8.約束
合宿三日目。ビッグニュースが飛び込んできた。今日はなんと白鷹高校との合同練習が予定されているという。その連絡を監督から聞いたのは昨日の夕飯後のことだった。2年生は知っていたみたいだったけど。それで今は白鷹が練習しているコートに徒歩で移動中。
早朝の山中湖は薄く霧がかっていて、周りを囲んでいる山々の姿は隠されている。でも湖畔から吹き抜けてくる風は夏を感じさせないくらい冷たくて心地いい。ここではセミの声もしないせいか辺りは静寂に包まれている。聞こえるのは白鷹コートへ移動している三十人の不揃いな足音だけだ。
「白鷹と合同練習なんて絶対楽しいよな」
よだれを垂らしそうにしながらハルが言う。
「寝癖ボサボサのヤツがなに言ってんだよ」
「うるせぇ。直んなかったんだよ」
朝っぱらから太一との口上戦も繰り広げられている。
白鷹も夏はここ山中湖に訪れて合宿を行っているとのこと。合宿は昨日からだという。監督同士の話し合いで今日と明日に合同練習をすることになった。
白鷹との合同練習は小田原監督が赴任してきてから毎年実施しているらしい。どうりで2年生は平然としていたわけだ。ていうかなんで1年には教えてくれなかったんだろう。サプライズ? でも東京随一の強豪と合同練習を組めるなんて、やはり小田原監督がただ者じゃないことだけは分かる。
徒歩五分。白鷹の練習場に着いた時には霧は晴れていて、雲一つない青空が顔を出していた。練習場はというと、コートのサーフェスは同じクレーといえど6×2の合計十二面というこれ以上ない広さだ。隣接する宿舎も大理石の壁がところどころに見受けられ、夏の鋭い日差しを優しく反射させてくれている。東京にある摩天楼のような校舎を見ても思ったけど、この充実すぎる施設には圧倒されてばかりだ。全国大会常連校の肩書きもこの完璧な練習環境を覗けば確かに頷ける。
「おはようございます! お願いします!」
『お願いします!』
コートへ入る際にキャプテンの声に倣って全員であいさつをする。準備をしていた白鷹の人たちも俺たちに気づき、倍の大きさであいさつを返してくる。それほどに人数が多い。
白鷹の監督が近寄ってきて小田原監督とあいさつを交わす。十秒と経たずにあいさつが終わると早速コートの中心へ案内された。
白鷹の監督は年齢的に小田原監督よりも大分上に見える。その風貌にも顔には多くのシワが見え、髪の毛も全て色が抜け落ちて白髪となっている。よく言ってもおじいさんという感じだけど、その監督が「集合!」と発した声は地を震わすような轟音で、白鷹の監督という存在感が一声で伝播した。その声に部員たちも素早く反応して俺たちの隣に列を成す。吹野崎の倍近くいる部員が四方から集まってくるもんだからその威圧感に押し倒されそうになった。集団の中には飛び抜けて背の高い熊谷の姿も見えた。
まずは両チームの監督、キャプテンがそれぞれあいさつをした。白鷹のキャプテンはさすがこの大勢をまとめているだけあって貫禄がすごかったけど、金子先輩も負けず劣らず堂々としたいいあいさつだった。その後はすぐに練習に移った。
「マーカータッチ10本×3セット!」
練習は吹野崎と同じように走り込みから開始。ただいつもの走り込みとは一味違った。コート半面を3×3へ分割した各九ヶ所にマーカーを置き、左上から1、2、3と数字を振っていく。そして白鷹の監督が三つ連続で言った数字のマーカーを順々にタッチしていくといったごくシンプルな練習だ。おそらく白鷹でいつもやっている練習なんだろう。
「1、9、5!」
地鳴りのような白鷹の監督の声とともにマーカータッチが始まった。一本一本は短いけど、1コート四人でテンポよく回していくとすぐに自分の順番が来る。それにただ走るだけじゃなくて、言われた数字を覚えながら走らないといけないから頭も使う。本数が進んでいくにつれて疲れが出てくると、言われた数字通りにタッチできなくて怒られる人も出てくる。シンプルだけど中々難しい練習だ。でも体力的にはいつもの走り込みより楽かも。
続くストロークやボレーの練習も白鷹のメニューばかりで新鮮な感覚だった。練習メニューが違えば新たな発見も生まれ、自分を成長させる糧となる。そのような機会をつくることが合同練習の目的なんだろう。いつもとは違う練習を楽しんでいるのか、ハルなんて笑いながらボールを打っていた。スイングの瞬間に飛び散る汗も光を反射させてキラキラと楽しそうに輝いていた。
