10.お祭り準備

 九月中旬になっても昼間は依然として残暑が厳しく、外にいれば汗がダラダラと垂れてくる。頬に滴り落ちてくる汗をタオルで拭いながらキャプテンとハルの姿を探す。

 それにしても小金井公園ってこんなに広いんだなぁ。一体いくつコートがあるんだろう。試合が始まるまでに見つけられればいいんだけど……

 今日、ここ小金井公園テニスコートでは東京都高等学校新人テニス選手権大会、通称新人戦が行われている。残念ながら俺は出場枠数の関係で試合に出ることは叶わなかったけど、その分といっていいのかキャプテンとハルのペアが順当に勝ち進み、今日が予選トーナメントの準決勝ということだったので応援に来た。

 新人戦は都大会の時とは違って個人戦のみの大会だ。部員全員での応援というものはないけど、俺は家から近いこともあって応援に来た。ハルの試合も見たかったしね。

 コート脇をキョロキョロしながら歩いていたら、ラケバ(ラケットバッグ)を持ってコートへ入ろうとしている二人を見つけた。急いで駆け寄る。

「おーい! ハルー!」

「おぉ、瞬! 間に合ったな」

 ニコッと笑われた。

「よかったぁ。間に合った。がんばってね!」

 荒い呼吸のままエールを送る。二人は『おう!』と力強く頷いてから戦場へ入っていった。その背中がかっこよく見える。

 俺は試合がよく見える場所へ移動した。ちょうど木陰になっているから涼しく見れそうだ。

 さっきも言ったけど、個人戦は団体戦と違って応援がいない。周囲を見渡しても応援している人なんて俺くらいだ。もっと試合が進んで本選とかになったらまた違うんだろうけど。

 だからというわけじゃないけど、個人戦は自分たちの力だけで戦わなければならない。苦しい試合展開になった時も自分たちの力だけでその窮地を乗り越える必要がある。でもその分、自分たちのためだけに戦える。自由だ。木陰から見える二人の背中がそんなことを言っている気がして少し羨ましかった。

「ザ・ベスト・オブ・1セットマッチ。金子・瀬尾ペア、サービスプレイ」

 ハルのサーブから試合が始まった。高々とトスを上げ、しっかりとタメをつくった体から放たれたボールは矢のごとくセンターを射抜いた。相手は反応が遅れてロブでの返球になる。それを「浅い!」と言わんばかりにキャプテンがスマッシュを叩きつけた。

「15―0」

 見事なポイントだったけど歓声はない。でもパンッと二人がタッチを交わす音はしっかりと聞こえてきた。

 そういえばハルが試合しているところをちゃんと見るのは初めてかもしれない。今までずっと一緒にいたのに一度もその姿を見たことがなかったなんておかしな話かもしれないけど。でもやっぱり上手いなぁ。

 あれよあれよという間に二人は1ゲーム目を先取した。キャプテンとハルの相性はよさそうだ。

 新も言っていたようにハルは終始落ち着いてプレーしていた。後衛の時は相手の前衛がポーチに出ようとしたところを見極めてストレートを抜いたり、相手の強打をロブでいなしたり。普段のせわしないハルからは想像もつかないほどの技巧的なプレーだ。それとは反面、前衛の時は積極的にポーチへ出てポイントを決めるアグレッシブなプレーも見せていた。まさに蝶のように舞い蜂のように刺す。

 ポイントを決めた時の雄たけび。キャプテンとタッチを交わす姿。リストバンドで汗を拭う仕草。目の前の猛者がいつも隣にいるハルには思えなかった。その姿が単純にかっこいいと思った。鳥肌が立った。どうやら俺は蜂の毒針にやられたみたいだ。

 来年こそは俺も絶対に出てやる。そしてハルみたいに俺も……

「お疲れ様です」

 試合を終えてコートから出てきた二人に声をかける。スコアは6―1の圧勝だ。でもすぐに次の試合があるらしい。

「俺たちの試合、どうだった?」

 ハルは興味津々な目で俺の評価を待っている。

「すごかったよ! かっこよかった!」

 だろぉ、とハルは自信満々に笑った。額の汗が太陽の光を反射させている。

「調子いいね」

「あぁ。でもまだ『ダブルスのその先の景色』は見れそうもないよ」

 そう言ったハルの目はどこか遠いところを見ていた。

「とりあえず次の試合まで休憩できるところを探そう」

 キャプテンの声に従って日陰で休憩できそうなところを探し歩く。

「もう一試合あるけど、どうする?」

 ハルは俺に聞いてきたけど悩む時間はなかった。

「もう十分いいプレーは見れたから帰るよ。帰って練習する。ハルにあんなかっこいい試合を目の前で見せられたら体がウズウズしてきちゃった」

 ハルも俺がそう言うって分かっていたのか笑顔で頷いてくれた。

「オッケー。お互いがんばろうぜ」

 ハルはいつも「がんばれ」じゃなくて「がんばろう」と言ってくれる。自然に言っているんだろうけど俺は毎回元気をもらっている。

「うん。じゃあね」

 ハルたちはちょうど見つけたベンチに腰を下ろし、俺は小金井公園を後にした。

 今日は見に来てよかった。やっぱりハルはすごいや。俺もがんばるぞ、とやる気を注入する。

『親水公園でテニスしよう』と太一にメールしたら、『やろう』とすぐに返信が来た。よしっ、と小さくガッツポーズをして、家に向かって駆け出した。



 高校生の秋。全生徒が楽しみにしている一年で一番大きな行事がある。そう、学園祭だ。ここ吹野崎高校でも学園祭の日が近づいてきた。学園祭でどんな出し物をするか、今クラスで話し合っている最中だ。

