第70話 これからの僕の苦労

「ただいま……」


「にーちゃん、おかえりー」


 帰宅した僕を、まず出迎えてくれたのは亜由美だった。

 色々あったけれど、ひとまず真里菜は栄養面についての改善を前向きに行ってゆく、という形でまとまった。生活習慣というのはそう簡単に変えられるものというわけではなく、どのような悪習慣であれすぐに改善してしまうと、逆にストレスが溜まってしまうのである。そこで、まずは食生活について、現状やや暴食傾向にあることを改善する方向になった。

 色々とそこで話もまとまり、まぁ僕にとっても良い結果になったと思う。

 しかし、そのあたりの話の方針をまとめるにあたり、色々と時間がかかってしまったのだ。既に現在の時刻は、午後六時が近くなっている。


「にーちゃん、ごはんー」


「そこで少しでも自分で作ろうって発想はないのか」


「だって、うちのご飯を作るのはにーちゃんでしょ?」


「お前の中で僕が兄なのかご飯を作る人なのか一度話し合う必要がありそうだ」


 はぁ、と小さく溜息を吐いてキッチンへ向かう。

 我が家の夕食は六時からと決まっており、前後しても五分以内である。そして、既に六時という定められた時刻において、僕に残された猶予は僅かに十五分だ。

 そして育ち盛りである亜由美は、それだけ量も食べる。この小学生に間違われそうな小さな体のどこに入ってゆくのかは激しく謎だが、割と多く食べるのである。さらに、十五分しか猶予がないということは、ご飯も炊くことができないのだ。


 大きく息を吸って、吐いて、冷蔵庫の中身を確認する。

 食材としては、それなりに揃っているはずだ。一応、買い物に行かなくてもそれなりに食事を作ることができるように、野菜は十分に買い溜めしてある。

 そして、十五分しか時間がない以上、僕の選択肢など決まっている。


「亜由美、コンロ用意して」


「えっ」


「僕は野菜切ってるから、コンロのガスの確認だけして。あとは皿とお箸並べて」


「わー! お鍋だぁーっ!」


「うん」


 冷蔵庫から野菜を取り出し、洗ってからざく切りにする。

 鍋というのは良いものだ。野菜を切って、出汁を沸かして用意すればそれなりのものが作れるのである。そして野菜はあまり食べない亜由美だが、鍋とおでんだけは話が別だ。むしろ野菜が主役となってくれるこの二品については、嬉しそうに食べてくれるのである。

 まぁ、亜由美も成長期だし、野菜をしっかり食べてほしいというのが僕の願いでもある。


 亜由美が嬉しそうにコンロを運んでゆく中、キッチンのガスコンロへと空の鍋を乗せて、冷蔵庫の中から取り出した出汁を入れて沸かす。

 塩と醤油で味を整えれば、あとは野菜から旨味が出てくれるはずだ。手抜きと言われたらそれまでだが、さすがの僕も十五分で食事を用意することなどできない。

 切った野菜をそれぞれボウルの中に入れて、沸いた鍋の中に投入する。白菜、シメジ、椎茸といった火の通りにくい食材から先に入れて、すぐに火が通る長ネギやニラは後から入れる。豆腐や肉に至っては、野菜に火が通ってからでいいだろう。

 それなりに鍋の体になった時点で火を止めて、今か今かとコンロの前で座している亜由美の前に鍋を置く。

 あとは、携帯用コンロの火力で沸かせば食べられるだろう。


「わーい! おっなっべ! おっなっべ!」


「まだ、ちょっと時期は早いかもしれないけどね」


「でも最近寒いし、ちょーどいいよね」


「〆はおじやな。冷凍ご飯あるから」


「うん!」


 肉と豆腐を投入し、火が通れば完成だ。

 この時点で六時三分。僕の、今日の夕食のミッションも無事に達成と言っていいだろう。

 帰り道の長話さえなければ、これほど急いで夕食を作る必要もなかったというのに。


「はぁ……明日からどうしようかな」


「どったの、にーちゃん」


「何でもないよ。食べな」


「うんー。白菜おいしー!」


 もっしゃもっしゃと鍋を食べてゆく亜由美と共に、僕も野菜を口に運ぶ。

 やや薄味だが、鍋の場合はそれでいいのだ。取り皿のポン酢につけて食べるタイプの我が家の鍋は、それほど濃くする必要がない。野菜を美味しく食べることができて、その上で満足することのできる鍋は最高だ。体も心も温まる。


