル。ここから逃げだして。ここは危ないよ」


 青蘭が言うと、その言葉を理解したように、ヘカトンケイルは歩きだした。ひざまでマグマにつかりつつも、なんとか前進はできる。


「せめてタルタロスまで帰らないと。ね? 龍郎さん」

「ああ。そうだね」

「だんだん下に落とされるけど、どっかに上に行く道がないのかな?」

「アンドロマリウスが言ってたけど、リンボとタルタロスをつなぐのは無限階段だって。リンボから脱出するためには、そこしかないらしい」

「どこにあるんだろう? その階段」


 ヘカトンケイルの部屋の外にあった階段がそれじゃないかとも、アンドロマリウスは言っていた。

 もしそうなら、すでに崩れてしまっている。


 そのことを青蘭に話していたときだ。

 ヘカトンケイルがうなった。

 言葉にはなっていない。が、何事か伝えようとしているふうだ。


「こいつ、もしかして、無限階段の場所を知ってるのかな?」

「そうかもね。こいつだって自分の部屋に帰りたいだろうし」と、青蘭に言われて、龍郎はアンドロマリウスが言っていたことを思いだす。


「そう言えば、これもアンドロマリウスが言ってたけど、タルタロスは空間が流動的で位置や景観が時間経過で変動するらしい。案外、無限階段も修復されてるかもな」


 階段が修復してさえいれば、脱出のすべはある。わずかにだが希望が湧いてきた。


 それから、どれくらいマグマの川をさかのぼっただろうか。

 ヘカトンケイルのようすがおかしくなってくる。歩調が遅くなり、なんだか苦しそうだ。


「龍郎さん! ヘカトンケイルの足が溶けてる!」


 青蘭の言うとおりだ。

 巨大な指のあいだから見おろすと、ヘカトンケイルの皮膚が赤くただれて溶け始めている。やっぱり悪魔だから平気というわけではないのだ。人間より遥かに丈夫ではあるものの、その肉体は無敵ではない。


(マズイぞ。もしも途中でヘカトンケイルが倒れたら、おれたちも一巻の終わりだ)


 マグマの流れは弱まってきているものの、その上を人間が歩けるような状態ではない。地盤や岩肌もとうぶんは熱せられて、かなりの高温になっているだろう。


 なんとかしたいが、どうにもならない。

 ヘカトンケイルの体力がどのくらい保つのか、ハラハラしながら見守るしかなかった。


 しだいにヘカトンケイルの足がもつれてくる。焼けた皮膚がはがれだした。

 それでも、ヘカトンケイルは必死に前をめざし、龍郎と青蘭だけは落とすまいとしている。


 最初は醜い怪物だと思ったが、大切な宝物を守ろうとする彼のようすは、見ていて胸が痛んだ。

 アンドロマリウスもそうだが、じつは悪魔のほうが人間よりずっと一途なのかもしれない。


 やがて前方にが見えた。

 階段だ。

 最初は巨大なプロペラが天井からぶらさがっているように見えた。なぜなら、その階段は中途で折れていたから……。


「……崩壊してる」

「龍郎さん……」


 天井まで五十メートルはあるだろうか?

 ヘカトンケイルの身長でも、そこまでは届かない。

 ヘカトンケイルが手を伸ばせば、なんとかそこまで届かなくはないかもしれないが、それも指さきだけだろう。そこを起点にして、よじのぼることは不可能だ。

 となれば、ここでヘカトンケイルとは別れなければならないが、彼は自分の宝物だから、龍郎を——というより、青蘭を守っている。手放すはずがない。にぎりこまれれば、脱出するのに、そうとうの労力がいる。


(ああ、もうダメだ。おれたちに羽があれば……天使のような翼が)


 龍郎は絶望的な思いで、青蘭を抱きしめた。

 ヘカトンケイルが倒れれば、指のすきまから溶岩が流れこんでくるだろう。このまま、ヘカトンケイルの手のなかで、自分たちはゆっくりと焼かれていくのだ。


 ヘカトンケイルはなんとか階段のふちをつかもうと、何度も手を伸ばした。

 だが、わずかに届かない。


 ヘカトンケイルの足元がおぼつかなくなっている。肉の焼ける匂いがする。見ると、すでに骨が見えていた。


「龍郎さん。最期まで、いっしょだよ?」

「ああ。青蘭。愛してるよ」

「うん。ボクも、愛してる」


 こんなときなのに、気になる。

 その言葉がほんとうに龍郎に向けられたものなのかどうか。

 苦痛の玉の持ちぬしだった天使に送られた言葉ではないのかと。

 最期だというのに、どうして、こんなにも心が乱れるのか。


 すると、ヘカトンケイルがじっと龍郎たちを凝視してきた。

 とても長いこと、思案するふうだった。

 やがて、ヘカトンケイルはたくさんある腕のなかで、もっとも長い手に龍郎と青蘭を持ちなおした。

 そして、その手を精一杯に伸ばす。

 自分が上にあがることはできなくても、彼の宝物だけでも逃がそうとして——


「ヘカトンケイル……」


 もう彼の足は両方とも骨だけだ。

 立っているのも奇跡的だ。

 ふらつきながら、なんとかして、龍郎たちを階段の上に置こうとする。

 あと少し。

 五十センチほど。


 龍郎が立ちあがり、手を伸ばせば、どうにか階段の端に届いた。けんすいで上に這いあがる。


「青蘭! 手を——」

「うん」


 青蘭は龍郎の手をつかもうとしてから、ふと思いとどまったようだ。一瞬、しゃがみこむ。


「ありがとう。ヘカトンケイル」


 ヘカトンケイルの指のさきに、青蘭は接吻した。

 うおーッとヘカトンケイルが叫ぶ。

 喜びか、あるいは溶けた足で立つことに限界を迎えたのか。


「青蘭! 早く!」


 立ちあがる青蘭の手を、龍郎はつかんだ。両手でしっかりとにぎりしめる。


 その瞬間、ヘカトンケイルの体は、ぐらりと傾いた。溶岩のなかに横倒しになる。


 けんめいに青蘭を床の上に持ちあげた。


 荒い呼吸を吐きながら見なおしたときには、ヘカトンケイルの姿はもうかなり変形していた。

 それでも、彼が笑っていることがわかった。満足げに微笑みながら、巨人はマグマの川に流されていった。





 了

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