「はーい。じゃあなにやりたいか希望のある人は挙手をお願いします」

 クラス委員の玉井が仕切る。隣にはチョークを持った光野の姿もある。

「はいはーい!」

 真っ先に元気よく挙げたのは堤だ。

「ぜったい、メイドカフェ! 女子はもちろんメイド服のコスプレで!」

「えー」

「やだー」

「恥ずかしい」

 早速不満の声が方々から叫ばれる。

「みんな絶対かわいいって! ね! やろうよ!」

「アンタが見たいだけでしょ!」

 堤の提案は隣の席の前島にあえなく却下された。でも前の二人は堤の提案を一つの候補として渋々認め、光野が申し訳なさそうに『メイドカフェ』と黒板に小さく書いた。

「はいはい。他にある人は? 女子も文句ばかりじゃなくて発言してねー」

 じゃあ俺、と挙げたのは高橋だ。

「お化け屋敷なんてどうかな?」

「いいね」

「楽しそう」

 今度は肯定的な声が上がる。一人を除いて。

「余計なことすんなって高橋ぃ。このまま誰もなにも言わなきゃメイドカフェで決まりだったのに。男子はみんなそういうのが見たいんだよ」

 堤の言葉に頷く男子は結構いた。みんな口には出さないだけでやっぱり女子のメイド服姿を見たいんだ。まさか男子同士で口裏合わせしていたとか? 俺はなにも言われてないけど。

「あぁ、そうだったのか。わりぃわりぃ」

 高橋は手を合わせてゴメンのポーズを取った。

「やっぱり男子ってキモーい」

 前島の発言が教室中の女子の賛同を得ていく。まさか男子でいるだけで非難される日が来ようとは。光野も堂々と黒板に『お化け屋敷』って書くし。

 結局その後はなにも候補が出ず、メイドカフェとお化け屋敷の一騎打ちになった。多数決で決めることになり、意外にもメイドカフェに手を挙げた女子は少なくなかったけどそれ以上にお化け屋敷に挙げた人数の方が多く、学園祭の出し物は僅差でお化け屋敷に決定した。

「そ、そんなぁ」

 出し物が決まった瞬間、堤は力なく机に崩れ落ちた。

 お化け屋敷は1年A組の教室を使ってつくられることになった。それには相当量の段ボールが必要になるとのことで、放課後手分けして探しに行くことになった。学校のゴミ捨て場、クラスメイトの家、近所のスーパー。俺はスーパー班に配属され、堤、高橋、前島、光野とともに学校から歩いて五分くらいの『スーパーあおい』を目指すことになった。『あおい』は学校を挟んで家とは逆方向にあるけど、家の近所のスーパーより品揃えも多いことから月一ペースで母さんが買い物に行っている。小さい頃は幼稚園が近いこともあり、帰りによく連れていってもらっていたものだ。百円もしないようなちっちゃいお菓子ばかり買ってもらっていたな。

「メイドカフェ残念だったなぁ。あと何人かひっくり返れば勝ってたのに」

 堤はさっきの結果をまだ引きずっている。

「絶対メイドカフェやるぞ! って一週間前から気合い入れてたんだけどな。はぁ。その苦労が無駄になってしまった」

 堤は相当落ち込んでいるように見えるけど、冷静に考えてみればそこまで気合い入れるものでもないような気がする。

「バッカじゃないの。そんなことで落ち込んで」

 前島が追い打ちをかける。

「第一、メイドカフェに決まってもやるのは私たちなんだから。ねぇ、愛」

「う、うん」

 あの光野でさえも前島の前では少し委縮している。それほどまでに前島のキャラは強烈だ。

 前島の気迫に押されて光野は同意していたけど、多数決の時に光野はメイドカフェの方に手を挙げていた。意外とまんざらでもないのかなと思ったけど、それを言ったらぶん殴られそうだからやめておこう。

 にしても光野がメイドのコスプレをしたらそれはもう似合うんだろうな。クラスの男子からも光野のメイド服姿を見たかったという声はちらほら聞く。堤もそのうちの一人だろう。

 堤がゴホンと一つ咳払いをした。

「前島はともかく、光野さんは絶対メイド服似合うよなぁ。見てみたかったわぁ」

「ともかくってなによ」

 前島が堤の頭を引っ叩いた。

 堤の言い方には悪気とか裏とかそういうのを全く感じさせないところがあるからか、褒められた光野も嬉しそうな表情を浮かべている。でも俺と目が合うとなぜか睨んできた。俺なにも言ってないのに。