そんなこんなで午前中の練習はあっという間に終わってしまった。お昼ご飯は白鷹の宿舎の人が俺たちの分までお弁当をつくってくれていて、交流のためにも両チームで一緒に食べることになった。
さっきの練習で同じコートになった者同士仲よく円をつくって食べているところが多い。女子の方はもう意気投合したのかキャーキャーと甲高い声を響かせている。
「瞬、ちょっと来いよ」
弁当を持つハルに手招きされる。なんだろうと思いながら後を着いていくと、いきなり太陽を遮断するほどの大きな壁が目の前に現れた。
「熊谷! せっかくだし一緒に食べようぜ」
巨人がゆっくりと振り返ってくる。
「おう、瀬尾か。いいぞ」
あまり起伏のない低い声で熊谷は答えた。機嫌が悪いわけじゃなくていつもこういう感じなんだってハルが言っていた。でもそのことを知らないヤツにはただ単に怒っているようにしか思えない。
食べるのにちょうどいい日陰を探す。いくらここが避暑地といっても今は真っ昼間だ。日向でご飯なんて食べていたら溶けてしまう。
「あそこにしよう」
熊谷がちょうど宿舎の陰になっている練習場の角を指差した。その周りでもちらほら小さな円ができていて太一の顔も見える。三人でその場所へ行って座った。
「熊谷、紹介するよ」
そう言うとハルがいきなり俺の肩を叩いてきたもんだからビクッとして手に持っていた弁当を落としそうになった。慌ててキャッチして地面にそっと置く。
「チームメイトの瞬だ」
「桜庭瞬です。よろしく」
「俺は熊谷渉だ。よろしく」
熊谷はあまりしゃべらないヤツだって聞いていたけど、話してみるとそんな感じはしなかった。相変わらず起伏のない低い声だけど。
「じゃあ食べようぜ。いっただっきまーす!」
ハルは俺たちの自己紹介が済むと満足そうに頷いて、我先に弁当を食べ始めた。それを見て俺たちも食べようと思ったその時だった。
「そこー! 俺も混ぜてくれやー!」
弁当を持って俺たちの方へ走ってくる人影が見えた。その勢いについ箸を止める。ソイツは俺たちのところまで来ると、疲れたのか膝に手を当てて肩で大きく呼吸をしている。頭頂部をこっちに向けているから目を引くように分かるけど、金髪だ。
「クマさん、ここにおったんか。……あれ、なんで瀬尾クンも一緒なんや? 知り合いなんか?」
クマさんとは熊谷のことだろう。見た目に反してなんてかわいいあだ名なんだろうと思わず吹き出しそうになった。
「中学の知り合いだ」
ソイツは関西弁のでかい声で問いかけるも、熊谷は変わらず淡々と低い声で答える。
「そうなんや! なぁなぁ、俺も混ぜてくれへんか? ええやろ瀬尾クン?」
そう言うとソイツは返事も待たずに俺とハルの間に割って入ってきて腰を下ろした。
「別にいいけど、お前誰だ? なんで俺のこと知ってんだ?」
ハルが珍しく怪訝そうな表情を見せる。
「やっぱり俺のことは分からんかぁ。ショックやわぁ。……なーんてウソウソ。俺は
いきなり現れたと思えば弾丸トークを炸裂させるもんだから俺とハルはあっけに取られてしまった。でも熊谷は慣れているのか、「そうか」と一言返事をすると弁当を食べ始めた。
「試合っていつの?」
ハルは箸を置いて必死に思い出そうとしているけどその顔は一向に晴れない。
「去年の全中予選や」
「……すまん。覚えてない」
ええよええよ、と新は笑いながら首を縦に二回振った。
「自分で言うのもなんやけど、印象に残らんくらいあっさり負けたからな。ホンマ強かったでぇ、キミら。手も足も出んかったわぁ。キミのペアの――」
と言って新は俺の方を振り返ってきた。
「あれ、藤野クンやない」
不思議そうに首を傾げられる。
「あぁ。コイツは瞬だ。高校からテニスを始めたから新は知らないと思うぜ」
「桜庭瞬です。よろしく」
「よろしゅう。俺のことは新でもブンちゃんでもええで」
さっきと変わらないハイトーンで親しげに握手を求められた。俺は箸を置いてそれに応える。新は俺の手を取って腕をブンブン振り回すと満足そうな表情を浮かべた。
「……ちょっと待てや。今、高校からテニス始めた言うたか?」
「そ、そうだけど」
言ったのは俺じゃないけど関西弁の強気な物言いについ肯定してしまった。
「さっきラリー練習で相手したの覚えとるけど、俺の球フツーに返しとったよな?」
「返すことに精いっぱいだったけどね」
「いやいや、えらいこっちゃやで! だってまだ――」
