第38話 ロイコクロリディウム その六



 地面の下から巨大な何かが突きあげてくるかのように、強烈な縦揺れに見舞われる。

 立っていられない。

 何度も足が宙に浮いた。


「青蘭!」


 思わず手が離れた。

 同時に地面が裂ける。

 暗い穴のなかに龍郎は飲みこまれていった。


 気がつくと丘のふもとに転がっていた。周囲には自分しかいない。


「青蘭? 青蘭、どこだ?」


 いったい何が起こったのだろう?

 ここは、どこだろうか?

 さっきまでの林のなかか?


 似ているが、どことなく違う。

 どこがとは言えないものの、少なくとも、こんな丘はなかった。


 丘の上に石碑が見えた。

 いや、よく見ると、それはさっきのストーンヘンジのような遺跡だ。倒れていた巨石もきれいに並んでいる。


 空には異様に大きな月がのぼっていた。クレーターの一つ一つが見えるほど大きい。精度のいい望遠鏡で覗いたような月だ。

 まだ午前中だったはずなのに、あたりはすっかり暗くなっていたが、煌々こうこうと照る満月のおかげで、視界は明るい。


 月光のなかに黒々と浮かびあがる巨石群は、どこか不気味だ。手足をもがれたゴーレムのようないびつさと、血なまぐさい魔術の香りがしみついている。


 両足を広げたゴーレムの腰から下だけのような石のあいだから、丘の頂上が見えた。そこに奇妙なものが見える。黒く見えるのは影になっているからだ。


 蛇……だろうか?

 帯のようなものが長々とうねりながら蠢いていた。妙に刺々とげとげしく、尖っている。骨だけの大蛇のようだ。


 龍郎は青蘭を探しながら、丘の頂きへむかっていった。もしかして、あの不気味な大蛇に襲われていないだろうかと案じた。


 地面は深い草に覆われていたが、ところどころ岩もつきだしている。岩にはアンモナイトのような模様があった。かつて、ここは海中だったのかもしれない。


(あの夢のなかで見た光景。天使が人魚たちを襲撃してた。あの場所は海岸線だった)


 遠浅の美しい浜辺。

 だが、そこに群れていたのは人ではないものだった。

 ここが、その場所なのだと、とうとつに龍郎は直感した。


 そう。この場所だ。

 人間が生まれるより遥か昔に、天使と悪魔が争った。その地に今、自分はいる。矢じりや折れた剣の切っ先は、そのときの戦闘によってもたらされた破壊の跡だ。


 だとしたら、あの巨石の遺跡は、誰がなんのために造ったものだろう?

 もちろん、人ではない。

 あの場所に住んでいたものたち……人魚だ。


(祭壇だ! 人魚たちが邪神を讃えるための場所——)


 急ぎ、丘陵をかけあがる。

 巨石のそばまで来ると、それがなんなのか、ハッキリ見わけられた。


 蛇のように見えた長い帯は、数えきれない人魚の行列だ。

 カタツムリのように目がとびだし、腰から下が触手の化け物。全身に鱗が生えた半魚人。手の平や背中にヒレがあり、両足が魚のようになった人魚。

 そういうものたちが長蛇の列になっている。


 クリーチャーたちの行列は、丘のふもとから、巨石が円を作るサークルのなかへ続いていた。

 サークルのまんなかには一枚岩の大テーブルがある。そこが祭壇だろう。


 背の高い柱のような巨石の陰に隠れ、龍郎は、さらにサークルに近づく。大テーブルの上を見て、心臓をつらぬかれるような痛みが走った。


 俎上そじょうの鯉のように、青蘭が祭壇に乗せられている。服をまとっていない。真珠のような白い肌をさらして、犬の姿勢で両側から押さえられていた。押さえているのは全身を黒い衣で隠した人物だ。人かどうかもわからない。


 そして、のろのろと進む竜の背骨のような長い行列は、そこを目指していた。

 醜い人魚たちは祭壇まで来ると、一体ずつ、青蘭にぶつかっていく。つかのま腰をすりつけ、激しくゆさぶって奇声を発する。そのまま、祭司の手で首をはねられた。


 この場合、はたして、どちらが生贄いけにえなのだろうか?

 青蘭?

 それとも、首をはねられる化け物?


 青蘭の体から、またあの光が発していた。快楽の玉が悪魔の血を吸収して、青く輝いている。おそらく、祭司たちは快楽の玉に生贄の血を集めようとしているのだ。


 青蘭の美しい裸身は、またたくまに返り血で真っ赤に染まる。人魚たちの血を浴びて、恍惚の表情を浮かべる。


 あの目だ。狂った女の目。

 アスモデウスが目を覚ましたのだ。


 龍郎は祭壇に走っていった。

 怒りが塊になってつきあげると、それは右手から剣の形をとって現出した。


 龍郎は無我夢中で人魚の群れを切りふせた。祭司はあわてて逃げていく。だが、衣のすそがもつれて、ぶざまに地面に倒れる。


 龍郎は次々と押しよせる人魚を切り裂きながら、青蘭を抱きよせた。青蘭ではない青蘭を。

 アスモデウスはいつものように、侮蔑をふくんだ目つきで龍郎をながめる。


「……邪魔しないで。愚民」

「…………」


 ほんとに、これも青蘭なのだろうか?

 青蘭はアスモデウスの魂が転生した姿なのだという。

 だとしたら、この淫欲に狂った堕天使も、青蘭の一部なのだろうか?


「アスモデウス」

「離しなさい。愚か者。あなた、以前にも、わたしのお魚ちゃんたちを殺したでしょ? わたし、あなたのこと嫌いよ」

「…………」


 龍郎は悲しい気持ちで彼女を抱きしめた。かつて天空で輝いていた智天使のなれの果てを。


 深くくちづけると、ほろ苦い涙の味がした。

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