 堤と前島。喧嘩しているように見えるけどこの二人はすげぇ仲がいい。堤のチャランポランな発言に前島が厳しいツッコミを入れるといつもクラスに笑いが溢れる。同じバド部ということもあって部活でも毎日こんなことをやっているんだろう。そういえば堤は楽そうだからってバド部に入っていたけど、ちゃんと練習しているんだろうか。いや、聞くまでもないか。

 そうこうしているうちに『あおい』に着いた。店に入ると「いらっしゃいませ」という機械音に出迎えられた。店員さんに学園祭で段ボールを使いたい旨を光野が代表して伝えると笑顔でゴミ捨て場まで案内してくれた。この時期になると毎年吹野崎の誰かがここに段ボールを取りに来ているのか、「今年もがんばってね」と店員さんが声をかけてくれた。

 一人ひとり大量の段ボールを抱えて『あおい』を後にした。秋が近づいてきているのか、外が暗くなる時間も早まっている。夕日は既に建物の奥に沈んでしまったけど、その残光が街中をまだ明るく照らしてくれている。段ボールの山を抱えた五人の学生がその中を歩いていく。

 ただこの段ボールが意外と重い。学校までは300メートルとない距離だけど抱えた段ボールで前方はよく見えないし、それにこの重さを抱えながら歩いていると300メートルが1キロの道のりにさえ感じてくる。歩みも遅くなる中、真っ先に不満をこぼしたのは堤だった。

「あとどんくらい?」

「半分くらいじゃね」

 高橋が答える。

「えー、まだ半分かよぉ。ちょっと休憩しない?」

「グチグチ言ってないでさっさと歩け!」

 前島のキックが見事に堤のケツに命中した。周りがよく見えないこの状況で一発で命中させるとはさすが前島だ。きっと毎日蹴り続けている賜物なんだろう。かわいそうな堤。いや、今はお前が悪いから仕方ない。

「大体お前はいつも弱気なんだよ。もっとシャキッとしろ。男だろ」

「前島、お前は男よりも男気が強いんだよ。もっとおしとやかになれ。女だろ」

「うるせー!」

 またキックをお見舞いされる。ホント仲いいなぁ。

「堤、本当にきつかったら少し持ってやろうか?」

 高橋は優しいヤツだ。こんなチャランポランに救いの手を差し伸べるなんて。道連れにだけはされんなよ。

「いいのか――」

「いいんだよ高橋。コイツはほっといて」

 堤のヤツ、今完全に持ってもらおうとしていたな。でもそれも虚しく前島に遮られた。

「そうか。じゃあ光野、持ってやろうか?」

「私も大丈夫よ。ありがとう高橋くん」

 前島の印象が強かったから忘れていたけど、こちらのお嬢さんも気が強かったんだ。と思っていたことが顔に出ていたのかまた睨まれてしまった。

 光野の睨みに怯んでいたら前方の人影に気づかず肩がぶつかってしまった。互いによろけるも幸い倒れはしなかった。

「すいません。ぶつかてしまって」

「いえ、こちらも不注意で……って、瞬?」

 自分の名前を呼ばれ驚いて顔を上げると、そこには別の高校の制服に身を包んだよっちゃんの姿があった。よっちゃんは中学の時のサッカー部のチームメイトで、その中でも一番仲がよかった。〝あの試合〟の後もよっちゃんだけは最後まで俺の肩を持ってくれた。もしよっちゃんが声をかけてくれなかったら、俺は孤独の淵に立たされていたに違いない。

「よっちゃん!」

 久しぶりの再会に沸き立ち、抱えていた段ボールを地面に落として肩を抱き合った。

「久しぶり! 元気してた?」

「元気元気! よっちゃんは?」

「僕も元気だよ! ……段ボールいっぱいだけど、なにしてるの?」

 俺が落とした大量の段ボールを見てよっちゃんは首を傾げた。それから光野たちと目が合ったのか軽く会釈する。堤はここぞとばかりに段ボールを地面に置き、その上に座って休憩し始めた。

「あぁ、学園祭で使うやつだよ。俺たちお化け屋敷やるんだ」

「お化け屋敷か! 楽しそうだね」

「よっちゃんの学校はないの? 学園祭」

「もちろんあるよ。僕のクラスは模擬店だから段ボールは集めないけど。大変そうだね」

「まぁね」

 まだ段ボールの収集しかやってないからなんとも言えないけど。

「あっ、そうだ! 俺今何部に入ってるか知ってる?」

「知ってるよ。テニス部でしょ?」

 びっくりさせてやろうと思ったのに逆にびっくりさせられてしまった。

「えっ! なんで知ってるの?」

 その……、とよっちゃんが答えるのに渋っていたから、「ん?」と更に尋ねた。

「鈴木と田所に聞いたんだ」

 その名を聞いた途端、俺は顔から血の気が引いていくのを感じた。苦い記憶、あの思い出したくもない過去が頭をよぎる。

 鈴木と田所。よっちゃんとともにサッカー部のチームメイトだったヤツらだ。でもその二人の間にはいつももう一人の存在がいた。そう、赤井だ。赤井と鈴木と田所はいつも三人一緒にいて、俺は基本一人だった。