いち、に、さん、し……と指を折っていく。
「まだ五ヶ月しか経ってないやないかい。そんで俺とフツーにラリーしとるって、お前すげぇな! 天才か!」
新は人を喜ばせることが得意みたいだ。ハッハッハ、と高らかに笑いながら肩を数回叩かれた。新の中では友好の印みたいなものなんだろう。痛かったけど仲よくなれたみたいでよかった。
「まぁせやけど――」
急に新の目が真剣なまなざしに変わった。
「
そう言うと新は俺に不敵な笑みを見せた。新の表情に俺は少したじろいでしまった。
「そんなの当たり前だろ」
弁当を食べながらもハルがツッコむ。でも新の言う通り俺はみんなと比べればまだまだだってことは分かっている。
「それに
「言うねぇ瀬尾クン」
ハルがここまで他人に強く言うのは初めてだけど、それでも新は怯むことなくまた不敵な笑みを浮かべた。
「せやけど二年後、どっちが上かは分からんでぇ」
新の挑発にハルは一瞬だけ俺を見て、それから新に言い返す。
「その言葉、そっくりそのまま返してやるよ」
不穏な空気っていうか、ピリピリしてるなぁ。ライバル関係ってやつなのかな。新に対するハルの反応からはそうとは思えなかったけど。
俺がまだ弁当に一切箸をつけていない――熊谷だけは俺たちの会話に目もくれず黙々と食べている――のを新が気づいた。
「ぎょーさんしゃべりすぎたわ。すまんな。食べようや」
「そうだな」
ハルが答えると驚くことにピリピリムードは一瞬のうちに消え去った。ふぅ、と一安心。
ただ弁当を食べながらも新の口は閉じることを知らず、マシンガントークで次々と話題を振ってくる。ハルとはまた違ったタイプのお調子者だ。ハルも似た者だからお調子者同士気が合うのか二人の間はよく盛り上がっていた。さっきまでピリついていた空気が嘘みたいだ。
「なんでお前金髪なの? 怒られないの?」
「ジジイは練習ちゃんとやれば別にかまへんって感じやからなにも言わへんな。あっ、ジジイいうのは俺たちの監督のことな。練習の時は監督ぅ呼んどるけど、日常生活じゃ愛称も込めてジジイって呼んどるんや。仲ええやろ」
ジジイって、そんな呼び方してよく怒られないな。これも新の愛嬌ってやつなのかな。
「でもこの前担任に見つかった時はぎょーさん怒られたわ。ただミサキちゃんとかリカちゃんとか――あっ、クラスの子なんやけど、その子たちからかっこいいねって言われてしもうたんや」
「そりゃ変えたくなくなるな!」
「せやろぉ! 瀬尾クン分かっとるねぇ」
これはあれだ。東西アホ同士の会談に違いない。似た者同士とは思ったけど、新もきっとバカだ。
「にしても、キミらんとこのあの子、かわええなぁ」
「あー、光野ね。アイツはダメダメ」
「なんでやぁ」
ここでも光野の話が出てくる。OBの先輩たちにも人気があったし、アイツすげぇな。
「桜庭クンもかわええと思うやろ?」
「ん? あぁ……うん」
否定するのはどうかと思ったから曖昧な答えになってしまった。代わりに新に聞いてみたいことがあった。
「新」
「なんや?」
「さっきさ、『東京の中学でテニスしてたヤツでアキハルペアを知らない人はいない』って言ってたよね? あれってハルのこと?」
せやで、とすぐに返事が来た。
「瀬尾クンが組んでたダブルスの愛称やったんや。瀬尾春人のハルと、藤野……」
「千秋だ」
ハルがすかさずフォローする。
「せやせや。藤野千秋のアキ。その二つを取ってアキハルペア。周りからそう呼ばれてたんや」
「へぇ。かわいい名前だね」
「せやろ。でもそのかわいい名前に反してめっちゃ強かったんや。タチが悪いで」
新は笑いながらもハルを睨んだ。
「名前はしょうがないだろう。それにアキハルペアって勝手に名前つけたのはお前らだろう」
せやな、と新がニッと笑った。顔のパーツがそれぞれ真横に広がるおもしろい笑い方だ。
「3年の時は全中行ったんやろ?」
「いや、行けなかった。全国をかけた試合で負けちまったんだ」
「そうか。それは残念やったな」
「あぁ。惜しいことをしたよ」
そう言ってハルは空を仰いだ。その視線を追うとでっかい入道雲がその背を高く高く伸ばしていた。
熊谷は変わらず黙々と食べ続けていてもう少しで完食しそうだ。そんな熊谷にハルが疑問を投げかける。
「そういや熊谷」
「なんだ?」
きんぴらごぼうを口へ運ぼうとしていた手を止める。
