第21話 ラビリンス その十二



 光がとぼしい。

 屋外だというのに、月も星も地上を照らすものがない。遠く屋上の出入り口に一つだけ、壁にはめこみの電灯がついていた。貯水タンクのせいで、その光も満足には届かない。


 おかげで、もつれあっている二人の姿は判別できない。黒いシルエットとしてしか見わけられなかった。


 しかし、背の高い男が自分より少し小柄な男にむかってメスをつきつけていることは見てとれた。メスだけが外灯の明かりを受けて、いやにギラギラ輝く。


 かけよる龍郎に気づくと、襲われている男は必死で、こっちに這いよってくる。

「た、助けてくれェー!」

 恐怖のあまり、声が裏返っている。


 龍郎は懸命に走るのだが、なぜか、男まですぐそこなのに、なかなか行きつけない。まるでルームランナーの上を走っているかのようだ。オートウォークを逆走するほうが、まだ早く走れる。


 メスの銀色の光が軌跡を描いた。

 ふりおろされ、ギャッと声があがる。

 殺されたのだろうか?

 いや、違う。

 わあわあと泣きわめく声が続いていた。


「やめろッ!」


 やっと、手の届く距離まで来た。

 すると、メスを持った襲撃者は、きびすを返して逃げていく。

 顔は見えなかったが、一瞬、胸の奥にひっかかるものがあった。


「おい、大丈夫か?」


 殺人鬼を追うのは諦め、倒れている男にかけよる。近づくと、男はものすごい力で龍郎の腕をつかんできた。


「いてェよ。いてェよ。刺された。痛い。痛い。痛い」


 間近で凝視すると、男が誰なのかわかった。最上だ。苦痛に歪む哀れっぽい顔でさえ小憎らしい、最上耀大に他ならない。


「なんだ。助けるんじゃなかったかな」


 思わず、龍郎の口から嫌味がもれる。かなりお人よしの自覚はあるが、最上が青蘭にしたことを思えば、今ここで一発なぐってやりたいところだ。

 どうやら、最上や冴子もこの空間に飛ばされてきてはいるようだ。


「青蘭。どうする? コイツを助けるか?」

「ほっとけば?」


 青蘭は龍郎より、さらに冷たい。もと恋人を見るとは思えない冷淡な瞳で見おろしている。

 まあ、それも当然と言えば当然だ。青蘭が身も心も、もっとも傷つき、誰かにすがらないではいられなかったときに、手痛い裏切りで去っていった男だ。


 しかし、最上はコンクリートの上を這いながら近づいて、青蘭の足をつかんだ。


「助けてくれ。青蘭。おれとおまえの仲だろ? てか、おまえがおれを捨てることなんかできないよな? あのこと、バラされたくないだろ? おまえが、ほんとは——」


 ウンザリして、龍郎は怒鳴りつけてやろうとした。が、青蘭が龍郎の手をとり、ひきとめる。


「こんな人、ほっとこう。このままにしとけば、さっきの男が帰ってくるんじゃない? トドメを刺されればいいんだよ」


 そう言って、青蘭は最上の手をふりほどいた。龍郎の腕に両手をからめ、出入り口のほうへと歩きだす。最上はあせったようだ。


「ま、待ってくれ! 青蘭。なんでだよ? ほんとのおまえを理解できるのは、おれだけだよ。青蘭!」


 なんとか立ちあがったものの、最上は足を負傷しているらしく、思うように歩けない。よろめき、足をひきずっている。


 さすがにこの状態の最上を置き去りにすることはできないと、龍郎は考えた。ほんとうに、さっきの男が帰ってきたら、今度こそ殺される。

 神父もそう思ったようで、しかたなさそうに最上に肩を貸した。


 龍郎は安心して、青蘭とならんで前を歩く。出入り口のドアは、さっき、ここに来たときのまま、まだ開けはなしになっていた。ドアをくぐると、少しだけ明るさが戻ってきた。階段に小さな電球がついている。


「さっきの男、誰だったんだろう? なんで、みんなを襲ってるんだろうか?」

「ボクの分身かも……」

「いや、そうじゃない。さっき見たんだ。相手は背の高い男だった。少なくとも、おれと同じくらいの身長はあった」


 青蘭は、ほっとした顔つきになった。

「そうなんだ」


 青蘭が自分を虐げた人たちを、死ねばいいと思うのは当然だ。青蘭の絶望は、彼らに百回殺されるより深かった。それでも青蘭は、以前の記憶のなかの自分の心の暴走かもしれないと思ったとき、良心の呵責を感じていたのだ。


 つらく忌まわしい記憶のせいで屈折してしまったけれど、本来の青蘭はとても慈悲深く優しいのだと、あらためて龍郎は感じた。


 最上がブツブツとつぶやく。

「山羊……だった」

「えっ?」


 驚いて、かえりみる。

 最上は、かたく手をにぎりしめあう龍郎と青蘭を、恨みがましげにながめる。それから、ふいに下劣な品性をむきだしにした。


「青蘭。おまえが夢中で抱かれてた山羊だよ。アイツと同じ目をしてた。獣くせえ化け物にあんなことされて、おまえ、汚えよ。キモイよ。そいつは知ってるのか? おまえがほんとは化け物の仲間なんだって!」

「龍郎さんは、あなたとは違う」

「そんなわけあるかって。コイツだって、おまえの財産に目がくらんでるだけさ。バカだな。まだ信じてるのか? 人間なんて、みんな同じだって、イヤってほど見てきたろ?」


 龍郎は我慢の限界に達した。

 殴ってやろうとゲンコツをにぎりしめたときだ。


 どこからか悲鳴が聞こえてきた。

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