 俺はその三人から煙たがられていたことを知っていた。俺は一人で自主練をすることが多くて、そのくせ試合ではしれっとゴールを決めるもんだから「調子に乗っている」と揶揄されていた。チームの方針とか練習内容でも衝突は多かった。それでも試合になったら勝つためとはいえ三人は好きでもない俺にパスをくれていた。俺がゴールを決められていたのは赤井たちのパスがあったお陰なんだと今は思う。でも当時の俺は自分の力を過信するあまり、自分の力でゴールを取るんだと自己中なプレーに走ってしまった。その結果〝あの試合〟では緊張のあまり気持ちだけが空回りして、チームメイトにはとんでもない迷惑をかけてしまった。

 試合後、赤井に胸ぐらを掴まれたことが思い出される。目の前で泣き崩れられたことも。そして、〝あの目〟も。

「僕たち、今同じ高校でプレーしてるんだ」

「うん。知ってた」

 よっちゃんは言わなかったけど、赤井も同じ高校へ進んだことは聞いていた。アイツのことを思い出すと明らかに気持ちが沈んでいくのが自分でも分かる。よっちゃんも俺の気持ちを察してか表情が暗くなる。

「ゴメン。聞きたくない名前だったよね」

「いや、いいんだ。俺が聞いたことだから」

 でもね、とよっちゃんは雰囲気を明るくしようと努めてくれる。

「二人のことで話したいことがあるんだ。これ聞いたら瞬も……少しは気持ちが軽くなると思うんだ」

 そう言ってよっちゃんはなにかを言おうとしたけど、光野たちの方を見て開きかけた口を閉じた。

「今度ゆっくり話そう」

 待たせるのは悪いと思ったんだろう。「また連絡する」と告げて行ってしまった。

「よぉし。休憩終わりだな。さっさと学校帰ろうぜぇ」

「一番休憩してたアンタにだけは言われたくないわ」

 またもや前島のキックが堤のケツに炸裂した。「いてぇよぉ」と情けない声を出す堤に周りの三人は楽しそうに笑っている。でも俺は同じように笑うことができなかった。

 鈴木と田所の話っていっても、アイツらは俺を恨んでいるに違いない。よっちゃんはまた連絡するって行っちゃったけど、正直聞きたくない気持ちの方が強い。

 一人だけ笑わない俺を心配してか光野が俺の顔を覗き込んできた。俺はなんて答えればいいか分からなかったからただ目線を逸らしてしまった。

 学校に着くと方々から集められてきた段ボールが教室の真ん中に山のように積まれていた。堤が『あおい』から持ってきた段ボールを山の頂上に置くと、その山はザザーと崩れて落ちてしまった。教室の中に雑然と散らばった段ボールが今の俺の心中を表しているようで、妙にやるせない感じがした。



 カランコロン、と開けた扉から音が鳴る。狭い店内を一望すると窓際の席から手が挙がった。

「ゴメン、待った?」

「ううん、全然」

 喫茶店の中は俺たち以外に新聞を読んでいるおじいちゃんが一人と、パソコンで仕事をしているOLの二人しかいない。お店が住宅街の一角にあるせいか店内はとても静かだ。今の会話だけでも少し声が大きいと感じるほどに。

「ご注文は?」

 紳士なおじさんウェイターが優しく問いかけてくれた。

「ブレンドで。瞬は?」

 ここで慌てて決めるのも恥ずかしいと思い、「同じものを」とかっこつけて言ってしまった。にしてもブレンドってなんだ? あぁ、コーヒーか。メニューに書いてあった。でもコーヒーなんて生まれてこの方飲んだことないぞ。

 そんな心配をよそによっちゃんは話し始める。

「ゴメンね、急に呼び出して」

「いいよいいよ。俺も練習休みだったから」

 よっちゃんの通う高校、西和大付属高校は言わずと知れたサッカーの強豪校だ。練習量も多いみたいで毎日大変そうだ。

「がんばってるんだね、サッカー」

「僕なんて補欠の補欠だけどね。高校でもサッカー部に入るか迷ったけど、ずっとサッカーしかやってこなかったから結局そのままの流れで続けることにしたんだ。でも楽しいよ」

 そう言うよっちゃんの顔は本当に楽しそうだった。

「それはよかった」

「もうサッカーは見たりもしないの? テレビでも」

「うん。まぁ」

 あんなことがあったからね、って言うと会って早々雰囲気を悪くする気がしたからやめておいた。

「お待たせいたしました」

 おじさんウェイターがお皿に乗ったコーヒーカップを目の前にそっと置いてくれた。ミルクと砂糖も添えてくれて、「ごゆっくりどうぞ」と一礼し去っていった。

 早速ミルクと砂糖を入れようと思ったけど、よっちゃんがそのまま飲むもんだから俺も試しに一口飲んでみる。――にがっ! こんなの飲めたもんじゃねぇ、って思ったけどよっちゃんは目を瞑って味を楽しんでいる。そんなよっちゃんを見ていたらなんだかおいしそうな飲み物に見えてきたからもう一口――やっぱり苦い。よっちゃんって意外と大人なんだな。