「お前どうやってレギュラーに選ばれたんだよ。1年からレギュラーとかすごすぎだろ。しかも強豪白鷹で」
あぁ、と熊谷も思い出すように遠くの空を見つめ、それから低い声で答える。
「あれは本当に運がよかっただけなんだ。うちは新入生が入ってきたら体制を一新させてその中からレギュラーを決める。トーナメント方式のセレクションをやって、勝ち上がった上位二人がシングルスのレギュラーに選ばれるんだ。監督は完全実力主義者だから、いくら過去の実績があったとしても本番で勝てなければ意味がないと考えていてな」
「それで勝ち上がったってことか?」
「あぁ。自分で言うのもなんだが、その日はすこぶる調子がよくてな。気づいたらレギュラーの座を勝ち取っていた」
話し終えると熊谷は一息つくようにお茶を飲んだ。
「調子よかったの一言で勝っちゃうところがお前のすごいところだよ」
やれやれ、というようにハルは両手を上げた。熊谷は構わず弁当の続きを進める。
「ホンマかっこよかったでぇ。あの日のクマさんは」
新が興奮しながら当時を振り返る。
「先輩たちを片っ端から倒していきよって、結果的には頂点や」
「先輩たちにはいきなり出てきた1年に負けられないというプレッシャーもあったと思うがな」
熊谷が謙遜する。
「そうかもしれへんけど、監督の言う通り本番で勝てなきゃ意味ないんやから。1年のプレッシャーなんかに負けてたら、それこそ都大会やインハイ本番じゃ勝てへんで」
「新の言う通りだ」
ハルが肯定する。
「でも羨ましいぜ。あの白鷹で1年の時からレギュラーだなんて。しかも全国にも出たなんてよ」
テニスをまだよく知らない俺でも熊谷が成し遂げたことの大きさは分かる。
「でもお前らの主将だった人は本当に強かったよ。スコア以上に差を感じた」
熊谷が言ったのは不動先輩との試合のことだろう。あの試合は7―5で不動先輩に軍配が上がった。はたから見たら接戦に感じたけど、実際にプレーしていた側は違った感触を抱いていたのかもしれない。
「そうだろ。不動先輩はすごいんだから」
ハルがエッヘンと胸を張るもんだからなんだか俺も誇らしくなった。
「で、どうだったよ? 全国は?」
ハルは急に神妙な顔つきに変わった。でも口元には笑みがこぼれている。あれだけ全国に執着しているハルのことだ。そこがどんな舞台なのか気になるのは当然のことだろう。
「全国は……そうだな。一言で言うと〝異世界〟だったな。周りの選手のレベルはもちろん、会場の大きさ、雰囲気、応援の多さ、なにを取っても今まで経験したことのない世界だった」
誰もが行けるところではない。全国に大勢いるテニスプレーヤーの中でもほんの一握りしか立つことの許されない舞台。それを経験した強者が今俺の目の前にいる。同じチームの新でさえも熊谷の話を真剣に聞いている。
「そうか」
ハルは一言そう答えた。それから暫く沈黙が流れた。誰も箸を持つ手すら動かさない。
「で、でも、ハルも全中の一歩手前まで行ったんでしょ? なら全国がどんなところなのかは分かるんじゃないの?」
一瞬目が合ったけどハルは視線を落とし、首を二、三回横に振った。
「全国の空気ってやつは実際に出たヤツにしか分からないもんだよ。俺も試合は見たことあるけど、周りから見るのとその中心でプレーするのは多分違う」
ハルは時折見せる真剣な表情を浮かべていた。
「それに俺は全中とインハイの雰囲気は全く別物だと思ってる。高校生は体格も大きく変わってくる時期だから、今までくすぶっていた才能が一気に開花するヤツも多くなるからね。中学で通用していたテニスも高校じゃ通用しなくなるかもしれない」
俺は「そうなんだ」としか言えなかった。ハルは恐れているのだろうか? 自分のテニスがここでは通用しなくなるんじゃないかということに。ハルの真剣な表情がそう思わせる。
同じことを察したのかは分からないけど、今のこの場の空気に似つかないいつもの朗らかな調子で新がハルに言う。
「大丈夫やて。心配せんでも瀬尾クンは高校でもじゅーぶん通用すると思うで。なんせ、試合したこの俺が言うんや。間違いない」
今度は新がエッヘンと胸を張るも、ハルの浮かない表情は変わらなかった。
「嬉しいけど、説得力に欠けるなぁ」
「な、なんやて!」
恥ずかしがる新の反応がおもしろくて俺とハルは笑ってしまった。
「ゴホンッ。た、確かに、あっさりと負けた俺には説得力がないかもしれへんけど」
気を取り直して新が続ける。
