22.継承

 初戦のあった日から一週間が経った。俺たち吹野崎はあれから順調に勝ち上がり、今日は六回戦を迎えていた。

 初戦のダブルスは0―3と一時は大きく差をつけられてしまったけど、俺の動きも次第によくなり始め、0―3からなんとか粘ってタイブレークの末に辛くも勝利を手にした。続くS1、S2は圧勝だったから結果から言えば俺たちが負けていたとしても試合には勝っていた。でもあの勝利があったから、二回戦、三回戦と勢いに乗ることができたし、それに自信も持つことができた。だから初戦で粘って逆転勝ちできたことは俺にとって本当に大きなことだった。

 今日の相手は第8シードの開地実業だ。この試合に勝てばベスト8進出。去年、不動先輩たちが惜しくも涙を呑んだ舞台だ。一年越しにまさか自分が同じ舞台に立てるとは思ってなかったけど、先輩たちの雪辱を自分の手で晴らせるチャンスなんだ。絶対に勝ちたい。

『吹野崎ファイトー!』

『開地ファイトー!』

 五月中旬とは思えないほど今日は暑い。太陽の光は時間とともに鋭さを一層増し、露出している皮膚をジワジワと焼き尽くしにくる。帽子がなかったら熱中症で倒れてしまっていたかもしれない。バックのみんなもタオルを肩にかけて、止めどなく流れ出てくる汗をしきりに拭っている。

 でもそんな暑さなんて感じないくらい、試合の方が熱かった。

「4―4か。まだいけそうか、桜庭?」

「もちろんです!」

 スコアからは両者の力が均衡しているように見えるかもしれない。でも実際に戦っていて感じる。強い。

 テニスはサーブ側が有利なスポーツだけど、タブルスはシングルス以上にそれが顕著だ。相手はサーブの優位性を活かして自身のサービスゲームを毎回難なくキープしているけど、俺たちはデュースで競り勝ってやっとキープできたという展開が多い。つまり、少なからず実力差があるということだ。

 でもなんとかここまで食らいついてこれているんだ。実力では劣っているかもしれないけど、戦術や持ち前の粘り強さでは引けを取っていない。これは相手にも絶対プレッシャーになっているはずだ。だから集中だけは決して切らしちゃダメだ。

 今日の相手はノッポと帽子のペアだ。二人はこれまで戦ってきたペアと違って、ポーチへ積極的に出てくるペアだ。特にノッポが前衛の時はその長いリーチの網に何度も捕まった。普通、ポーチはペアの後衛が打ったボールが相手コートの深くに決まった時に出るものだけど、ノッポはそんなことお構いなしにガンガン出てくる。きっと俺のボールスピードが遅いからポーチに出やすいんだ。帽子の強力なストロークも、ノッポがポーチに出る際の追い風になっている。

 最初はノッポのポーチに何度も捕まり押される展開が続いたけど、次第に相手の動きも視界に捉えられるようになってきた。ノッポがポーチに出てくるタイミングが早い時にはストレートを抜いたり、手の届かないところへロブを打ったりして、簡単に相手のペースに引きずり込まれないように打ち分ける。ボールスピードは遅いかもしれないけど、その分頭を使えばいい。

 今日の俺は相手の動きもしっかりと見えているし、プレーも落ち着いてできている。応援してくれているみんなの顔もちゃんと見えている。自分でも驚くほどに。

「ゲーム吹野崎――」

「よしっ!」

 キャプテンのサーブが際どいところに連続で決まり、甘く返ってきたリターンを俺がポーチに出て決める。サービスゲームをキープしてキャプテンが雄叫びを上げた。

 すごい。キャプテンのサーブ、試合が進むにつれてどんどん精度が上がってきている。集中力が高まっている証拠だ。

 これでゲームスカウントは5―4。勝利に王手をかけた。

 しかしキャプテン同様、相手も試合が進むにつれてサーブの精度、威力をともに上げてきたもんだから俺は返すのがやっとだった。キャプテンサイドのリターンで粘るもサーブの優位を崩すことができず、このゲームも相手にキープされた。

 5―5。

 ここからは二連続でゲームを取って7―5とするか、6―6になってタイブレークを制するかのどちらかしか勝利への道はない。

 次は俺のサービスゲーム。勝利へはキープが絶対条件だ。

「ここまで来たら思いっきりやろう!」

「はい!」

 パンッとハイタッチを交わした。俺もキャプテンも力強く互いの手のひらを叩いた。普通なら「いてっ!」って叫ぶくらいだけど、今は互いに力が注がれたような感覚だ。よしっ、やってやる!

