15.へぇ、意外

 私学大会翌日の月曜日、ハルは何事もなかったかのように学校へ来た。休み時間に会いに行こうとしたんだけど大会でそっちのけにしていた宿題に追われ、結局会えないまま放課後を迎えてしまった。

 部活が始まる前にハルはみんなの前で謝罪した。以前俺に言っていたアキくんのところへ行っていたみたいで、アキくんと「全国で会おう」っていう〝約束〟をしたこと、そのアキくんがテニスをやめようとしていたから居ても立ってもいられなくて福岡へ行ったこと、ハルは全てを打ち明けた。全員が納得できたわけじゃないと思うけど少なくとも俺は理解できたし、福岡まで行っちゃうハルをすげぇと思った。その後キャプテンからハルは罰として一ヶ月間の走り込みが課され、練習には参加させないことが告げられた。酷だなとも思ったけどハルは受け入れているようだ。とにかく無事だったことに一安心した。

 走り込みへ行こうとするハルに話しかけたんだけど、いきなり「俺、やっぱりテニスが好きみたい」って当たり前のことを言うもんだから、どうかしちゃったんじゃないのかなって思った。「がんばろうな」って言われた時は自然と「うん」って頷いたけど。

 その週末の土曜日は午前中で部活が終わったから、「ボール打ちたい打ちたい」ってうるさいハルにつき合って親水公園のコートで二人で練習した。最初はハルがラリーしたいって言うからラリーしていたけど、途中から俺にボレーさせたりスマッシュ打たせたりするからホントに疲れた。ハルが練習したいって言うからつき合ったのに、いつの間にか俺の練習になっていた気がする。こっちは部活でも散々振り回されたっていうのに。まぁいいけど。



 テニス漬けの毎日を送っているとシューズ裏の擦り減りは大分早いもので、今のシューズは三足目だけどそれももう触るとツルツルしている。買ったばかりの時にあったイボイボ感は影も形もない。どうりで最近練習中によく滑って転んでいたわけだ。サッカーの時も年に数回はシューズを買い替えていたけど、テニスの頻度はそれ以上だ。最近だと三ヶ月持てばいい方。毎日素振りとかもしてるし、サッカーの時より練習時間も長いしな。

 そういうわけで、今日は練習もオフだから新しいシューズを買いに『テニスショップ皆川』へやって来た。以前ラケットを買った時にお世話になった優しいおじさん店主がいるお店だ。あの後もガットが切れた時には張り替えをお願いしに来たり、今のシューズもここで買ったから店主のおじさんとは親しくなった。やっぱり優しい店主さんで、なにか買うと毎回必ずおまけをつけてくれる。

「こんにちは!」

「あら桜庭くん。いらっしゃい」

 今日もニコニコと笑顔で迎えてくれた。

「今日はどうしたんだい?」

「シューズを買いに来ました」

「そうかいそうかい。がんばってるねぇ」

 テニスは結構お金がかかるスポーツだ。ラケットやシューズはもちろん必要だけどそれだけじゃない。ラケットに張ってあるガットは消耗してくると切れてしまうから、その度に張り替えをしなくてはいけない。張り替えるにも映画が三本見れるくらいのお金がかかる。人によって切れる周期には差があるけど、俺は大体三、四週間に一度の頻度で切れてしまう。部活生としては平均値くらいらしい。でもその度に母さんからお金をもらっているから申し訳ない気持ちになる。母さんは嫌な顔一つせずにお金を渡してくれるけど。

 シューズはお店に入って右側の壁にずらーっと陳列してある。ラケットも相当な量があるけどシューズもそれに負けていない。

 どれにしようか。ラケットの色に合わせて赤にするか。それとも……あっ、これかっこいい。最近発売されたニューモデルだって。でも高いな。俺、シューズの性能とかいまいち分かんないんだよな。サッカーの時も安さと履き心地で決めていたし。とりあえずニューモデルは諦めよう。