「俺はキミらのことを、中学生のくせに大人なテニスするヤツらやなって感心したんや。攻守の区別がハッキリしとうて、守る時は徹底して守って無理には攻めてけぇへん。俺なんてそんなこと考えもせんと攻撃あるのみやぁ! 言うてバンバン打ち込んどったけど、それを全部きれいに捌かれるもんやからそれはもう衝撃やったでぇ。こんなテニスもあるんか言うてね。キラキラして見えたでぇ、二人は。同時に憧れてしもうたんや。せやから俺は決めたんや。お前らみたいな大人なテニスをするってな」
新の力説を聞いていたハルの顔にだんだんと明るさが戻っていき、最後はいつもの笑顔を見せてくれた。
「分かってんな、新。俺たちのスタイルのこと」
「せやろ」
肘で互いに小突き合う。
「そういえば藤野クンはどこ行ったんや?」
「あぁ、アイツは――」
ハルが言おうとした時、「集合!」と午後練の始まる号令がかかった。話に盛り上がってしまい、気づいたらもう昼休憩の時間は終わろうとしていた。熊谷は既に食べ終わっていて悠々とコートへ向かっている。俺、ハル、新は急いで弁当の残りをかき込んでダッシュで向かった。
日陰から出るやいなや一気に午後の日差しの下に晒された。一瞬で暑さを感じたけどそれもすぐに忘れ、意識は午後の練習へとのめり込んでいった。
「ふぅ……気持ちいぃ」
ザバァ、と浴槽から体重分のお湯が溢れ出ていく。今日の疲れが体の中心から四肢の末端へと伝い、お湯へ溶けていく。そのなんとも言えない快感に自然と目を瞑る。
「じゃあ俺たち先出るわ」
太一と南が風呂場を後にする様子を薄目を開けて見届ける。が――
「やっほーい」
正面からムササビのようにこっちへ飛びかかってくる影が現れ、俺はさっきまでの快感から引きずり出されるように驚いて目を見開いた。その影はそのまま目の前の穏やかな水面に勢いよく着水し、そこから発生した大波が俺の顔を攻撃する。
「ゲホッ! もうハルってば……」
プハァ、と満足そうに水面からニコニコの顔が現れる。
「あー、さいこー」
「いきなり飛び込んでくるなよ。びっくりするだろ」
「悪い悪い。でもこればっかりは俺のポリシーなのだよ、瞬くん!」
なぁにがポリシーだよ、っていう顔で睨んだつもりだったけどハルは全く悪びれもしない。
「なぜ飛び込むのかって? そこに風呂があるからだ!」
ハルは勢いよく立ち上がると仁王立ちで窓の外を指差した。立ち上がった時の水しぶきがまた顔にかかった。
風呂場は俺とハルの二人きりのせいか、俺がなにも反応しないとただただ静寂が訪れるだけだ。隅の方からは天井の滴がポツンと床を穿つ音が響いてくる。
そんな静寂に耐えられなくなってか、ハルはかっこつけて窓の外を指差していた手でゴホンと一つ咳払いし、「いやぁ今日は疲れたなぁ」と俺の隣に座ってきた。仕方ないから「そうだね」と答えてあげた。
風呂場に設置してあるシャワーの数には限りがあって、一遍に1年全員が使えないことからじゃんけんに負けた俺の部屋の四人が本日最後の風呂場使用者となった。太一と南はもう出て行ってしまったから俺とハルが一番最後まで残っている。それはそれで浴槽を広々と使えるから得した気分だ。
二人で気持ちよく湯船に浸かっていたら自然と今日の合同練習を振り返っていた。
「まさかまた熊谷のヤロウと一緒に練習することになるとは思わなかったな。アイツまた打球速くなってたし」
俺も一度だけラリーする機会があったけど、とても打ち返せるようなボールではなかった。その速さはもちろんのこと、なによりもボールが重かった。
「さすが全国経験者って感じだね」
「ホントだよ。いつの間にか遠い存在になっちまったぜ。それにレギュラー決めの裏話にも驚かされたな。まぁアイツらしいっちゃアイツらしいんだけど」
昔を顧みたのか、フッとハルは笑った。
「そういえば新もおもしろいヤツだったな」
ハルの声色が明るくなる。ハルとは似たような性格だったこともあってかなり仲よくなったみたいだ。確かにいいヤツだったし話もおもしろかった。
「そうだね。新の話で思い出したけど、ハルと新って中学の時に対戦してたんだね。驚いたよ」
「それ聞いた時俺もびっくりした」
「ホントに覚えてないんだ」
「そりゃねぇ。対戦した人の顔なんていちいち覚えてらんねぇよ。サッカーだってそうだろ?」
「確かにそうか」
白い湯気と少しのさざ波。静かな空間。まるで世界に俺たち二人しかいなくなったみたいだ。
