第9話 魔女のみる夢 その九



 それはとても小さな鉄の箱だった。

 大きさは指輪のケースくらい。

 それに、ダイヤルがついている。

 ひじょうにミニマムではあるが、どうやら金庫のようだ。


「怪しい! それだろ? 絶対、怪しいよ」

「ですよね」

「そのなかに入るとしたら、けっこう小さいよ。宝石とか、メダルとか、印鑑とか」


 龍郎が祖母から渡された賢者の石。

 欠けてはいたが、おおよそ丸い形はしていたから、完全だったなら直径三センチから三・五センチくらい。四センチまではなかった。

 それを入れておくにはピッタリの箱だ。


「このダイヤルが鍵になってるんですね。開かないなぁ」


 青蘭は夢中で手の内の箱をいじっている。ダイヤルをまわす音がカチカチと虚しく響く。

 あげく、夢中になりすぎて、かがんだ拍子に龍郎の上に倒れてきた。

 龍郎たちはおりかさなって床に落ちた。絨毯じゅうたんがとびきり柔らかくて助かった。怪我はなかったが、一つだけ困ったことがある。


 青蘭の可愛いお尻をつきつけられて、立派に男の反応を示していたものの上に、その可愛いお尻がしっかり乗っかってきたのである。

 もちろん、青蘭は龍郎の反応に気づいた。龍郎をクッションがわりにしたまま、上からチロリと覗きこんでくる。


 青蘭は笑った。


「あれ? そうなんだ。ちゃんと男なんだ」

「バカ。どけよ」

「三ヶ月もいっしょに暮らしてたのに、なんにもしないから、不能なんだと思ってた」

「違うよ。これはちょっと……」

「なんで? ボクとやりたいんでしょ?」


 そう言って、青蘭はいやらしく腰をくねらせる。動きがちょくせつ伝わるので、龍郎の理性はどこかへふきとんだ。半身を起こして、青蘭を抱きしめる。


「おれは、おまえが好きだよ。恋人になってくれますか?」


 勢いで告白するが、そのとたん、青蘭の表情がこわばった。龍郎をつきとばして、とびのくように立ちあがり、あとずさる。


「え? ちょっと……青蘭?」

「……嘘つき」


 つぶやいて、青蘭は主寝室へ走っていった。なかへかけこむと、カチャリと鍵をかける音がする。

 あわてて、龍郎はあとを追った。


「青蘭? なんでだよ? おれは嘘なんかついてない。ほんとに、おまえが好きだよ? これまでの助手はおまえの体が目当てだったかもしれないけど、おれはおまえがイヤなら、ムリじいはしないから」


 だが、返事はない。

 かたく閉ざした扉のむこうから、かすかに泣き声が聞こえてきた。




 *


 なんだか、わけがわからない。

 なんで、好きだと告白しただけで嘘つき呼ばわりされなければならないのだろうか? しかも泣かせてしまった。

 ほんとうに好きなのに?

 自分の命より、青蘭を守りたいと思っているのに?


 よくわからないが、青蘭のなかのふれてはいけない地雷をふんでしまったのかもしれない。


 龍郎の言葉が、青蘭にはまっすぐ伝わらなかった。愛しているという人間の持つもっとも純粋な気持ちも、青蘭にはいびつな感情の一つでしかないというのか。青蘭の心の闇の深さをまざまざと見せつけられた気分だ。


(青蘭。おまえの心は、まだあの炎のなかに囚われているのか? おれはおまえの体だけはつれだせたけど、心までは助けだすことができなかったってことか?)


 どんより気分が沈んで、性欲どころではなくなった。

 青蘭が閉じこもった主寝室のドアにもたれて、すわりこんでいると、一時間ばかりもして、ようやく泣き声がおさまった。遠慮がちに扉がひらく。すきまから青蘭の泣きぬれたおもてが覗いた。


「青蘭」

 声をかけると、うなだれる。

 このまま消えてしまいそうだ。

 龍郎は伸ばしかけた手を抑えた。青蘭が嫌がるなら、もうこの話は二度としまいと心に誓った。


「ごめん。忘れて」

「…………」


 青蘭はうつむいたまま、浴室へむかっていく。龍郎はだまって見送るしかなかった。


 青蘭に嫌われてしまったのだろうか?

 もし顔を見るのもイヤだと言われれば、心残りではあるが、距離を置いて青蘭のもとを去るほうがいいのかもしれない。


 そこまで決意していたのだが、浴室から出てきたあと、青蘭はいつもの調子に戻っていた。


「龍郎さん。ディナーにしますか? 部屋を片付けさせないとね。そのあいだ、一階のレストランに行く?」


 ニコニコしているので、龍郎はため息をついた。青蘭の相手は普通の感覚ではできない。

 青蘭が多重人格だからだろうか? さっきまで泣いていた青蘭は、今の青蘭とは別の人格なのだろうか?

 龍郎の知らない“青蘭”が青蘭のなかにいて、その“青蘭”は表面にいる青蘭が笑っているときも、ずっと泣き続けているのだろうか?


(やっぱり……ほっとけないなぁ)


 龍郎はフロントに電話をかけて部屋の掃除を頼むと、青蘭と二人でホテル内のレストランに行った。もちろん、料理はこの上なく美味だった。

 だが、気分は晴れない。さっきのことのせいで、となりで青蘭が笑っていても、ほんとの青蘭は泣いているような気がしてならない。


(おまえの心が粉々に砕けているのなら、全部集めて一つにしてやらないと。じゃないと、どんなにおれが真心を見せても、おまえはおれを嘘つき呼ばわりするだけなんだな?)


 悲しい気持ちで贅沢きわまりない晩餐を終えた。部屋の掃除に最低でも二時間はかかるだろう。バーによって少し飲んだ。青蘭は飲もうとしなかったが。


「お酒を飲むと、アスモデウスが出てくるんですよ」

「……そうか」

「ねえ、龍郎さん」

「うん。何?」


 青蘭はカウンターの下で、おずおずと龍郎の服をつかんでくる。

 青蘭は何も言わなかったけれど、その手が告げているような気がした。

 どこにも行かないで、ボクを一人にしないで——と。

 青蘭のなかにいる、ほんとうの青蘭がささやいたように……。

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