「テニスって難しくないの?」

 カップをお皿に戻してよっちゃんの問いに答える。

「難しいよ。もうすぐ始めて半年になるけど全然慣れないね」

「僕もこの前体育の授業でやったんだけど、ラケットに全然ボール当たらなくてさ。当たってもボヨーンって飛んでいっちゃうから全然コートに入らなかったよ」

「それはね、多分腕だけで振ってるからだと思うよ。テニスのスイングっていうのは体全体を使ってするものなんだ。グッと足を踏み込んで、キュッて素早く腰を回して、最後はムチのようにラケットを振るんだ。あっ、でもスイングした後もちゃんとフォロースルーはしないとダメだよ。そうしないとスピンがかかってくれないからね。それから――」

 よっちゃんは口をポカーンと開けたまま固まっている。しまった! ついしゃべりすぎてしまった。テニスのこととなるといつも夢中になってしまう。

「ゴ、ゴメン」

 俺は恥ずかしくなってコーヒーに砂糖とミルクを入れようとすると、よっちゃんが急に笑い出した。

「あははは。すごいね瞬! もうそんなに詳しくアドバイスもできるんだね」

「いやいや。俺なんてそんな」

 甘くなったコーヒーを一口。うん、これなら飲めそうだ。

 よっちゃんは首を横に振った。

「ううん。やっぱり瞬はすごいよ。きっとテニスもたくさん練習しているんだね。中学の時もそうだった。瞬は誰よりも早く来て、誰よりも遅く残ってボールを蹴っていた。そんな瞬のこと、僕すごく尊敬してた。試合でゴール決める姿はホントにかっこよかったよ。僕もがんばろうって勇気もらってた」

 嬉しいけど、よっちゃんが目をキラキラさせて話してくるもんだから気恥ずかしかった。でもここで目を逸らしたらなんだか申し訳ない気がしたから、最後まで目を合わせて話を聞いた。

「でも最後の試合。赤井のヤツ、全部瞬が悪いみたいな言い方しやがって。周りのヤツらだってそうだよ。責任を全部瞬に押しつけやがって。一番練習してたのは瞬だっていうのにな」

 ここまで俺のために怒ってくれるヤツは他にいるだろうか。あの時だってよっちゃんがいなかったら俺は……。やっぱり持つべきものは友達だな。

「ありがとう。でも〝あの試合〟は俺が悪かったよ。自分でもそれは分かってるんだ」

 そっか、とよっちゃんは手元のカップを見つめ、それ以上はなにも聞いてこなかった。

「でも瞬が元気でホントによかったよ。テニス部に入ったって聞いた時はめっちゃびっくりしたけど」

「俺もまさかテニスをすることになるなんて思いもしなかったよ。でも今はそう決断してよかったって思ってる。うちのテニス部強くてさ、上手いヤツもいっぱいいるんだ。毎日いろいろ教えてもらってる」

「そっか。努力家の瞬は絶対上手くなれるよ。僕が保証する」

「よっちゃんに保証されてもな」

「そんなこと言うなよ」

「うそうそ。ありがとう」

 よっちゃんはホッとしたのか後ろのソファにもたれかかった。でも大事なことを思い出したようですぐにまた姿勢を正した。

「それで、今日呼び出したことなんだけど」

「鈴木と田所のことだよね?」

 分かってはいたけどやっぱり気持ちは沈んでしまう。無意識に下を向いていた俺によっちゃんは言う。

「顔を上げて、瞬。別に悪い話じゃないんだ。僕も好き好んで瞬の前でアイツらの話はしないよ。そのくらい分かるだろ?」

「うん」

 確かにそうか。あれだけ俺のことをかばってくれたよっちゃんのことだ。なにか意図があるんだろう。

「分かった。よっちゃんを信じるよ」

 ありがとう、と微笑まれた。

「この前も言ったけど、僕たちは今西和大付属のサッカー部に所属しているんだ。部員も多くて全部で百人弱はいるかな。だから僕なんてBチームの試合にすら出してもらえない。でも二人はすごくて、もうBチームのレギュラーに定着しているんだ。そろそろAチームに上がるかもしれないって噂にもなってる」

 よっちゃんは赤井のことは話さない。きっと俺に気を遣ってくれているんだろう。それによっちゃんは二人のことをすごいと言うけど、俺からすれば当然だと思った。中学の頃も二人は上手かったし、ディフェンダーとしてチームを支える柱のような存在だった。なんせうちは全国を本気で目指していたチームだったから、うちでレギュラーを張れる実力があれば大抵の高校でもやっていけるはずだ。