 サービスラインに立って一つ深呼吸をしてから、ポン、ポン、ポン、とボールを三回地面につく。

 これが俺のいつものルーティン。これをやると心が落ち着く。一瞬の戦いが連続するテニスにおいて、心の落ち着きはなによりも大切だ。相手が打ってきたボールの回転や軌道、相手の位置や味方の位置を素早く察知して、どのコースにどんなボールを打っていくのか、どう攻めていくのか、どうゲームメイクしていくのか、コンマ数秒のうちに判断を下してポイントを積み重ねていく。心が落ち着いていないと冷静な判断を下すのなんて不可能だ。

「15―0」

 よし。今のはいいサーブだった。相手の甘くなったリターンをキャプテンが前で決める、一番理想の形だ。

「15―15」

 でも俺のサーブはスピードがない分、少しでもコースが甘くなると相手につけ入る隙を与えてしまう。

「30―15」

 今度は厳しいコースにサーブが決まり、ラリーも粘って相手のミスを引き出すことができた。俺にはパワーやテクニックがない分、こうやって地道に返し続けてチャンスを待つことが勝利への近道だ。

 ただ相手もそう易々とはポイントを取らせてはくれない。強烈にスピンのかかったボールやスピードの遅いスライス、逆に速いフラットショットで俺を揺さぶってくる。その度に俺も対応を変えなければならない。スピンでコートの外に追い出されるボールに対してはロブでつないで、遅いスライスに対しては前衛の動きを見ながらクロスの深いところを狙って、フラットショットには――

「30―30」

 大量の情報を一瞬で処理して答えを導き出すことは、たとえ心が冷静でいたとしても容易なことではない。しかもこういった大事な場面での判断ミスは命取りになる。あっ――

「30―40」

 しまった! 言ってるそばからミスしてしまった。5―5の30―30。さっきキャプテンからも「次のポイントが試合の明暗を分ける」って言われたばかりだったのに。……少しビビったかな。プレーが消極的になっていたのかもしれない。

 ここまで互いに自分たちのサービスゲームはキープし続けている。つまり、ブレークでもされたものなら一気に均衡が崩れて窮地に立たされることになる。そして今、まさにブレークされそうな状況だ。相手ペアも、相手バックも、今までにないくらいの盛り上がりを見せている。

「切り替えだぞ、桜庭」

 キャプテンからボールを二球手渡された。キャプテンと話す時だけは不思議と周囲のボリュームが一気に下がって、キャプテンの声だけがよく聞こえるようになる。

「すいませんキャプテン。ものすごく大事な場面だったのに」

「過ぎたことを悔やんでも仕方ない。大切なのは同じミスを繰り返さないために〝次をどうするか〟だ。いいな?」

「はい!」

「大丈夫だ。今日のお前は落ち着いている。周りもよく見えているし、相手にもよく食らいついている。だからここはもうひと踏ん張りだ」

 キャプテンが差し出してきた手を俺は強く叩いた。パンッ、といい音が出た。

 よしっ、と気合いを注入してからサービスラインに立った。深呼吸を一つして、ポン、ポン、ポン、とボールを三回地面につく。

 サーブのコースを一目してトスを上げた。打つ瞬間に「アッ!」と声が漏れる。サーブは狙い通りワイドに入った。ただ相手の帽子もそれを読んでいたのかフォアで回り込んできた。リターンが深い。差し込まれた。この体勢の悪いまま返したら確実に前衛にいるノッポの餌食になってしまう。ここは――

 ストレート方向にロブを打った。ノッポは……なんとか越えた。ただリターンが力強かった分、合わせるだけの貧弱な返球になってしまった。帽子にも余裕で追いつかれ、相手は前衛と後衛で左右の位置をチェンジさせた。帽子は俺の力ないボールをクロス側にいる前衛のキャプテンに向かって強打してきた。でもキャプテンはそれをものともせずクールにブロック。再び帽子にボールが返る。今度はストレート方向の俺につなげてきた。俺も帽子へ返す。そこからはストレートのラリー勝負が続いた。

