第41話 男性経験ゼロ

見覚えのある3階建ての建物の階段を上り、2階の事務所らしき部屋に入る。


「宮下さん……、また鍵もかけずにでたのですか?」


綾乃が不用心だと言う事は、以前、来た時に岸本も言っていたが、そのうちドロボウに入られるのではないかと心配になる。


「取られて困るものなんて何もないのよ、ここは データもアプリも全てクラウド上にあって、パソコンはネットに繋ぐことができれば良いだけの安価なものだし、現金、貴重品の類も何も置いていないわ」


確かに、この事務所の殺風景さは度を越しているとさえ思える。



「えーと、川本さん。仲が良いのはいいけど、そろそろ森岡君の腕を開放して、そちらのテーブルに座ってもらえるかしら? パラメーターへの記入をお願いしたいの」


愛莉が、いつまでも僕と腕を組んでいるのに業を煮やしたのか、綾乃はノートパソコンを持ち出しながら、愛莉に着座を促した。


愛莉は素直に応じる。


「私が独自に開発したパラメーターを設定することで、よりクライアントに適した家庭教師を斡旋でようになっています。だから、川本さんも正確に記入して頂戴」


「川本さん。パラメーターは結構な量があって、一時間くらいかかるんです。僕も待っていますから、自分のペースでやってください」


「ありがとう、森岡君」


愛莉は、僕を見上げてニコリと笑った。少し上目遣いになると、益々可愛い。

僕は、思わずデレてしまう。



「森岡君」


綾乃の声が冷たく響いた。



「ちょっと、良いかしら?」



「はい。あ、川本さん。少し宮下さんと話があるから、続けていて」


僕は、愛莉に一声かけると、綾乃に連れ立って事務所の物陰へと入る。

愛莉は、チラリと一瞥しただけでパソコンに向かって入力作業を続けていた。



「森岡君。私が今、どんな心境か、分かっている?」

「はい、約束を反故にしてすみませんでした」

「そうよ、私、森岡君が誘ってくれるのを待ってたんだから」


綾乃はチラリと愛莉の方に目をやると、彼女から隠れるように、身体を僕に寄せてきた。

綾乃の高級そうな香水の匂いが、近くなる。


(うっ、ち、近い……)


今にもキスできそうなくらい、綾乃は距離を縮めてくる。


「それより、すこし変わったわね。男らしくなった、のかしら?」

「あ、宮下さん。近いです……」

「だって、こうしないと川本さんから見えてしまうわ」


愛莉から、僕は完全に見えない位置にいるが、綾乃は少し見えてしまう。僕もできる限り身体を壁に寄せた。


すると、さらに綾乃が身体を寄せてきて、僕たちはピタリと身体を密着した状態になった。ヒールのせいもって、綾乃の身長は僕と変わらない。身体を密着させると柔らかい感触が直接伝わってくる。



「今、日程を決めて!」綾乃が小声ながら強い調子で決断を促す。僕はいつしか、綾乃の背中に手を回していた。


綾乃も僕の肩に手を添えて、二人は抱き合うような体制になっていた。


「今度の土曜日、僕の家庭教師が終わってから、どうでしょう?」


「いいわよ……」綾乃は返事をすると、少し顔を離す。


これは、僕にも最近、空気というものが分かるようになってきた。綾乃は今、キスをしたいと思っている。


僕は、そう確信した。しかし、すぐそこに愛莉もいる。心臓がバクバクと鳴った。


が、僕は行動に出る。綾乃の頬に手を添えると、綾乃はゆっくりと目を閉じた。

僕は綾乃の唇の位置を確認すると、目を閉じ、唇を合わせた。


数秒、唇を合わせた後、僕たちは一旦離れる。


「ひどいわ、こんなことをして……」


綾乃が眉をひそめる。


(しまった! 早まったか!?)


僕は、もしかしたら破廉恥なことをしてしまったのだろうか? 不安が過ったが、直ぐに綾乃の言葉の真意は分かった。


「デートよりも先にキスを経験するなんて……、森岡君が私のファーストキスの相手よ」


(え? ハジメテって?)


「私、男性経験、ゼロなの」


綾乃の声は心なしか震えていた。



「ねえ、もう一回して」


綾乃は再び目を閉じる。僕も応じて、再び唇を重ねた。


僕の肩にかけた綾乃の指先に力がこもる。物陰に隠れて身体を意識して密着させているが、愛莉に気付かれないか気が気でなかった。


「あ、宮下さん、川本さんがいるし、この辺で……」


唇を離すと、綾乃は恨めしそうな目で僕を睨みつけた。


「川本さんって、森岡君のカノジョなの?」

「え、ち、違いますよ? どうして?」

「だって、腕を組んでたじゃない。単なる友達って感じじゃなかったわ」

「あ、あれは、人が多かったし、はぐれない様にしてただけです」


一応、モルモットとしての位置付けだけど、美栞というカノジョはいるが、そんなことは言えない。


「そうかしら? じゃあ、誰が森岡君をオトナにしたのかな?」


「そ、それは……、色々あって……」


佳那と不倫関係にあることも、とても話せたものではなかった。


「まあ、良いわ。土曜日、じっくりと尋問してあげる」


僕は、少し土曜日が怖くなった。綾乃の質問攻めは、裁判での被告人に対する尋問並みかもしれないからだ。


「少しここにいて。一緒に戻ると、川本さんが不審に思うでしょ」


そう告げると、綾乃は事務スペースの方へ戻ってい行った。僕は、その場で呼吸を整え、さっきまでの行為で始まっていた生理現象が収まるのを待った。



事務スペースに戻ると、綾乃は何事もなかったように自分のデスクに戻り、パソコンに向かって仕事をしている風だった。


僕が戻ると、愛莉は一瞬だけ僕に目をやり、すぐにパソコンへと向き直った。

パチパチとキーボードが響く部屋の中で、先ほどの綾乃の言葉を思い出していた。


『私、男性経験、ゼロなの』……、まさか綾乃が処女だったとは、驚き以外の何ものでもなかった。しかも、キスさえも経験がなかったとは……。


今更ながら、僕は綾乃の事を良く知らない。僕の中の綾乃は、美貌と才能を併せ持った才色兼備の美女で、スタイルも抜群な、神様からいくつも与えられたものを持っている、高嶺すぎる花だ。


そういえば、綾乃は何歳なのだろう? 女性の年齢を気にするなと、初めてのコンパの日に不倫研究会の先輩である高橋に言われたことがある。


しかし、僕は今、綾乃の事を凄く意識している。





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