「はたから見ていてもアイツらの練習に対する姿勢は凄まじいものだよ。中学の頃のアイツらなんて練習時間内でしかボール蹴ってなかったのに、今では瞬みたいに朝早く来たり夜も残って練習してる」

 それは意外だった。中学の頃の赤井、鈴木、田所の三人は練習帰りにゲーセンへ行くことがストレス発散になると言っていた。そうでもしないときつい練習に耐えられないからって。でも今はその時間も練習に充てているということか。

「アイツらも変わったんだな」

「うん。アイツら変わったんだ。でも、アイツらを変えたのは他でもない、瞬なんだよ!」

「俺が?」

 そんなはずはない。俺はアイツらの試合を台無しにしてしまった張本人。恨まれる存在のはずだ。

「俺はアイツらを変えちゃいない。逆に非難される人間のはずだ」

「いや、アイツらを変えたのは間違えなく瞬、君だよ」

 よっちゃんはキッパリと言いきった。

「アイツら、僕に言ってきたんだ。『確かに最初は桜庭の自己中プレーで負けたと思っていたし、試合をめちゃくちゃにされて恨みもした。結局スカウトも来なかったし、アイツのせいで将来を潰された』って」

 たとえ全国へ行けなくてもトーナメントを勝ち上がっていれば、アイツらのプレーはスカウトの目に必ず留まっていただろう。でも結果は初戦負け。俺のせいで。

「でも同時に悔しかったんだとも言ってた。なにが悔しかったんだと思う? 『試合に負けたことじゃない。〝あの試合〟で最後までなにもできなかった自分たちが悔しかったんだ。桜庭の調子が悪くて、全然ゴールが決まらなくて、そこで初めて俺たちはアイツに頼りっぱなしだったことに気づいた。確かにアイツはいつでもゴールを決めてくれていたし、好きじゃなかったけど、やっぱり試合では頼れるエースだった。でもそんなアイツに俺たちはいつしかおんぶに抱っこになっていた。試合ではアイツが決めてくれるからって、練習も気を抜いていたのかもしれない。きっとそのツケが〝あの試合〟で回ってきたんだ』」

 悔しさ。俺は一切感じなかったものだ。感じたのはプレッシャーに打ち克てなかった己の無力さだけ。自分の力を過信しすぎた末路だった。

 でもそこでアイツらは悔しさを感じていた。悔しさを感じるということは、それは前を向いているという証拠だ。次はこうしたい、こうしてやるっていう意志の表れだ。でも無力感からはなにも生まれない。そこから前を向くことをやめてしまっているからだ。〝あの試合〟から立ち直ろうと、前を向こうとしていたのはアイツらの方だったんだ。

「『〝あの試合〟、桜庭が不調の中でも俺たちがもっとがんばっていれば、アイツだけに頼らず、俺たちで点が取れていれば違った結果になっていたのかもしれない。サッカーは十一人でやるもの。誰か一人に頼るんじゃなくて全員で勝利を掴みにいくものだ。そんな簡単なことも忘れてしまっていた』」

 あぁ、そうか。俺も勘違いをしていたんだな。一人だけが上手くなっても意味がない。全員が同じ方向を向かないと、本当の意味でのチームとは言えなかったんだ。

「『だから俺たちは変わるんだ。もう誰かに頼るんじゃなくて自分たちの力で切り拓いていけるように。〝あの試合〟は人に頼ってばかりいたひ弱な自分たちとおさらばする、そんな試合にしたい』って」

 なにも返す言葉が見つからなかった。よっちゃんの一言一言を噛み締めながら、うんうんと頷くことしかできなかった。

 皮肉にもアイツらを変えたのは俺だった。アイツらは〝あの試合〟から確かに前を向いていた。でも俺はどうだ? 俺は変われなかった。今でも時折〝あの試合〟が夢に出てくるほどずっと引きずったままだ。ダメだなぁ、俺。変われたアイツらと、変われなかった俺。サッカーを続けることができなかったのはその違いなのかな。

 ずいぶん長い間話していたと思う。外は既に日が沈んでいた。窓際だったのに全然気づかなかった。道を行き交う人はポケットに手を突っ込んで家路を急いでいる。秋の夕方は急激に冷え込む。

 カランコロン、とお店を出た。おじさんウェイターが扉の閉まるその瞬間まで紳士的に見送ってくれた。

 やっぱり外は寒かった。道行く人と同様にポケットに両手を突っ込んだ。

「学園祭、来週だっけ?」

 よっちゃんは別れる前に聞いてきた。俺たちの家はここから逆方向だ。

「うん」

「遊びに行くね」

「待ってる。……あと、今日はありがとう。少しだけ気が楽になったよ」

「いいっていいって」

 よっちゃんは照れくさそうに鼻の下をかいた。

「テニス、がんばってね」

「うん。サッカーもな」

 最後は互いにエールを送り合って別れた。



「桜庭くん。ちょっとちょっと」

 教室の掃除をしていたら小声で俺を呼ぶ声がした。振り返って声の元をたどると、光野がドアの外から執拗に手招きをしている。なにか重大なことでも起きたのだろうか。それにしては特に慌てている様子でもない。俺は早く掃除を終わらせて部活へ行きたいっていうのに。