 この試合中、帽子とは何度も打ち合うシーンがあったけど、その度にひしひしと感じさせられる。普通にラリーをしているだけでは帽子に勝てないと。帽子のショットには力強さがあり、かつコースも際どいところを狙ってくるから、打ち合っていたらいつの間にかこっちが押されているという展開に陥っている。そして少しでも打球のコースが甘くなろうものなら前衛のノッポに捕まってしまう。でもテニスはストロークだけで勝敗が決まるわけじゃない。特にダブルスは。だから俺が考え出した答えがこれだ――

 俺はボールに強烈なスピンをかけるように思いっきりラケットを振り上げてクロス方向にロブを放った。よしっ、ノッポを越えた!

 重いボールも速いボールも打てない俺が考え出した秘策。それは〝攻めるロブ〟だ。今までは相手の強力なショットを回避するために守備的な面で使っていたロブを、ポイントを奪うために自ら攻める武器へ変えた。ウィナーは取れないけど相手を左右に揺さぶることはできる。

 帽子は走ってボールに追いつくと再び俺に打ち返してきた。でもさっきのラリーで見せていたほどの力強さはない。上手くタイミングをずらせたんだ。これなら俺でも戦える! よし、次はストレート方向だ。ノッポに捕まらずかつ帽子にプレッシャーも与えていけるような深い球を――

「アウト」

 ――えっ?

「ゲーム開地実業。ゲームスカウント6―5」

 ……嘘だろ。ここでアウトかよ……

 今のポイント、主導権は完全に俺が握っていた。攻めるロブで帽子のことを左右に振り回して優位に立っていたのに、まさかそのロブでミスするなんて。しかも均衡しているこの試合の中で最も重要なゲームを俺のミスで落としてしまった……。絶望的状況ってこういう時のことを言うのかな。ハハッ……もうダメなんじゃ――

「顔を上げろ!」

 キャプテンの顔が険しい。そりゃ怒るよな。大事な大事なゲームを俺のせいで落としたんだから。

 でもキャプテンの顔にはすぐに和やかさが戻った。

「コートチェンジだ。とりあえず、ベンチへ戻ろう」

 キャプテンに促されるままベンチへ戻る。ベンチに座ると俺は一口も水を飲まずにタオルを頭からかけた。周りの景色が遮断されて地面しか見えない。音もなにも聞こえない。顔からポタポタと垂れる汗がコートにいくつもの水玉模様をつくり出しては消えていく。

「キャプテン……俺……」

「さっきのは攻めた結果だ。気にするな」

 キャプテンは優しく肩を叩いてくれた。でも……

「それよりすげぇじゃん!」

 タオルの間からいきなりキャプテンが俺の顔を覗き込んできたもんだから、「うわっ!」とびっくりして後ろに仰け反ってしまった。キャプテンはハハハッと笑っている。

「……すごいって、なにがですか?」

「さっきのポイント、完全に相手を翻弄していたぞ!」

 キャプテンはベンチから立ち上がると、両手を広げるようにして「びっくりした」と俺に言った。

「それにさっきのポイントだけじゃない。大会前から猛練習していたお前の〝攻めるロブ〟、今日は要所要所で相手に間違いなく効いてるぞ。だから相手のタイミングも上手くずらせているし、好きに打たせてもいない」

「でも最後はミスで終わってしまいました。しかもそのポイントで大事なゲームも取られちゃいましたし……」

 キャプテンは広げていた両手を閉じると再び俺の隣に座った。

「さっきも言っただろう。あれは攻めた結果のミスだ。だから気にするな。何度も言っているけど、大事なのは〝次にどうするか〟だ。いいな?」

 キャプテンは再び俺の肩を優しく叩いた。こんなにもキャプテンに励ましてもらっているなんて情けない。でも――

「大丈夫だ。確かに相手の方が格上かもしれないけど、今日のお前は十二分に戦えている。だからこそ俺は負ける気なんてサラサラないぞ。桜庭、お前だってこんなところで負けたくないだろう?」

 ……負けたくない。あんな一本のミスで終わってたまるか!

