chrono-31:無力は、ゼロ…無から生まれる無限なるものの巻


 それから先の事は、夢だったのか、何だったのか、よく分からない。


 身体中の筋繊維がほどけて、それらが全部、雨を吸い込んでしまったかのように、俺の身体は重く、動かそうと思っても動かなかった。両膝を芝生に降ろしたおふくろの、胸の中に頭はまだかき抱かれたまま、俺は正座でお辞儀をするような恰好で、ただ両腕は身体の脇にだらりと下げたまま、首は力なく左方向に向いたまま、半開きだった瞼も口も閉じれないまま、ただ崩れ落ちているままだった。


 俺は……どうなる。網代田アシロダ 天史タカフミは……いま、この瞬間からこれから、どう、生きればいいのだろう……


 奥行きをどの方向にも感じさせないような、暗い、紺色の大空間に、独り放り出されてしまったような気分だった。そしてそこにはもう、俺以外の誰もいない。


 みんな、そうなのだろうか。みんな、心の中では、意識の中では、孤独、なのだろうか。


 耐えられそうになかった。あの時からいつも、俺の中にはアスカがいた。アスカがいてくれたから、俺は生きてこられた。一度は身体の一部を貰って、そして精神の一部を委ねて。


 それがたとえ、自分の中で膨大な選択肢を紡いで創りあげた、架空の「人格」だったとしても。でも俺はでも、脳の演算力の三割くらいをそれに注ぎ込んでも、まだ、全然足りないような気がしていた。もっとリアルに、もっと「生きて」いるように。……万全を尽くそうとしたそれはだが裏目に出てしまい、そしてそれが最終的には、アスカを追い込んでしまったのかも知れない。


 想定以上に人格としての「自我」を持ち、すべてを把握しただろうアスカはでも、俺に主導を戻すことはしてこなかった。


 俺が、崩壊してしまうだろうことを、きっと心配してくれたんだろう。そしてその上で、人畜無害な人格「アシタカ」を創生し……さらには記憶をバラして封じるために、三十二の破片に分かたれてくれたんだ……女として成長していく自分の人格との折り合いをも付けるために、かも知れない、そこはもう、分からないが。


 そうして生まれた「来野 明日香アシタカ」。図らずも、アスカの名前を引き継いだ、人格……俺を、生かすために創り出された人格。乾坤一擲のその「策」で、一時は落ち着いたかに見えた。思えた。が、


 しかしある瞬間から、アスカは自分の作った三十一の「人格アシタカ」が破綻していくことに気づいてしまった。「精通」による心と体のバランスの崩壊。事故を未然に防ぐために咄嗟に出た「抑制していた能力」を使うことにより綻び始めた「人格群」たち。俺はまた意識の混沌に堕ち込んでいってしまったのだろう。


 だからそれを修復し、さらに記憶だけは沈めておくために、人格同士を戦わせて、都合のいい人格へと作り変えていこうとしたんだ……あくまで「自分」の意思で「統合」したかのように。「アシタカサーティーン」……そう呼ぶのが正しいかは分からない。が、【成長力】を秘めたひとつの断片に、すべてを託して。それが、俺のためになると信じて。何だよ、お前も大概じゃねえかよ……


 そんな、傍から見たら崩壊も崩壊のはずの俺を、周りのヒトらは皆、騙して付き合ってくれていたんだろう。いや違うな、ずっと、見守ってくれていたんだ……


 俺は、孤独じゃあなかった。


 内面にも外面にも、自分には支えてくれる「手」が、あったんだ。支えが無かったらすぐに倒れ潰れてしまうほど弱く、ありあまる才能を、「能力」をうまく使いこなせないまま、ただあの日の無力だった子供のまま、精神の空間の中で胎児のように身を丸めて外界を拒絶していた俺を。


 受け入れていてくれたんだ。みんな。「来野アシタカ」を、来野アシタカであることを受け入れてくれていたんだ。その背後に、来野明日香も、網代田天史も感じながら。不意に「能力」の陰に隠れながら現れてくるアシロダ……「俺」の出現に、おののき慌てることはあっても。……大概過ぎんぞ、そんなことが、そんなことが……出来るのかよ……そこまで受け入れてくれるなんてことが……


 ……俺は何をしなければならない? 俺に出来ることは、何だ?


 いつまでも、ここでくずおれている、場合じゃないはずだ。


 全身の感覚を探るように意識を走らせてみる。まだ自分の身体が自分のものじゃあないようなそんな感じだ。だが、確かに感じている。俺が俺であることを。


 よろよろとおふくろの身体から離れながら、芝生の上に立ち上がる。目を閉じる。意識を自分の内に向けてみる。紺色の空間はもうそこには無かった。


 透明度が高すぎて、奥行きが見通せないほどの青い空と、光を反射して煌めいている黄金色の、膝上くらいまで伸びる稲穂がこれまた地平線の先まで続いてんじゃねえかくらいに三百六十度広がっている光景。遥か遠くにはぎゅっと固まってそのまとまりまとまりが一つひとつの生物に見えるような緑の森と、それら全部を抱くような緩やかな斜面の青黒い山々。


 心象風景って奴なのか、これは。こんなにも俺は今、穏やかな意識の中にいるのか。空虚じゃあない。何かが満ちている世界。ちょっと自分にそぐわな過ぎる気もして少し鼻から息をついてしまうが、いちばん大事なことを……自分の足が地についているということを確認して、少し満足する。と、


「……!!」


 黄金の波の遥か向こうに、いくつもの人影が動いて見えた。それぞれが米粒みたいな大きさだが、俺にはそれが誰か分かった。細かく数えなくても「三十二人」であることも分かっていた。