「ハル、一つ聞いてもいい?」
「いーよー」
急にだらしない声が返ってきたもんだからハルの方を見ると、浴槽の中でふんぞり返って顎までお湯に浸かっていた。まぁいいかと続ける。
「ずっと聞きたかったんだけど今まで聞くタイミング逃してて。ふと今思い出したんだ」
うん、と答えるハルはなんだかせわしない。よく見ると湯船の中で両手両足をバタバタ動かして体を浮かそうとしていた。さっきからさざ波が立っていたのはこのせいか。全然浮いてないけど。
「一番最初の練習の日。ほら、監督に目標言えって言われたあの日。ハル、『絶対全国行きます』って監督に言ってたじゃん? その後俺が『全国に行くなんてすごいね』って言ったら、『〝約束〟があるんだ』って言ったこと覚えてる?」
「覚えてるよー」
まだ浮くことを諦めていないのか四肢の動きは止まらない。返事もついでみたいになっているけど、一応俺の話をちゃんと聞いてくれていることは分かった。……多分。
「その〝約束〟ってなに? 全中行けなかったから高校では全国へ行きたいってこと?」
一向に浮く気配がなかったからか、さすがに挑戦を諦めたようだ。震源の活動がやんだことで浴槽のさざ波も徐々に収まっていく。
「うーん。それもあるけど、一番は友達との〝約束〟だな」
ハルはボーっと目の前の空間を見ながら話し始めた。でもその目はどこか違うところを見ている気がした。
「新が言ってたアキハルペアって覚えてるか?」
「うん。覚えてるよ」
「〝約束〟っていうのはそのアキとのものなんだ。……あっ、別にアキが死んだとかそういうんじゃねぇからな」
そう言ってしんみりとしていた空気を笑って和らげてくれた。俺が真剣に聞いていたもんだから少し空気が重くなっていたのかもしれない。
「一瞬そう思ったけど、よかった」
「アイツは今もちゃんと生きてるよ」
ハルはニコッと笑った。それにつられて俺も笑った。
「アキはめっちゃテニス上手くてさ。俺はアイツにテニスを教えてもらったんだ。教えてもらったといっても俺が小5から通い始めたスクールに元々アキがいて、よく一緒に練習したりアドバイスをくれる存在だったって感じかな。でも今の俺があるのは間違いなくアキのお陰なんだ。アキはすげぇヤツなんだよ」
水中で握り締めた拳を見てハルは誇らしそうに笑った。ハルにここまで言われるアキくんって一体どんな人なんだろう。
「アキは元々一つ上の先輩とペアを組んでいて、先輩が卒業していなくなった6年生の時に俺は初めてアキとペアを組んだんだ。俺、その時はホント下手クソだったんだけど、アキの方から『俺とペアを組もう』って言ってくれて、本当に嬉しかった。それまで俺はアキのプレーをフェンスの外でただ見ているだけだったから。それで中学になってもペアを組もうって約束して同じ中学校に進んだんだ。それはもう毎日が楽しくて夢中だったよ」
そう語るハルを見て今の俺もそうだと思った。毎日が楽しくて一球一球を夢中で追っている。
「アキくんはその先輩の中学には行かなかったんだ」
「うん。俺も最初はそう思って聞いてみたんだけど、『俺はハルと組んでる方が楽しいから』って。だから俺はアキのために、アキを勝たせるために必死で練習した。家に帰ってからも本とか読んで勉強したこともあったなぁ」
「へぇ。ハルが勉強ねぇ」
「なんだよ瞬。俺だって勉強くらいするぞ。……テニスのだけど」
口を尖らせながら必死に言い張る姿がなんだか子供みたいでかわいかった。
「小学生からずっと一緒に練習してきたからか、アキとはペアの相性がすごくよくてさ。俺たちは1年にしてレギュラーの座を掴み取ったんだ」
「練習は中学校の部活だけだったの?」
「いや、スクールにもちゃんと通ってたよ。部活が終わったら夜からスクール行って練習して、毎日その繰り返しだった」
ハードだなぁ、と思っていたことが見透かされたのか、「疲れるけど全然大変じゃなかったよ」と急に目を見て言われた。ホントこういう時は鋭いんだから。
「寝て起きたら体力なんて知らぬ間に回復してた。毎朝起きた時は『今日もがんばろー』って感じだったね。お陰で勉強はおろそかにしてたから成績はいいもんじゃなかったけどね」
エヘヘ、と頭をかく。
「でもアキは頭よかったんだよなぁ。同じ練習量なのに俺は成績下位でアキは上位だったからよくバカにされたっけ」
「今もそうじゃん」
「うるせぇ」
パシャ、と湯船の水をかけられた。