「はぁ……」


 しかし、僕の心を占めるのは、そんな鍋の美味しさばかりではない。

 むしろ、明日以降のことに悩んでしまうのだ。今後どうしていこうか、と。












 聖マリエンヌ女学院からの帰り道。

 結局真里菜は、部活の仲間たちに勝手に抜け出したことを謝罪してから、帰路についた。とはいえ、僕のようにバスで来たというわけではなく、行き帰りはお迎えだということだった。当然ながら、そんな送り迎えを行うのは絶賛ニートの梨央奈さんである。


「武人くん久しぶりねー」


「ええ、ご無沙汰しています」


 そして僕はバスで帰ると言ったのだが、せっかくだから乗っていきなー、と梨央奈さんに誘われて同乗させてもらうことになった。

 まぁ、僕としてもバス代が浮くし。数百円とはいえ、節約することに意義があるのだよ。


「姉さん……申し訳ありません。私は、負けてしまいました」


「まぁ、仕方ないわよね。時には負けることもあるわ。勝負の世界だもの」


「私の体が、これほど鈍くなっているとは、考えもしませんでした」


「だって、わたしの部屋のお菓子の備蓄、ほとんど食べたの真里菜ちゃんじゃない。わたし、そんなにお菓子ばっかり食べて大丈夫かなって心配してたのよ」


 心配してたのなら止めろよ。そう言いたい気持ちを堪える。

 だが、実際に食生活に対しては、限りなく改善の必要があるだろう。少なくとも、ジャンクなお菓子からは手を引いてもらう方が良いと考える。


「じゃあ、もうわたしの部屋のお菓子は食べないでね」


「……」


「せめて、善処するとかそういう答えがお姉ちゃん聞きたいなぁ」


「申し訳ありません。本当に、自分が耐えることができるのか……それが、わからなくて」


「うーん……」


 聞きながら、僕も考える。

 確かに、今までストイックが過ぎた部分は多々あったのだろうけれど、その反動が大きくなっているのだろう。

 今まで食べることのなかったお菓子を食べ、今まで食べることのなかった普通の食事を食べていた――それを、いきなり元の食生活に改善するというのは、そう簡単にできることではないだろう。


「ですが、武人から良い方法を聞いたのです。油を使わず、低カロリーで自作することのできるポテトチップスの存在です。私は、これがあればあと百年戦える」


「……それ、誰が作るの?」


「……」


「……」


「いや、真里菜さん?」


 何故僕を見るのか。

 せめて真里菜、そこでやる気を出してはくれないものだろうか。


「ふーん……まぁ、真里菜ちゃん女子力低いもんねぇ」


「……」


 女子力、という言葉と共に、真里菜の肩がぴくりと動いた。

 もう必要ないと、堂々と宣言したのに。まだ少しくらい拘りがあるように見える。

 だけれど、そんな真里菜の態度に対して、梨央奈さんが運転をしながらぽん、と手を合わせた。両手を離すと危ないから、せめて片手はハンドルを握っていてほしい。


「そうだわ」


「どうしましたか、姉さん」


「いいことを思いついたの」


「……」


 どうしよう。

 僕にとって面倒なことである予感しかしない。だって梨央奈さんだし。


 そして、そんな僕の予感は外れることなく。


「武人くんに、毎日のご飯とお菓子を作ってもらえばいいじゃない」


 そう、楽しそうに梨央奈さんが言った。

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