 他のシューズも見ていくと端の方に型番の古いものがあった。履き心地もいいし値段もそれほど高くない。うん、これにしよう。

 シューズが入った段ボールケースをレジまで持っていこうとしたけど、途中にあったテニスウェアが目に入ったから足を止めた。ウェアも持っている数少ないし、何着か買っていこうか。隣にはリストバンドやソックスもある。これも買っておこうかな。うーん……

 悩んでいると別のお客さんが来たみたいで、おじさんの「いらっしゃい」という優しい声が聞こえてきた。見るとその客は異様に背が高く、一目で誰だか分かった。ソイツは迷うことなくラケットが陳列されている方へと歩みを進める。俺は買うか迷っていたソックスを戻して後を追った。

「よっ、熊谷」

 巨人が振り返ってきた。

「おう、桜庭か。久しぶりだな」

 相変わらず抑揚のない低い声だ。この声を聞くのは合宿ぶりになる。

「久しぶり。ラケット買うのか?」

「いや、迷っている」

「そうだよな。高いもんな」

 近くにあったニューモデルの値札を見る。うわっ、三万二千円! これだけあったらなんでも買えるな。

「お前もなにか買いに来たのか?」

「シューズをね」

 持っていた段ボールケースを見せると、「そうか」と低い声が返ってきた。

 俺の考えすぎだろうか、なんだか熊谷の声に元気がない気がする。元々低い声だからそう聞こえるのかもしれないけど、合宿の時は今よりも少しばかり明るかった気がする。ラケットを見つめる目にもどこか憂いの色が見える。それにラケットを買うって、中折れ(フレームの中が壊れてしまっていること)とかよっぽどのことがない限り買い替えなんてしないってハルが言ってたよな。なにかあったんだろうか。

「ラケット買うかもしれないって、折れたりでもしたのか? まぁ熊谷はパワーあるから頷けるけど」

「いや、別にラケットは折れていないし、なにも異常はないんだ」

 ただ、と焦点は定まってないけどラケットの方を見ながら熊谷は続ける。

「最近部内戦で負け越すことが多くてな。調子が悪いというわけではないんだが、自分のテニスができていないと感じるんだ。それで試しにラケットを替えてみたらこの状況も変わるかと思ったんだが……やっぱりいけないな、道具のせいにするのは。そんな簡単なこと、ここへ来てようやく気づいたよ」

「へぇ、意外。熊谷でも負けが続くことなんてあるんだな。俺の中でお前は鉄人並みに強いってイメージだったから」

 熊谷はラケットから目を離して俺の方を見てきた。はたからは一切表情が変わっていないように見えるかもしれないけど、俺には熊谷が少し驚いているように見えた。ハルも言っていたけど、話をしてみると熊谷の微妙な変化に気づくことができる。なにも知らないと背が高いことも相まってただの怖いヤツにしか見えないのが気の毒だ。俺も最初はそうだった。

「桜庭が思っているほど俺は強くないさ」

 やっぱり少し元気ないな。不動先輩と試合する前や合宿であった時の方が顔に自信が満ちていた気がする。

「俺が言える立場じゃないけどさ、たまには今日みたいにこういうところへ来てゆっくりしてもいいんじゃない? そりゃ誰だって迷ったり上手くいかないことはあると思うけど、ゆっくり落ち着くことも大事だと思うよ。そうすればきっと答えも見えて……って、俺なに言ってんだろ」