「俺たちアキハルペアは全国大会を目指していたんだ。そして最後の大会、全中予選でチャンスが巡ってきた。俺たちは順当に勝ち上がって、これに勝てば全国というところまで行った。相手は強かったけど、決して勝てない相手じゃなかった。俺たちもそれまでは調子よかったし、いつも通りのテニスをすれば勝てる試合だった」
最初こそハルは笑いながら話していたけど、次第にその顔には悔しさが込み上げてきていた。
「でも負けちまった。これに勝ったら念願の全国に行けるって思ったら、俺力入りすぎちゃって。らしくないミスも連発するし、ミスがミスを呼んでその後のプレーは積極性に欠けるしで、完全に相手のペースに呑み込まれちまった。アキは『ダブルスで負けた時はどんな形だろうと互いに責任がある』って言ってくれたけど、あれは完全に俺のせいだった。アキには申し訳ないことをした」
……似ている。〝あの試合〟で中学最後の大会というプレッシャーに呑み込まれて思うようにプレーできなかった俺と。
ハルはいつだって冷静にプレーできるヤツだと思っていた。でもハルにもそんな過去があったんだ。そりゃ全国行きの切符を目の前にすれば誰だって力は入るよな。俺は一回戦だったけど。
「俺はどうしても悔しくてさ。試合が終わった後、泣きながらアキに『高校に行ったら絶対全国行こう。だから高校でも俺とペア組んでくれ』ってお願いしたんだ。アキは笑って頷いてくれた」
「じゃあなんで?」
ハルの顔が曇っていく。
「ちょうど大会が終わって一週間後のことだった。アイツの親父さんが事故で亡くなったんだ」
ゴクリと唾が喉を通る。
「本当に急だった。親父さんはよく俺たちの試合を見に来てくれていて、最後の試合も声をからして応援してくれていたんだ。アキの親父さんは俺にとっての父ちゃんでもあった」
ハルの声、最後の方は少し震えているように聞こえた。
「アキは母方の実家に引き取られることになって、今は福岡の高校に通ってる。アイツの行ってる高校、強いんだぜ。全国大会の常連だし、今年のインハイでは個人戦のダブルスで優勝してた。来年か、再来年か、アイツは絶対レギュラーとして出てくる」
「じゃあ〝約束〟っていうのは」
「そう。全国大会で会おうってこと」
そうか。だから「なにがなんでも全国へ行きます」って言っていたのか。友達との〝約束〟を果たすために。
「でも当時の俺はさ、高校もアキとペアを組んで一緒に全国目指すんだって思ってたから、アキが福岡へ行くって聞いた時は目の前が真っ暗になって。アキが福岡へ行っちまった後は勉強もテニスもせずボーっとしてたんだよね」
なんか俺もそうだったな。〝あの試合〟が終わってからは毎日が抜け殻だった。今では比べ物にならないくらい毎日が充実しているけど。充実っていうよりは必死って感じか。
「そしたら母ちゃんがアキの母ちゃんに告げ口しやがってさ。今ではそれに感謝してるんだけど、いきなりアキが俺んとこ訪ねてきたんだよ」
「福岡から?」
「うん。夜行バスで」
嬉しそうに頷くハル。
「いきなりアキが目の前に現れたもんだから、その時も俺はボーっとしちゃって。そしたら『コート行くぞ』ってアキが俺を連れ出してくれてさ、久しぶりに二人で打ったんだ。アキのヤツ、親父さんが亡くなったっていうのに悲しい顔なんてこれっぽっちも見せずに堂々としててさ。逆に俺がくよくよしてたもんだから、どっちが親父を亡くしたのか分からないって言われたよ。ホントその通り」
ハルは自分で自分を嘲笑うように肩をすぼめた。
「実は俺、入学する前に一度だけハルを見たことがあるんだ。親水公園でテニスしてるところ。多分、俺が見たのはハルがアキくんと打っているところだったのかも」
「そうだったんだ! 偶然って重なるもんだな」
ハルは驚いた顔で俺を見た。
「そうだね。でもホントに二人とも楽しそうだった」
「うん。すげぇ楽しかった。今までのテニス人生で一番楽しかった」
ハルはニコッと笑った。やっぱりいい笑顔だ。
「最初は急にアキが現れて、しかもいきなりテニスするぞって言うもんだからわけが分からなくて。でも打っているうちに次第に楽しくなってきて、それで気づいたんだ。別にもうアキとテニスができなくなったわけじゃないって。やろうと思えば今日みたいにできるって。そしたら急に肩の荷が下りて、俺なにやってんだ、って思えてきたんだ」
