40.卒業

 桜の蕾が微かに見え始めた初春の三月上旬。今日は3年生の卒業式の日だ。

 式自体はもう終わっていて、今は先輩たちの最後のホームルームが終わるのを後輩一同コートで待っている。毎日ともに練習をしたこの思い出のあるテニスコートで先輩たちに感謝と別れを告げるためだ。

 卒業式に先駆けて一週間前にはこのコートでお別れ試合を敢行し、先輩たちと最後のテニスを楽しんだ。毎年の恒例で3年生と1、2年生に分かれて団体戦形式で対戦をした。結果は後輩チームの圧勝だったけど先輩たちはみんな清々しい顔をしていた。その姿を見ていたら先輩たちはみんな心底テニスを楽しんでいるんだなって思えてきて、なんだか俺まで楽しくなってきた。

「先輩たちまだですかねぇ」

 もう待ちくたびれたと言わんばかりなのは久保ちゃんだ。手に持っている小さな花束をちょこちょこと触っては「暇です」アピールをしてくる。そんなにたくさん触ったら花が痛んじゃうって。

「確かに遅いけど、先生や友達と写真を撮ったり、最後に話したいこととかいろいろとあるんだよ、きっと。先輩たちとしては最後の機会だから時間がかかるのはしょうがない。後輩としては気長に待ってあげよう」

「そうですね」

 物分かりはいい。

「それより先輩、最近愛先輩とはどうなんですか?」

「どうって、なにもないけど」

 はぁ、と目に見えるような大きなため息をつかれた。

「せーんぱい、デートくらい行ったらどうなんですか。なにかアクションを起こさないと乙女心はすぐに離れていっちゃいますよ」

 久保ちゃんにはいろいろと感謝はしているけど、この手のことはしょっちゅう言われているからさすがに耳にタコができた。

「分かってるよ。でも、そういうのは都大会が終わってからにするって決めているんだ。それまではテニスに集中する。テニスを目いっぱい楽しもうと思うんだ」

「なんですかそれ。まぁいいですけど」

 そう言ってどこかへ行ってしまった。ホントに自由な子だ。

 そうこうしているうちに各部の3年生たちが校舎から出てきた。サッカー部や野球部の先輩たちはグラウンドに集結している後輩たちの元へ向かい、音楽室からは華麗な演奏が聞こえてきた。もちろんテニス部の先輩たちも次第にコートに集まってきた。先輩たちはみんな今日という日にふさわしい晴れやかな顔をしている。

「集合!」

 先輩たちの前に並ぶ、といっても今日は和やかムードだ。いつものようにきっちり列はつくらず、先輩たちの顔が見える位置に各々が立つ。

 これが先輩たちに見せる在校生としての最後の雄姿だ。安心して旅立ってもらえるように胸を張ったけど、目が合った金子先輩からは「肩に力が入りすぎているぞ」とジェスチャーをされ少し笑われた。

 テニス部送別の会は、小田原監督、それから先輩たちを代表して元キャプテンの金子先輩と馬淵先輩に一言ずつもらい――相変わらず遠坂先輩は涙もろくて、金子先輩が話している頃にはもう号泣していて先輩たちみんなから笑われていた――最後に在校生を代表して俺と光野が送別の言葉を述べた。

 3年生たちには本当にお世話になった。特に俺なんてテニスを始めた頃からつきっきりで教えてもらった先輩方も多い。それに一緒に試合を戦った思い出は決して忘れられないものだ。今までの感謝を精いっぱい込めて送別の言葉を送ったけど、それでも気持ちとしてはまだまだ足りないくらいだ。

「金子先輩」

 送別の会が終わり先輩たちが順々にコートを後にしていく中で、俺は先輩を呼び止めた。

「先輩、本当にお世話になりました」

「おう。……なんだか前よりもいい顔つきになったな」

「そうですか? でも最近、テニスを楽しむようにしているんです。練習は相変わらずきついですけど、でも楽しくやってます。そうしたらいろいろと肩の荷も下りてきて楽になったっていうか。それにみんなも強くなってるから頼りがいもあって、練習にもすごく熱が入っていて――ってすみません、俺ばっかりしゃべっちゃって」

 しまった。先輩と久しぶりに話したもんだからつい止まらなくなってしまった。でも先輩は優しく微笑みながら、「いいよいいよ」と言ってくれた。

「うん、やっぱりお前にキャプテンを任せてよかったよ。この調子なら大丈夫そうだな」

「はい! 必ずやりきってみせます」

「いい返事だ。3年生になってからはあっという間だぞ。なんてったって数ヶ月しかないからな。だから悔いの残らないように、やり残したことがないようにな。がんばれよ!」

 金子先輩は俺の肩を力強く叩いて「じゃあな」と言うと、コートを去っていった。先輩の背中は、練習中には後輩という立場から、試合中にはペアという立場から、幾度となく見てきた。いつだって大きく、頼りがいのある背中だった。俺には先輩ほどの技量もリーダーシップもないけれど、先輩から選んでもらったことを誇りに胸を張ってやりきろう。