「俺、負けたくありません。絶対、勝ちたいです!」

「よく言った!」

 今度はキャプテンに背中をドンッと強めに叩かれた。少し痛かったけど、その分気合いが入った気がした。

 主審のコールとともにベンチから立ち上がった。一度は気持ちが折れかけたけどもう大丈夫だ。キャプテンのお陰で復活した。一人では完全に崩れていたかもしれない。ダブルスのいいところはこういう風にペアがいるっていう安心感があるところだ。

「俺たちの気持ちを全部、このゲームにぶつけてやろうぜ!」

「はい!」

 いつも通りキャプテンに差し出された手を思いきり叩いた。パンッという高い音とともに心地よい痛みが手のひらに残る。

 負けたくない……負けたくない、負けたくない! 今はその感情だけが体の奥底から沸々と湧き上がってくる。

 リターンの位置へ歩いていこうとすると、目の前のフェンスからみんなの応援してくれている声が聞こえた。ただなぜか俺は不思議とハルのことを見ていた。ハルも俺のことを見ていた。

 こんな時ハルだったら……って違う違う! これは俺の試合だ。ハルは関係ない。俺は俺にできることをやるしかないんだ。俺にできることはただ一つ。がむしゃらにボールを追いかけて、一球でも多く相手コートへ返すことだ。それがロブでも打ち損じでもなんでもいい。とにかく返すんだ。

 ハルはなにも言わずにただ頷いた。俺もハルを見て頷いた。そしてコートの方へと振り返り、視線を相手に移す。

 そこからはもう無我夢中だった。

「15―0」

 来た球を返すのに必死だった。

「30―0」

 ミスを恐れずに攻めるロブも使った。

「30―15」

 ポイントを取る度にキャプテンが雄叫びを上げた。

「30―30」

 キャプテンの雄叫びにつられて、俺も感情を爆発させるように自然と叫んでいた。

「40―30」

 マッチポイント。相手バックは今日最大の盛り上がりを見せる。でも俺にはちゃんと聞こえている。先輩たちや太一、南、川口、そしてハルの声が。

 負けたくない! ……負けてたまるかぁぁあああ!!

 ――歓声が上がった。そのせいで主審のコールは聞こえなかったけど、結果はコートに立っている俺が一番よく分かっている。試合終了とともに無情にも俺の足は機械のように動き、コートの中央へと向かわせる。ネット上で儀式的に握手を交わしたけど相手の目は見れなかった。

 相手の手を握った瞬間に感じた敗北という現実。悔しくて悔しくて、目頭が熱くなって、視界が揺れてきて、必死に歯を食いしばったけどやっぱり我慢なんてできなかった。人目なんて気にせず、コートの真ん中で溢れ出る感情に逆らわずただただ泣いた。

 精いっぱいやった。それに今日はいつも以上のプレーができた。でも負けた。全力以上を出しても負けたんだから仕方のない結果だけど、だけど、負ければ悔しいに決まってる。それに俺がキャプテンの足を引っ張っていたのは明白だ。俺のせいで……

 もう少しできることはあったんじゃないのか? もう少し練習もがんばれたんじゃないのか? もう少し、俺が強かったら……

 悔やんでも悔やみきれない。俺が泣いている間、隣ではキャプテンがずっと肩を抱いて寄り添ってくれた。キャプテンは俺よりも悔しいはずなのに、涙一つ流さず気丈に振る舞っていた。キャプテンに悪いと思って涙を拭こうとしたけど、拭いても拭いてもやっぱり止まらなかった。

「キャプテン……すみません」

「あぁ。泣きたい時にはうんと泣いておけ」

 そう言って頭を優しく撫でてくれた。

 勝っても負けても余韻に浸る暇なんてなく、次の試合のためにすぐにベンチを空けなければならないのが酷で、俺は涙をポタポタと垂らしながらも荷物をまとめてコートを去った。

 扉の近くで堂上とすれ違う。

「すまんな堂上。頼んだよ」

「はい」

 キャプテンが堂上に一声かけて俺たちはコートを出た。扉を閉めた後、応援してくれたみんなにきちんと感謝を伝えようと思ったけど、自分の不甲斐なさゆえに顔を上げることができなかった。

「お疲れ」

 そう優しく声をかけてくれたのはハルだった。ハルの隣には太一と南もいた。三人の顔を見たら申し訳なくて、悔しくて、また涙が出てきた。なにも言わずにハルがそっと抱擁してくれたから、俺はそのままハルの肩越しに泣いた。