 こちらに歩いて近づくにつれ、三十二のそれぞれが重なって十六に、八に、四に、二に。


「かえろう」


 向かって右側の柔らかな微笑を浮かべたのは、サーティーンか? なんか、お前にほとんど押し付けちまって悪かったな……でも「かえる」って言われてもこの全方位だだっ広いところからどの方角に行けばいいんだよ? と、ふわり風が俺の頬を撫でる。


「かえるのよ、自分に」


 左側の少女の微笑みは優しく、そして力強かった。そして「還る」という文字が意識の上に浮かんだ瞬間、俺はとんでもない喪失感に全身を貫かれていたわけで。それでも両膝に掌を突いて何とか踏みとどまる。もう立ち止まっている場合じゃない。これからはもう、ひとりで、歩いていかなきゃいけねえんだ。


 けど、だけど。最後の最後、これだけはやっておかなきゃあならない。俺はアスカの手を握ってびっくりした顔を横目に引きずるようにして走り出す。穂をかき分けながら。娑婆へと続いているだろう方角目指して。間に合ってくれ。


「……」


 目を開けると、雨上がりの緑のにおいを感じた。だがどこか薄皮一枚被ったような感覚。よし。よかった。これでいい。俺はそのままのぼんやりとした意識のまま、ただ立ち尽くす。曇った視界には、こちらを心配そうにのぞき込んでくるおふくろと明日奈、そしてその後ろでこちらから視線を外して腰か何かを伸ばしている親父の姿が入っているが。


 はたして、俺の意を汲んでくれたのだろうか。内側から突き動かされるようにして、俺の口は、声帯は、いや身体全部が、俺の意思とは別のものによって動かされていく。


「おかーさん、おとーさん、なーちゃん」


 確かに俺の声だったが、俺じゃあない「声」に、目の前の三人が一斉に目を見開いてこちらを見た。


――わかってるかもだけど、明日香だよ? ちゃんと、なーと一緒の十四歳の。時間が無いから手短にでごめんだけど、ありがとう、って伝えたくて。


 明日香の声は、俺の内側から響いてくるようにも、途切れた雲の隙間から降り落ちてくるようにも感じられた。


――たかくんが、『明日香』になっても、『アシタカ』になっても、変わらずに接してくれてありがとう。みんなの協力がなかったら、とっくに壊れてた。でももう大丈夫。『大丈夫』って思ったから、たかくんは目覚めたんだから。


 明日香の声は、流れるように舞い上がるように、その場を満たしていった。そこに居合わせた全員の、心にこびりついた何かを洗うかのように。


――私は本物じゃないってこと、もちろん分かってるよ。でも……でもね。たかくんが自分の意識の中で、毎日、いちにちじゅう、それこそ毎分毎秒? ずっと『私なら』ってイメージしてトレースし続けてくれてたんだよ? それってもう、ひとつの『人格』、ひとりの『人間』って言ってもいいんじゃないかな? 私はそう思う。そして私はたかくんと一緒に育ってきたんだっ……おとーさんおかーさんに、ちゃんと育ててもらってきたんだっ、て今でも思ってる。思っているの。


 両手で口のあたりを押さえ、全身を震わせ始めたおふくろの華奢な両肩を、でかいツラを不気味に歪ませて何かに耐えてるような親父が後ろから支えている。


――途中で「アシタカ」に変化しても、それはずっと思ってた。ごめんね、ちょっと扱いづらい感じで。たかくんに似ないように似ないようにって考えてたら、あんな風になっちゃった。私は結構気に入ってたけどね? なーちゃんもアシタカに優しくしてくれて、慕ってくれてありがとう、うれしかったよ。


 首元に衝撃。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を俺の頬に擦り付けるようにしながら、全身で抱きついてきた明日奈の、おねえちゃん、おにいちゃん、と何度も呼び続けている震えた泣き声が鼓膜を振動させる。そして、


――しっかりやれよっ、『来野 天史タカフミ』っ……私の血が流れてるんだから大丈夫。家族がいるから大丈夫。みんながいるから……きっとだいじょうぶ。


 明日香……ッ!! 引き留めようと手を伸ばした自分を押しとどめる。見えないはずの、その影が、俺には見えた気がした。それが宙に浮いて、舞い上がっていくのも。自分の身体の中で、何かがほぐれていくのを感じた。感じてしまった。


――じゃあね、そろそろかえらなきゃ、だね。うん。みんな元気でっ。えーと、たかくん、ぱぱままなー、ばいばい……っ


 声がやんだ。


 気が付くと、いつの間にか、四人ともが、お互いの身体を探るように引き寄せ、抱きしめ合っていた。雨で濡れた体に、互いの熱を感じている。


 もう一度、腕の中の明日奈の身体をしっかりと抱きしめる。俺の左肩にしがみつくようにしているおふくろの手を自分の手で包む。右方向から伸ばされている長くごつい腕はさりげなく外していくが。


 明日香は俺の中にいる。ひとりだけど、ひとりじゃあないんだ。それが俺はようやくわかってきたよ。遅っ、とか言われるかもだけど。


 これからも、いろいろあるだろう。つらいこともどうにもならない哀しいことも、ぶつけどころのない怒りも、自分を無力に感じるしかない絶望も。


 だけど俺はもう逃げない。全部を受け止めて、嚙みちぎって吞み込んで、それを「自分」としていってやる。


 見上げた空に、都合よく虹までは架からなかったものの、差し込んできた太陽の光はその場の全員を包み込んできていて。


 まるで清浄な、黄金の稲穂の中にいるような気がした。

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