 その偉大な背中にもう一度頭を下げ、「ありがとうございました!」と感謝を告げた。先輩は振り返らずに右手だけを高く掲げた。その指先の間を三月の風が吹き抜けていった。



 卒業式から二週間後、テニス部は春合宿に来ていた。ここで嬉しいことが一つだけあった。合宿中に開催された部内戦のダブルスで遂に堂上・土門ペアに勝利し、初めて優勝を飾ったのだ。あれだけ念願の勝利だったっていうのに意外にも嬉しさが爆発するようなことはなかった。そりゃもちろん嬉しかったことに変わりはないけど、なによりも〝テニスを楽しむ〟という俺たちペアの新たなモットーを体現できたことの方が喜ばしいことだった。試合は逆転に次ぐ逆転の超接戦で、最後の最後までどちらが勝つか分からない展開だった。いつもならそんな接戦の時はたちまち勝利へのプレッシャーが顔を出していたけれど、〝テニスを楽しむ〟ことを第一に心がけていたら、むしろいつもより余計な考えをしなくなって試合に集中することができた。もちろんそれが負けてもいいことにはつながらないけど、緊迫する状況でこそ楽しんでプレーした方が俺にとっては力を最大限引き出せるカギになったのかもしれない。

 堂上や土門はこの前の私学大会でも素晴らしい成績を収めていた。堂上は個人戦シングルスでなんと優勝。土門も1年生ながらベスト4と大躍進。二人以外にも南がベスト8、ダブルスでは山之辺・川口ペアがベスト16、女子では光野・石川がベスト8にまで駒を進め、吹野崎の大躍進という結果になった。その結果を受けてか――

「この部内戦で絶対土門に勝ってみせる」

 鼻息を荒げながら南は因縁の相手をカッと睨む。土門もそれを感じ取っているのか全然南の方を見ようとしない。この二人の試合前はいつもピリピリしている。

 いよいよ来月下旬から都大会が始まる。団体戦のS2の座は毎回この二人が熾烈な争いを繰り広げているけど、南はまだ一度もその座を手にしたことがない。その上、次の都大会が俺たちにとって最後の大会になる。きっとこの部内戦で土門に勝てなければレギュラーにも選ばれない。南はそう思っているんだろう。南からはこの試合にかける強い強い執念を感じる。

 南はこれまでの長い間、苦楽をともにしてきた仲間だ。つらく苦しい練習も一緒に乗り越えてきた戦友だ。できれば一緒に試合を戦いたいと思っている。でも、それはきっとこの試合に勝たないと実現できないことだと俺たちも分かっている。だから――

「南」

「ん?」

 コートへ向かう南は振り返らずに足を止めた。

「全力でな」

 後ろから微かに見えた横顔はうっすら笑っているように見えた。

「おう。勝ってくる」

 案の定、試合は壮絶なラリー戦となった。二人とも気持ちの入った激しい打ち合いを繰り広げる。

 コイツにだけは負けたくない。

 この試合に勝って団体戦に出る。

 言葉にせずとも二人の気迫がビシビシと伝わってくる。闘志と闘志が真正面からぶつかり合う、文字通りの死闘。いつもは他人の試合なんて気にも留めないあの堂上ですら、じっと二人の試合を見つめるほどだ。

 キープされたらキープし返す。ブレークされたらブレークし返す。サービスエースも、スマッシュも。そして遂に――

 最後の1ポイントが決まると南はその場に倒れ込み空を見上げた。そして天高く拳を突き上げると、「よっしゃーー!!」と勝利の雄たけびを上げた。始めて土門から勝利を手にした瞬間だった。たかが部内戦の一試合とは思えない雰囲気に周囲が驚く中、それまでじっと試合を見ていた堂上が二人に向かって称賛の拍手を送った。それに続き俺も、ハルも、そして全員が二人を労う。

 それには南も驚いて上体を起こした。そして目の前には激闘を繰り広げたライバルが立っており、南に手を差し出していた。南はその手を取り立ち上がった。二人は笑っていた。

 それから数日後、白鷹が全国選抜で準優勝を収めたと聞いた。四ヶ月前の試合で俺たちに勝ってから、白鷹は東京都選抜、関東選抜と勝ち上がって、遂には全国制覇に手をかけるところまで行っていたのだ。それを聞いた瞬間は悔しさが込み上げてきたけど、同時になぜかワクワクするような気持ちもあった。

「俺たちも負けてられないな」

「そうだね。がんばらないと」

「でもまずは――」

 ハルと顔を見合わせる。なにが言いたいのかはすぐに分かった。

『テニスを楽しむ』

 ニコッと笑って、タッチを交わした。

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