「とりあえずみんなのところに戻ろう。なっ?」

 手で軽く涙を拭って頷いた。それでも涙はポタポタと垂れてくる。負けるのがこんなに悔しいなんて思わなかった。今までこんな感情を味わったことは一度もなかった。毎日一生懸命練習してきたからこその悔しさだけど、同時に自分の力不足も痛感せざるを得なかった。

「みんな、すまん!」

 数メートル先からキャプテンの声がした。3年生たちに向かって頭を下げている。

「なに言ってんだよ。お前はよくがんばった」

「しんみりしてんじゃねぇぞ。まだ負けたわけじゃない。次の試合の応援だろ」

 先輩たちは労いの声をキャプテンにかけつつ温かく迎え入れている。

「そうだな。次の応援しなくちゃな。――桜庭! いつまでも泣いてんじゃねぇぞ。応援だ、応援」

「は、はい!」

 そうだった。いつまでもくよくよしている場合じゃない。俺たちが負けても残りのシングルスを二つとも勝てばいいんだ。堂上と遠坂先輩ならきっとやってくれる。信じよう。



 さっきまで強烈に眩しかった西日はその明るさを弱めながら、遠くの家々の更にそのまた遠くへと沈もうとしている。夕日が沈んで夜になり、また明朝に日が昇る。当たり前のことで変えられない自然の摂理。でも、今日だけは赤く染まる夕日に沈んでほしくないと切に願う。

 思い出される最後のシーン。S1を堂上が制して迎えた遠坂先輩のS2の試合。マッチポイントを決めた相手選手がバックに向かってラケットを高々と掲げている姿。そしてベースライン上に手をつくように崩れ落ちた遠坂先輩の姿。

「もういいかげん元気だせよ。なっ?」

 分かってる。いつまでもウジウジなんてしていられない。分かってはいるけど……

 試合後、1、2年生は監督から指示を出され、2年生を中心にせっせと後片づけをしてくれている。3年生は監督とともに姿を消していた。

「瞬はいいから。休んでろよ」

 太一の好意で俺は少しだけゆっくりできる時間をもらった。俺は少し場所を変えて地面に腰を下ろした。正面に見える夕日は優しく、暖かく俺を照らしてくれていた。

 最初は少し休んだらすぐにみんなの手伝いをするつもりだった。でも体育座りをした足の間から見えた長方形のタイルをじっと眺めていたら、もっとああすればよかった、こうするべきだった、っていう後悔の念にさいなまれた。特に5―5の30―40でロブをアウトしてしまったシーン。あの一打が強く思いやられる。別にあのロブをミスしたことだけが敗因なわけじゃない。でもなぜかあのシーンだけが強く、濃く、鮮明に思い出される。大会前にあれだけ練習して自分の武器としていたショットだったからミスが応えているんだろう。結果としてあれが試合のターニングポイントになってしまったのは間違いない。

「瞬は精いっぱいがんばってたよ。だからもういいかげん元気だせよ。なっ?」

 隣に座っていたハルが口を開く。試合後からハルはずっと俺の隣に寄り添って励まし続けてくれていた。でも俺は――

「ハルには分からないんだよ、俺の気持ち」

 一番当たってはいけない友にひどいことを言ってしまった。最悪なことだって分かってはいたけど、どうしてもまだ気持ちの整理がつかない。口も重たい。

 それでもハルは怒らずに優しく受け止めてくれる。

「気持ちって、負けて悔しいこと? 肝心なところでミスしたこと?」

 ……全部だ。ハルの疑問が的を射すぎていてなにも返事ができなかった。

「俺にもあったなぁ。そういうこと考えて落ち込んだ時期。まぁ今でも全然あるんだけどね」

 ハルはボーっと遠くの空を眺めた後、俺の方を向いてニコッと笑った。その笑顔につられるようにいつの間にか俺も口を開いていた。

「ハルにもあるの? そういうこと考えるの」

「当たり前じゃん! 負けたら悔しいに決まってるし、あの時もっとああすればよかったぁ、って寝る前に何度も何度も考えたりするよ。結局は後の祭りなんだけどね」

 ハルは「ファーストボレーはこうして、スマッシュはこう!」とブツブツ言いながら、自分の手をラケットに見立てて小さく素振りをしている。試合の後はこうすることでミスしたシーンと同じ場面を頭の中で再現しながらやり直しているんだって教えてくれた。