「いや、気持ちは伝わったよ。ありがとう。俺も焦っていたのかもしれない。桜庭の言う通り今日は家でゆっくり休むとするよ」

「それがいいかもね」

 二人でラケット売り場を離れ、俺はレジへ向かう。レジの横にテニス雑誌があったから一冊買ってみた。ハルも小さい頃は参考にしてたって言ってたからな。後で見てみよう。

「いつもありがとうね。おまけにリストバンドつけておくよ」

「ホントですか! いつもありがとうございます」

 やった。ちょうど欲しかったんだよな。今日はツイてるぜ。

「練習がんばってね。渉くんもまたおいで」

「はい」

 ハルと同じで熊谷も小さい頃からここでテニス用品を揃えているらしい。おじさんが「渉くん」と下の名前で呼ぶくらいだから相当前からの常連なんだろう。

 おじさんに出口まで見送ってもらい二人で外へ出た。聞けば熊谷の家は俺んちの近くだと言うので途中まで一緒に帰ることにした。

「でもいいよな、熊谷は」

「なぜだ?」

 低い声が高い位置から聞こえてくる。隣で並んで歩くと熊谷はやっぱりでかくて、顔を見るには空を見上げるようにしないといけないから首が少し疲れる。

「そりゃテニス上手いからに決まってんだろ。俺なんてまだまだだからさ、上手いヤツには憧れるんだよ」

 熊谷は1年にしてあの強豪白鷹高校のレギュラーだし、なんといってもインターハイ経験者だ。俺だけじゃない、みんなの憧れだ。

「俺は俺自身が上手いだなんて思ったことは一度もないよ。それに瀬尾や新も言っていたが、俺も桜庭はテニスに関していいものを持っていると思うぞ。俺にはない、いいものが」

「熊谷にはない?」

「ああ。一球一球に対する『粘り』だ。テニスでは重要な要素の一つだからな」

「それハルにもこの前言われた。テニスは粘りが一番大事だって」

「瀬尾らしいな」

 フッ、と口角がほんの少しだけ上がった。熊谷もこんな顔で笑うんだ。

「俺にはその『粘り』のテニスというものがどうしてもできない。スクールのコーチからもずっと粘れ粘れと言われてきたが、奇しくもそれに反するようにパワーで押していくスタイルになってしまった。だから桜庭、粘りのテニスができるお前を俺は羨ましいと思っている」

 まさかあの熊谷から羨ましいなんて言われる日が来るとは。羨ましいと思っているのはこっちだっていうのに。

「それはこっちのセリフだよ。……そうだ! 今度一緒に練習してくれよ。俺に速い球の打ち方を教えてくれ」

 いいぞ、と熊谷は快諾してくれた。インターハイに出たヤツがこんな近くにいるんだ。教わらない手はない。我ながらいい案を思いついたと思う。

「そういえば吹野崎は選抜戦に出るのか?」

「ギリギリで逃したよ。全体で十七位だったらしい」

「そうか。それは惜しかったな」

 選抜戦――正式名称は東京都選抜高校テニス大会――は九月に行われた新人戦のシングルスの結果を元に出場校が決まる大会だ。例えばシングルスの優勝者がいる学校には110ポイント、準優勝者がいる学校には90ポイント、というようにそれぞれポイントが振り分けられていき、ポイントの保有数が多い上位十六校だけに出場が認められる。言わば出場校が〝選抜〟された大会だ。これも全国へつながる大会の一つで、最初はその十六校で戦い、勝ち上がると関東、全国へと舞台が移っていく。学校単位の大会だから新人戦とは対照的に試合形式は全て団体戦だ。

 選抜戦の出場枠を勝ち取れるか否かで、その高校に全国を目指せる力があるのかどうかを判断することができるといっても過言ではないだろう。吹野崎の新人戦の結果はダブルスこそキャプテンとハルのペアがベスト8に入ったり、山之辺と川口のペアも本戦出場と健闘はしたんだけど、シングルスの方が堂上のベスト4のみと一つだけ飛び抜けた結果に終わってしまった。うちの中でもシングルスが強い遠坂先輩と南はドローが悪く、早々に優勝候補と当たってしまったせいでトーナメントの早いうちに敗退してしまった。

