第23話 緋色ひとひら その三



 髪や着物が水を吸い、女の体にベッタリとまといつく。ダラダラと雫がしたたりおちる。


 さっきまで、そこに女はいなかった。

 露天風呂には、龍郎と青蘭の二人きりだった。いかに水が濁っていようと、人間が一人、入りこんでいるかいないかくらい、明確に見わけがつく。


 なのに、いつのまにか、女はそこにいた。入口から入ってきたとしたら、龍郎たちが気づいたはずだし、どこかに隠れて二人をやりすごす広さはない。


 マズイ——と、龍郎は思った。

 あきらかに、霊だ。

 悪魔の匂いを感じなかったが、きっと龍郎たちが浮かれていたせいだろう。


「青蘭」

「うん」


 青蘭もそれに気づいていた。

 急いで帯を結び、板場を出る。


「追ってくる?」

「どうだろう」


 ふりかえってみるが、温泉から出てくる人影はなかった。

 龍郎たちは、ほっとして廊下を進む。とにかく、風呂場で女に襲われる事態だけはさけられた。


 背後をうかがいながら、回廊のところまで来た。つないだ青蘭の手に、ビクッとふるえが走ったので、龍郎は前を見直した。


 ガラス戸越しに、異様な光景が広がっている。さっき通ったときは花が咲き、蝶が舞い、極楽のような景色だった。なのに、今そこは、まったく別の様相に一変している。


 椿は変わらず花をつけていたが、その花がボトリと音たてて落ちると、すぐさま小さな人間の首に変わる。斬首されたような武者の首が、うんうん唸りながら、中庭のあちこちに積もるように転がっているのである。花の落ちた木の枝は、その部分からタップリと血がしたたり、木の幹をぬらしていた。


「助けてくれぇ」

「まだ死にたくない!」

「嫌だぁ。ここからつれだして……」


 うめき声が空間にうずまき、念仏のように聞こえる。


「これ……全部、霊なのか?」

 龍郎がたずねると、青蘭は首をかしげた。

「なんだろう。今までとは何か違う。誰かの結界のなかかもしれないけど……むしろ、異次元みたいな。ボクらのほうが来てはいけないところに——彼らの世界に迷いこんでしまったのかもしれない」

「彼らの世界って?」

「わからない……けど、この世とあの世の境、みたいな」


 青蘭が青ざめている。よほど、いつもと勝手が違うのだろう。口調が自信なさげだ。


「たぶん、ボクらが呼びよせたんだ」

「おれたちが?」

「そう。ボクらに、すきがあったっていうか。幸せいっぱいで浮かれてたから」

「えっ? そんなことで?」

「表裏一体とか、バカと天才って紙一重って言うよね? あれだよ」

「なんだ? それ」

「だから、極端に真逆なものって、直線上は両端だけど、円にしたら隣りになる。ここが、あまりにも天国に近い場所だったから、正反対の別の場所に通じてしまったの……かも?」


 天国の逆。つまり、地獄だ。

 たしかに、中庭はすっかり地獄へと変じていた。幹をつたって流れる血が池を作り、渦をまいている。血の池のなかを生首が無念の涙をこぼしながら、ごろごろ転がっている。ガラス戸にひっついて、恨みがましい視線をこっちになげてくる。


 今にもガラス戸がやぶれそうに軋んでいた。ガラスが割れて血があふれてきたら、どうなるのだろうか? 血の奔流に龍郎たちも足をとられて、流されて……。


 龍郎は青蘭の手をにぎりしめ、回廊をかけだした。だが、何度、かどをまがっても、玄関に通じる廊下が見つからない。それどころか、走るたびに、空間が飴細工のように伸びる、あのイヤな感覚に襲われた。走れば走るほど、正しい道から引き離されてしまうかのような……。


「空間が閉ざされてしまった」と、青蘭は宣告する。


「じゃあ、どうしたら外に出られるんだ? 結界なら、その結界を作った悪魔を倒せばいい。でも、ここがただの結界じゃないんだとしたら?」

「わからない……」


 龍郎たちは立ちつくした。途方に暮れてしまう。

 ガラス戸の向こうは、もはや限界のようだ。天井近くまで、赤黒い血で満杯になっている。ガタガタ、ガタガタとガラスが悲鳴をあげる。


 やがて、どこかでピシリと不吉な音がした。血の海が流れこんでくる。とたんに廊下は川になった。ごうごうと流れる急流だ。


 逃げようにも、回廊の両側から血の川が押しよせてくる。龍郎は一瞬で足をとられた。しかし、青蘭の手だけは離さない。水流にさからい、必死にたぐりよせる。


(青蘭。おまえといっしょなら、たとえ死んでも……)


 ゴボゴボと、かなさびくさい水が鼻や口から入りこんでくる。血液のようにドロドロした液体だ。とたんに息が苦しくなる。


 龍郎は懸命に青蘭の体を抱きよせた。


(青蘭。おまえといっしょなら、たとえ地獄でも、おれは幸せだ!)


 体が重くなる。

 きっと、このまま溺れてしまうのだろう。人間はあまりにも、もろく、弱い。


 悪魔にちょくせつ触れることさえできれば退治もできる。が、ただの怪異には、なすすべがなかった。


 青蘭も苦しんでいるだろうか?


 龍郎は最後にひとめでも青蘭の姿を見たいと思った。青蘭と二人でなら、死の瞬間も満ちたりた思いで逝ける。


 だが、目をあけた瞬間、龍郎はあわてふためいた。ドロリとした血を透かして、目の前に見えたのは、青蘭ではない。まったく別人の顔だ。

 あの女である。

 宿の案内をした無愛想な女。

 そして、露天風呂のなかに着物のままつかっていた霊。


 龍郎は「わッ」と声をあげ、女の手を離した。濁った水のなかで、女はニヤリと笑った。

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