「……ハルはさぁ、そういう悔しい気持ちとかやるせない気持ち、いつもどうやって乗り越えてるの?」

 んー、とハルは考えているのかいないのか、足元に転がっていた石を握るとタイルにガリガリとお絵描きをし始めた。さっきはラケットを振るように手をブンブン振り回していたのに、今度は急にお絵描きとはホントにせわしないヤツだ。

 描き始めた絵をよく見てみると徐々にテニスコートの形にでき上がっていくのが分かった。こんな時にもコートの絵を描くなんて、どんだけテニスが好きなんだよ。

「受け止めるしかないんじゃないかな」

「えっ?」

 ハルは出来栄えに満足したのか、よしっと嬉しそうに頷いた。

「試合が終わった後じゃどうすることもできないからな。悔しい気持ちもやるせない気持ちも、全部受け止める。受け止めて、受け入れて、次こそは同じミスをしないぞって心に誓う。そしてまた練習に打ち込む。そうやって少しずつ前に進んでいくしかないんじゃないかな?」

 ハルと目が合った。いつになく真剣なまなざしをしている。

 ハルの言ったことは当たり前だけど、確かにその通りだ。今俺のやるべきことは、この敗戦を受け止めて次につなげることだ。それは分かっている。でも一方で、俺が未熟だったせいで先輩たちの早すぎる夏を終わらせてしまったこともまた消えない事実。

「あっ!」

 ハルはなにかを思い出したように声を上げた。

「言っとくけど、くれぐれも自分のせいで負けたなんて思わないこと」

 ハルは俺に顔を近づけてまで忠告するように言った。

「ダブルスは二人でやるものだ。だから一人だけが悪いなんてことは決してない。まぁ俺自身それに気づいたのはアキと別れた後、ここ最近の話なんだけどな」

 エヘヘ、とハルはなに食わぬ顔で鼻の下をかいている。

「それ、初戦の時キャプテンにも言われた」

「そうなのか?」

「うん」

 ハルは驚いたという顔をした。

「ダブルスにどっちかのせいなんてない。それはいい時も、悪い時もだ」

 正面の夕日に照らされてハルの頬が赤く染まる。

「そうは言っても、瞬のことだからこの先も『自分のせいで』とか気にしちゃうんだろうな」

 当たってるかも。試合に負けた時、俺は敗戦の原因を全て自分に向けてしまう癖がある。いつからだろうな、そういう風に考えるようになったのは。

「だから――」

 ハルは立ち上がると俺の前に来た。ちょうど夕日と重なったことで、ハルの姿が後光によって輝いているように見えた。

「それさえも受け止めて強くなれ。それでさ――」

 ハルは座っている俺に手を差し出した。

「俺とペアを組もう」

 風がそよいだ。心地いい風だった。

 俺は疲れていたこともあり、ハルが言ったことの意味を頭では理解できなかった。でも心は確かに踊っていた。不思議と体が動いて、俺はハルの手を取っていた。雰囲気がそうさせた。俺たちは互いを見るといつものように笑った。

「吹野崎、集合!」

 キャプテンの声がかかった。3年生と監督が戻ってきたんだ。

「行くか」

「うん」

 集合場所へ戻ると監督の両脇を埋めるようにして3年生たちが横一列に並んでいて、俺たちの方を向いていた。監督と先輩たちに向かって俺たち2年生が先頭に並び、1年生がそれに続く。

 監督の立ち姿や後ろの木々の緑、夕日の橙がハッキリと見える。いつもとは全く違う光景。一年間見続けてきた先輩たちの背中は、もうない。こんなことなら前方の景色が開けた開放感なんていらない。窮屈でもいいから先輩たちの背中をずっとずっと見ていたかった。

 でも、今日この瞬間から、俺たち2年生が中心となって新チームを引っ張っていかなければならないんだ。その事実から目を背けてはいけない。まだ完全ではない覚悟を決め、先輩たちの最後の勇姿を目に焼きつける。

 先輩たちはみんな目の周りを赤くしていた。監督から最後の言葉をもらって泣いたんだろうな。でもそれ以上にこのつらく厳しい二年間をやりきったという清々しさも感じられる。……キャプテンを除いては。

 キャプテンの表情は眉間にしわが寄っていて、歯を食いしばっているのか顎に力が入っているのが見て取れる。監督の横でただ一人だけ険しい顔をしている。他の先輩たちと見比べても目元は赤くないし腫れてもいない。至って普通の状態だ。きっとキャプテンだけ泣いていない。