「それ分かるかも。俺もその時期迷ってたことがあってさ。でもハルがテニスしている姿を見てたら、楽しそうだな、自由だな、って思った」
なんだよそれ、とハルは笑った。
でも驚いた。同じ日にハルも落ち込んでいたなんて。そんなこと感じさせないくらい楽しそうにプレーしていたから。
「まぁ瞬の力になれたんならよかった」
「力になったよ。でもまさか同じ高校で同じ部活に入るなんて思いもしなかったけどね」
「すごい偶然だよな!」
無人の風呂場で二人で盛り上がる。不意にハルが「そういえば」となにかを思い出したらしい。
「アキはホントにすごいヤツだったんだけど、アイツにはペアの俺にも見えないものが見えていたらしいんだ」
俺は首を傾げ、ハルは話を続ける。
「アイツはそれを『ダブルスのその先の景色』って呼んでた。俺にはさっぱり分かんねぇ。教えてくれって言っても、それだけは決して教えてくれなかった。自分で見つけろって」
ハルはブスッと両方の頬を膨らませて不機嫌な表情を見せる。
「おかしいよな。同じダブルスのペアなのに、アキには見えて俺には見えないものがあるなんて。てっきり見えるものは同じだと思ってた」
同じポイントを争い、同じボールを追いかけ、同じ方向を見て戦っているのに違う景色が見える。確かにそれは不思議だ。
「でも上手くなるにつれて見えてくる景色が変わっていくのは事実だ。今まで見えなかったものが〝見えて〟くる。相手の目線だったり、ペアの呼吸のタイミングだったりね。でもまだ『ダブルスのその先の景色』がなんなのか俺には見えていない。だから今はそれを探す旅をしてるんだと思ってる」
ダブルスのその先の景色、か。今の俺には相手の目線もペアの呼吸も分からないけど、いつかは……
「見てみたいなぁ」
思わず声に漏れてしまっていた。ハッとして口を抑えたけど別にハルは笑わなかった。
「見てみたいよなぁ。でも俺、瞬とだったら見れる気がする」
「俺と?」
「うん」
ハルが真剣な顔で頷くもんだから俺もつられて「うん」と頷いた。
少しの静寂の後、急にハルが立ち上がって天高く拳を掲げた。
「よし決めた! 俺の目標は全国大会へ行くこと
そう言うとハルは「うぉー! 勝つぞぉー!」と叫びながら風呂場を出ていってしまった。やっぱり自由なヤツだ。
ハルに続いて俺も出た。風呂場には完全な静寂が訪れた。
合宿四日目の合同練習は試合形式のメニューが中心だった。これまでずっと基礎練ばかりだった分、ハルは試合形式の練習に楽しそうに取り組んでいた。俺は吹野崎のコートでもそういった練習をやったことがなかったから着いていくのに必死だった。練習の成果は出せたり出せなかったり。出せなかった方が多いかな。
試合形式の練習は基礎練と違って相手がいる。ただボールを打つだけじゃダメで、相手の動きをよく見て考えながらプレーする必要がある。監督がいつも言っている「イメージしろ」の言葉の中には相手の動きやその時の状況も含まれているんだと実感した。
練習後には熊谷と新に「またね」と言って白鷹のコートを後にした。小田原監督が白鷹の監督に深々と頭を下げていたのが印象的だった。
合宿最終日は宿舎のコートで練習をした。合宿を通して誰も大きなケガをしなかったのは本当によかった。転んで擦り剥いたりした小さなケガは何ヶ所かあったけど、それよりも部屋のドアに思いきり足の小指をぶつけたことの方が何倍も痛かった。地味だけどすげぇ痛いんだよな、あれ。ぶつけた後の数秒間は悶絶してなにも言葉を発せなかった。俺が部屋に入ってくるなりいきなりうずくまるもんだから、太一が慌てて「大丈夫か?」と声をかけてくれたんだけど、「足の小指ぶつけた」って言ったら「そんなことかよ」って呆れられた。そんなことって、太一が想像している何百倍も痛いんだぞ! って言おうとしたけど惨めだなって思ったからやめた。
ちょっとした事件はこれくらいだったかな。あとはひたすら練習あるのみで、今はみんな疲れ果てて帰りのバスで爆睡中。ふぁあ、と俺も長いあくびが出た。そろそろ寝ようかな。帰ったら洗濯物出して、素振りはご飯の前にするか後にするか……
バスは静かに吹野崎テニス部を東京まで運んでくれた。バスを降りた時に感じた夜の涼しさが秋の訪れを密かに教えてくれた。
テニスを始めて最初の暑い暑い夏が終わろうとしていた。
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