 ほうきを近くの机に立てかけて光野の元へ行く。光野は廊下の窓際――教室の扉とは反対側――まで俺を誘導した。窓の外からいきなり午後の太陽が姿を現したもんだから一瞬眩しさに目を細めたけどすぐに慣れた。

「ちょっと相談したいことがあって」

「相談?」

 光野は周囲を確認する。どうやら誰かに聞かれてはまずいことらしい。幸い今はどこの教室もまだ掃除中で廊下の人通りは少ない。近くに誰もいないことを確認して光野は頷いた。

「実は、優里のことなの」

 すごく細々とした声だ。顔を近づけないと聞き取れないほど。

「石川がどうかしたの?」

 こっちも極細声で答える。

「これホントに桜庭くんにしか相談できないことだから」

 と念を押される。そこまでされるとこっちも自然と身構えてしまう。俺にしかできない相談? ……まさか、俺のこと――

「優里ね、瀬尾くんのことが好きなんだって」

 そっちかぁ……って!

「えぇー!?」

 驚きのあまり思わず大声で叫んでしまった。

「うるさいわよ! バカ!」

 いてっ。肩を叩かれた。マウンド上でピッチャーとキャッチャーが会話をする時のように口元に手を当てながら話す。

「石川、ハルのこと好きなの?」

「うん。今朝一緒に登校した時に言われたの。まぁ過去の優里の態度からして、私ももしかしてとは思っていたんだけど」

「全然気づかなかった」

「男の子はそんなものよ」

 ……そんなもんなのか。

「で、相談っていうのは?」

「うん。優里ね、学園祭の時に瀬尾くんに告白したいらしいの」

「告白? あの石川が? 小柄でいつも震えてそうな、あの石川が?」

 光野は頷く。

「でもほら、あの子緊張しいでしょ。一人だったら緊張に圧し潰されて言えないかもしれない。だから私、優里のこと応援してあげたいの。あの子が告白したいなんて言ったの初めてだから。きっと私に言うのだって勇気を出したんだと思うわ」

 確かに。俺の知っている石川はいつも光野の後ろにくっついていて、監督に睨まれたらそれだけで泣きそうで、最近は仲よくなったから普通に話せるようにはなったけど一人で告白するのは難しそうだ。

「でも応援するってどうやって? まさか告白する場に立ち会うわけ?」

「そんなことしないわよ。ただ二人きりになれるようにしてほしいの。桜庭くん、瀬尾くんと仲いいでしょ。なにか理由をつけて呼び出してくれるだけでいいから」

「なるほど。分かった」

 各クラスの掃除が終わったのか廊下の通行人も次第に増えてきた。俺も早く戻らないとサボっていると思われてしまう。

 途中、堤が横を通り過ぎ、「お二人さんヒューヒュー」と冷やかしてきたけど、光野が「うるさい! あっち行って」と一括していた。通り過ぎても尚、堤は光野の後方から口を「ヒューヒュー」とさせてこっちを指を差してきたけど、通りすがりの前島とぶつかりカバンで頭を叩かれていた。

「あとは当日の作戦ね」

 光野とプランを立てたけど、「この時間帯はこの場所の人が少なさそうね」だとか、光野の分析をただ聞いているだけになってしまった。

「とりあえず、最終日の午後三時、演劇部の公演が始まる前に屋上に呼べばいいんだね」

「そうよ。迷惑なお願いかもしれないけど、頼むわね」

「迷惑だなんて思ってないよ。俺も石川とハルがつき合えば最高だって思ってる」

「よかった。ありがとう」

「うん。じゃあ掃除戻るね」

「時間取らせてゴメンね。……あっ、桜庭くん」

 ドアに手をかけようとしたら再び呼び止められた。

「その……この前『あおい』に行った帰り道、友達と話し終わった後元気なかったけど、大丈夫?」

 偶然よっちゃんと会った時のことだ。あの時は鈴木と田所の話がしたいって言われて気持ちが沈んでいた。

「あぁ。それならもう大丈夫」

「そう」

 光野は心底安心したような表情を浮かべた。光野はおせっかいだな、と思ったけど心配してくれたことは素直に嬉しかった。

「心配してくれてありがとう」

「べ、別に心配したわけじゃ……当日はよろしくね」

 光野はそう言うと石川のいるD組の方へ歩いていった。俺も掃除へと戻った。



「しゅーん、部活行こうぜー」

 誰もいない廊下の方から声だけが響いてくる。声に遅れて上履きをサーっと滑らせながらハルが姿を現した。

「今掃除終わるところだからちょっと待ってて」

 塵取りで取ったゴミをゴミ箱に捨てる。ゴミ捨てはじゃんけんに負けた高橋が行くことになった。

「高橋よろしくー」

 おーう、とだるそうな返事が返ってくる。俺は自分のカバンを取り、机に座って待っていたハルに「お待たせ」と伝えて教室を出た。

「結局どこまで行ったの? 新人戦」

 カバンを偉そう肩から担いでいるハルに聞いてみる。

「うーんとぉ、ベスト8かな」

「ベスト8? すげぇじゃん! それって東京で八本の指に入るダブルスってことでしょ?」

「うん、まぁ」

 ハルは特に嬉しそうな表情もせずに前だけを見ている。すごいことなのに。

 個人戦で結果を残すことは団体戦で結果を残すことよりも難しい。団体戦はチーム力がものを言うのに対して個人戦は完全に個々の実力勝負。弱肉強食の世界。群れではなく孤高の存在のみが勝ち進んでいける。