 3年生が引退となるこの瞬間、代表としてキャプテンが一言述べる。でもキャプテンは険しい顔をしたまま中々口を開かない。先輩たちも一向に話し始めないキャプテンを心配そうに横目で見ている。

「……実は去年、先代の不動先輩とある約束を交わしていたんだ」

 キャプテンはおもむろに話し始め、俯き気味だった顔をここで初めて上げた。でも険しい表情は変わらない。

「それは、全国へ行くこと。うちは数年前から年々戦績も上げてきていて、最近では全国を視野に入れたヤツも入部するようになってきた。それでも突拍子もなく『チームの目標は全国だ』とか言うとみんなが混乱するだろうからと、不動先輩は目標をまずはベスト8と掲げていた。でも俺は!」

 急にキャプテンの言葉に力が入った。

「高い志はそれだけで原動力にもなるから共有した方がいいと思って、俺は新チームが始動した当初からみんなの前で『目標は全国だ』って言おうと決めた。周囲はまだ早いと言うけれど、不動先輩は誰よりも吹野崎が全国へ行けることを信じていた。だから俺も信じたし、本気になった。練習も去年より厳しくしてほしいと監督にも頼み込んだ。みんなも弱音なんて一切吐かずに食らいついてきてくれた。特に今年は去年の苦い経験を味わった俺や遠坂、新たに堂上や瀬尾を中心に層も厚くなって全国を狙えるチームになった。確かに大会直前での瀬尾のリタイアは痛かったけど、それでも代わりに入った桜庭も充分戦力になってくれた。この強力なメンバーでなら俺は全国へ行けると信じていた。だから……」

 えっ……。その瞬間、この場にいる誰もがそう思ったことだろう。

「全国へ行けなかったのは……ひとえに俺の責任だ。俺の……力不足だ」

 ポタポタ、ポタポタ……

 溢れ出る大粒の涙を拭いもせず、ぐしゃぐしゃな顔になりながらも歯を食いしばって必死に想いを口にするキャプテン。その姿を見た俺は胸が熱くなり、拳を強く握り締めた。

「俺は今……正直悔しくて悔しくて……しゃべってもいられないほど悔しくて……」

 遂には耐えきれず、キャプテンは左手で顔を隠すように俯いてしまった。

 試合後に俺を慰めてくれた姿や先輩たちに頭を下げていた姿からは、こんなに声を荒げて男泣きするキャプテンの姿なんて想像もできなかった。去年の不動先輩と同じようにキャプテンも強い人なんだなって勝手に決めつけていたけど、違かったんだ。俺なんかより何十倍も何百倍も悔しくて、悔しくて悔しくて、泣きたくてたまらなかったんだ。でもチームのことを優先させて、最後までキャプテンとしての責務を果たしたんだ。そんなキャプテンを誰が責められるだろうか。

『この仲間と一緒に全国へ行けたら最高だと思わないか』

 前にそう言っていたキャプテンの姿を思い出す。あの時はそんなに深く考えていなかったけど、キャプテンは本気だったんだ。あれはキャプテンの願いでもあったんだ。

 隣にいた遠坂先輩がキャプテンの肩に手を回して慰め、しばらく時間が流れた。

「遠坂、ありがとう。もう大丈夫だ」

 キャプテンは遠坂先輩を退けると、一度深呼吸をしてから再び俺たちの方へ向き直った。

「桜庭!」

「……は、はいっ!」

 急に呼ばれたものだから返事が少し遅れてしまった。

「こんな形で引き渡すのは申し訳なさでいっぱいだが、お前に新チームのキャプテンを担ってもらいたい。やってくれるな?」

「お、俺ですか?」

「ああ。お前にやってもらいたい」

 キャプテンは力強く俺に言った。でも俺よりテニス上手いヤツもリーダーシップあるヤツも他にはたくさんいる。わざわざ俺にする理由なんてないし、それに……

「なんだ。自信ないって顔をしているな」

「……はい。正直人の上に立ったことなんて今までなかったですし、ましてやチームを引っ張るだなんて」

 自信がないのは顔にも出ていたみたいだ。でも言葉にした通り、俺がキャプテンとしてこのチームを引っ張るだなんて到底できっこない。

「桜庭。俺はなにもお前にチームを引っ張れだなんて言ってないぞ」

 キャプテンは優しく微笑んだ。

「あれは……確か去年のクリスマスの日だったな。偶然通りかかった公園でお前が汗だくになりながら素振りしている姿を見たのは。聞けば毎日やっていると言っていたな。今でもやっているのか?」