 選抜戦はシングルスで勝ち上がった選手の多い方が出場できる可能性が高くなる。うちはシングルス勢の不運が響いてしまい、十七位とあと一歩のところで出場を逃してしまった。選抜戦への出場が叶わなかったと分かった時、ハルはとても悔しそうにしていた。目標としている全国へ通じる道なだけあって、出場したい気持ちは誰よりも強かったと思う。その日の練習中はずっと「来年は絶対出る!」と連呼しながらボールを打っていた。

「白鷹はもちろん出るんだろ?」

「あぁ。俺たちも十一位となんとか出場できたところだがな」

「十一位? 白鷹はもっと高い順位かと思ってたよ」

「きっと先輩たちの抜けた穴が大きかったんだろうな」

 熊谷も都大会やインターハイの時ほどの力は出せなかったみたいで、新人戦ではあまり勝ち上がれなかったらしい。本人もさっき『皆川』で「自分のテニスができなくなっている」って話していたけど、それも関係あるんだろうか。ここはあまりツッコんで聞かない方がいいかな。

「でもせっかく選抜戦出れるんだし、俺たちの分までがんばってくれよ」

「あぁ。もちろんそのつもりだ」

 熊谷はその高い身長にまず目が行ってしまうけど、近くでまじまじ見ると制服のシャツがきつそうなほど筋肉もしっかりついているし、顔も……よく言うと大人びているから威圧感がある。あんな速い球が打てるのもこの体があるからなんだと合点がいく。

「あっ、そうそう! ハルに最近彼女ができたんだよ」

「そうか」

 旧友のおめでたい近況報告に喜ぶかと思ったけど、いつも通りの低い声が返ってきたもんだからなんか拍子抜けした。旧友の朗報なんだからもっとこう、喜べよ! って思ったけど、きっと熊谷はこれまで恋愛とかそういうものとは無縁の世界で生きてきたんだろうなとも思った。

「それにハルのヤツ、この前の私学大会で当日になってサボったんだぜ。サボってどこ行ってたと思う? 福岡だぜ福岡。アキくんに会いに行ってたんだって」

「おぉ、藤野にか」

 そっちには反応するのね。そういえば中学の時は熊谷も同じスクールに通ってたんだっけ。

「じゃあ俺こっちだから」

 藪から棒にそう言うと、熊谷は俺の返事も待たずに行ってしまった。別に悪いヤツじゃないことは分かっている。熊谷はそういうヤツだ。我が道を行くって感じ。堂上と似ているかもしれない。シングルスで勝ち続けられるヤツはみんなそうなのか?  

 俺も何回かはシングルスの試合をしたことあるから分かるけど、シングルスにはコート上で一人で戦わなくてはならない孤独感がある。戦略を考えたり感情をコントロールするのも全て自分一人の責任。そんな孤独感の中で、自分に打ち克ち、相手にも打ち勝つには、〝己を極める〟しかない。東京を代表するシングルスプレーヤーの二人が周りを気にせず我が道を行くのには、そんな信条があるからなのかもしれない。

「またな!」

 遠くなってしまった後ろ姿に声をかけ、熊谷とはそこで別れた。最後は素っ気なく別れてしまった気がするけど、まぁいいか。

 それよりもあの熊谷が最近勝てていないことの方が俺には不思議だった。都大会や合宿ではアイツの強さをまじまじと見せつけられたから、今ではてっきり強豪白鷹のエース的な存在になっているものとばかり思っていた。そんなヤツが勝てなくて苦しんでいるなんて。そんな姿、想像もつかない。

 でも反面、遥か遠い存在のように感じていた熊谷でも上手くいかなくて悩むことがあるんだと知ってホッとしたところもあった。悩んでいる内容はそれぞれ違うけど、上手い下手関係なく壁にぶつかる時はぶつかるんだ。

 熊谷も戦っている。なら俺は尚更負けてられない。上手いヤツ以上にがんばらないと同じ土俵には立てないからな。

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