「でもベスト8じゃ全国には行けないしなぁ」

 ハルは口をすぼめて不満そうに言った。

「そうだけど、これからじゃない?」

「そうだな」

 俺たちが廊下を歩いているとトロンボーンを持った女子三人組とすれ違った。吹奏楽部の練習で使う空き教室を探しているみたいだった。

「それよりどうだった? 俺の試合?」

 新人戦での試合のことだ。ハルが興味津々な顔で俺に聞いてくる。

「それこの前も聞いてきたじゃん」

「そうだけど、改めて思うこととかない? あれはああするべきとか、それはそうするでしょとか。テニスって外から見た意見が大事なんだよ」

 改めて思うことか。うーん……

「キャプテンとハル、ペアの相性いいんだなって思った。上手く言えないけど、お互い自分の意見を言い合ってた気がするし、プレーも後衛で粘って最後は前衛で決めるって感じが徹底されてたと思ったよ。だから二人とも無理はしないっていうか、自分の役割を果たしてるっていうか――」

「瞬、分かるのか!?」

 半歩前を行っていたハルが嬉しそうに振り返って肩を叩いてきた。

「キャプテンとめっちゃ練習したんだよ。後衛がつないで前衛が決める形。深く攻められたら無理に返すんじゃなくてロブで逃げたりね。無理に返すと相手の前衛に捕まっちゃうからさ。いやー、分かってくれて嬉しいよ」

 今度は両肩をポンポンと叩かれた。それからまた歩き出す。

「キャプテンも『俺の悪いところはどんとん指摘してくれていいからな』って言ってくれるし、ペアを組んでてやりやすいんだ」

 廊下を曲がって階段を降りる。

「いいペアだね」

 うん、と踊り場のターンでハルが笑っているのが見えた。

「でも瞬は試合を見る目あるよ。中学から続けてるヤツでも俺たちがやろうとしていることの大半は分からないと思うぜ。それを一目見ただけで言い当てるなんてな。瞬こそすげぇよ」

「そうかな」

 たまたま言ったら当たっただけなんだけどね。まぁ結果オーライか。

 下駄箱の横を通り過ぎて校庭に出る。出た瞬間、三時過ぎの西日に晒されて目が眩んだ。その眩しさがさっきの言葉をフラッシュバックさせた。光野が言っていた「優里、瀬尾くんのこと好きみたい」。

 ハルは石川のことどう思っているんだろう。気になるけど、聞くべきか、聞かないべきか。……ええい、聞いちゃえ!

「ハル」

 ん? と相変わらず腑抜けた返事だ。

「石川のこと、どう思う?」

 やべっ、これは直球すぎたかも。でも言ってしまったことは仕方ない。ここで引く方が逆に怪しまれるし。

「石川? どう思うって言われてもなぁ。……小さいとか?」

 そういうことじゃなくて!

「それは俺も分かってるよ。もっとこう特別な感情とかないの? 胸がキュッてなるような」

「瞬は俺になにを言わせたいんだ? なんか変だぞ」

 ダメだ。コイツはひでぇ鈍感ヤロウだ。予想通りっちゃ予想通りだけど。

「ゴメン、なんでもない。忘れて」

 すまない石川。俺余計なことをしてしまったかもしれない。

「変な瞬」

 ハルは少しも怪しむそぶりなど見せずにスタスタと部室へ向かっていく。こういうところは鈍感ヤロウでよかったと思う。

 部室ですぐに着替えてからコートへ向かった。コートに入るとまだ練習は始まっていなくて、みんな端の方でストレッチをしていた。石川は……座っている光野の背中を押して伸ばしてあげている。その横を通るハルに気づくと顔を赤らめて俯き加減になる。なるほど、好きっていう感情がそのまま仕草に出ちゃってるな。分かりやすい。

 そんなことはお構いなしに「今日もがんばろうな、石川」とニコッて声をかけるもんだからハルは罪深い男だ。石川も必死に声を絞り出して「う、うん」と答えたけど、「バカ太一ぃ!」というハルの叫び声にかき消されてしまいその声は無情にも届かなかった。なんて悲しいシーンなんだ。

 同じ場面を見ていた光野と目が合ったけど、こっちもなんだか気まずく感じて互いに視線を逸らしてしまった。

 ほどなくすると監督が来て練習が始まった。

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