「はい。毎日欠かさず。逆にあれをやらないと眠れないっていうか、体がムズムズしちゃって」

 そうか、とキャプテンは嬉しそうに頷いた。

「実は俺が1年の時、不動先輩が夜な夜なお前と同じように素振りをしているところを見たことがあってな。桜庭、お前に不動先輩の面影を感じたんだ。俺はあの日から次のキャプテンはお前にすると決めていた」

 不動先輩も俺と同じことを……

「だが決してあの日のことだけが理由じゃない。お前は日々の練習でも常に全力で、細かなメニューにも人一倍真剣に取り組んでいて、誰よりも多くの汗を流していた。お前の成長スピードは著しいものだったが、それは表でも裏でもお前が一秒たりとも努力を怠らなかったからだ。お前が誰よりも努力していたことは周りにいる者なら誰でも感じていたはずだ。俺もお前の姿には尊敬すら覚えていた」

 尊敬だなんてそんな。俺はただ強くなりたくて、そのためには練習するしかなかったから。当たり前のことしかやってない。

「お前を見ているとな、なんだか元気がもらえるんだ。俺もがんばらなきゃなって。そう思っていたのは決して俺だけじゃなかったはずだぞ」

 キャプテンがそう言った後、先輩たちがみんな俺を見て頷いてくれた。こんな俺でも少しはチームの役に立てていたことがあったんだって思うと、しみじみと嬉しさを感じずにはいられなかった。

「常にブレない姿勢を持ち、決して努力を怠らない。そういうヤツがチームの中心にいれば全員がソイツの背中を見てがんばろうって思う。闘志が伝染してチーム全体が成長していく。だから桜庭、お前はチームを引っ張ろうとか思わなくていい。お前はお前のままいればそれでいい」

 キャプテンから熱い視線が注がれる。でもどう答えればいいか分からず俯いてしまった。

 そのままでいいって言われてもキャプテンなんて大役、俺にはやっていける自信がない。

「やれよ、瞬」

 左肩をポンと叩かれた。ハルだった。

「そうだよ。お前しかいねぇって」

 右肩を太一に叩かれた。

「やってくれよ、瞬!」

「そうですよ! 瞬先輩!」

 後ろからみんなに背中を押された。二人とも……みんな……

 仕方ない。そこまで言われたらやるしかないじゃん。覚悟、決めるしかないな。

 俺はキャプテンに向き直って頷いた。

「分かりました。引き受けます」

 キャプテンも満足そうに頷いた。

「ただ」

「……ただ?」

「俺、やるからには上を目指す性分なんです。だから、全国行きます」

 そして後ろを振り返った。

「練習も今まで以上に厳しくする! 俺をキャプテンにさせたこと、後悔させてやるからな!」

『はい!』

 チームからの返事は一言だけだったけど、それぞれの決意が混ざり合い、重なり合い、一つになって夕空に響いた。

「大丈夫そうだな。後は任せたぞ。新キャプテン」

「はい!」

「お前たちは必ず全国へ行ける! 俺たちが見れなかった景色をその目で見て来い! これがキャプテンとしての最後の言葉だ」

『はい!』

 俺たちの声に呼応してか一陣の風が吹いた。

「先輩たちの悲願、必ず叶えてみせます」

 全国。口では簡単に言えるけど、果てしなく険しい道のりを進まなくてはたどり着けないことは分かっている。でも、絶対に行ってみせる。先輩たちの赤く腫れた目元に誓って。

 今まさに沈もうとしている夕日が最後の輝きを放つ。その輝きはさっきまでとは桁違いに明るく、そして熱く、永遠に沈まないとさえ思わせるほどだった。明日に願いを届けるように放たれた光は低い位置から注がれるものだったけど、間違いなく全ての木々の全ての青葉に行き届いていた。それは風でなびいている青葉がとても嬉しそうに見えたから。


 吹野崎高校男子テニス部 東京都高等学校テニス選手権大会 団体の部 ベスト16

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