第42話 癒術師ジル3

 

【42】癒術師ジル3




 待合室のベンチの上に腰掛け、細い足を揺らしたアーニーは一冊の本を読んでいた。

 少女の華奢な指が、子ども向けと言うには堅苦しく、しかし歴史書と言い切るにも柔らかく噛み砕かれた内容が記載されたページを、一枚、また一枚と捲る。


 アーニーの小さな手には到底収まりきらない分厚い本だ。片手で支えたままではページを捲ることすら出来ないため、小さな膝の上に寝かせられた本は、必死な読み手の期待に応え続けている。


 アーニーにとってこの世界の知識とは、沢山の人間から見聞きしたものが主体だった。


 初めて自分と言う切り離された人格が宿った聖骸アーニーと言う少年に始まり、他五人の聖骸の持つそれぞれの記憶。

 そして、目が覚めて初めて自分を一つの命として尊重してくれた、グレッグと言う名の青年。

 逃げる聖骸を追跡したシスターに始まり、この街に至るまでに言葉を交わした幾人かの人間達。


 それら全てがアーニーにとっては貴重な情報源であり、受動的にいてもある程度自動的に与えられる知識のリソースだった。


 少女の小さな体というのは、大人のそれより油断も庇護欲も誘いやすい。アーニーが黙っていた所で、勝手に人見知りと勘違いしてくれた人々は色々な話を聞かせてくれた。


 アーニーの様な転生者にとって、この世界は元の世界に似てはいるものの、その根本は未知のものだ。


 意識しなくとも言葉を理解することはできる。通貨や常識、生活するに必要な最低限の知識もある。それでも、実際に体験し驚いた事は非常に多かった。


 特に転生者のアーニーから見て、現地人に当たるテオやグレッグの様にこの世界で生まれ育った者の持つ潜在的な能力には、時として目を見張るものがあった。


 体質に依存するものの、この世界の人間は多くの才能に恵まれているとアーニーは考えている。

 元の世界では考えられない程の頑強な肉体や、強靭な膂力を持つ戦士。適正さえあれば誰でも超常現象を引き起こすことが出来る魔術という仕組み。


 手から炎が生えてくるなど馬鹿を言うなと、アーニーはこの世界に来たばかりの頃に思ったことがあった。

 妙齢の女性が同じくらいの体格の人間を二人も担いで三キロの距離を爆走するなど、あっていいはずがないとそう吐き捨てたくなった事もあった。


 彼らはこの世界のおいて、総じてただの人間だった。

 自分達のように世界を跨いで訪れた転生者であるわけでも、戦う為に作り替えられた聖骸の体を持つ訳でもない。


 神様に愛されている。

 そうとしか言い様がない程に、彼らの体は神秘に溢れている。


 死を跨いでまでして、元の世界から弾き飛ばされてまでして。

 そこまでをして初めてこの力を手にした自分達の存在があまりに馬鹿馬鹿しく感じられるほどに、現地の人間達はこの世界の神に愛されていた。


 特にアーニーは自分の権能に自信が持てない。非戦闘系のアーニーの権能では、ろくに守ることも戦うことも出来やしない。


 そうだと言うのに、この世界の人間達は、自分より余程恵まれた体や力を持っていながら、どうしてそこまでして聖骸に頼るのだろうか。

 本音を言えば、現地人達の期待の根源が、アーニーには上手く理解が出来ていなかった。


 安易なまでに簡単に、逃亡という選択肢を選べたのもその為だ。アーニーにとっては、華奢な体と役に立たない権能、そんな物しか持たない自分より、現地の人間達の方が余程戦いに向いているように感じられていた。


 何よりも、この世界は癒術という奇跡が存在すると聞く。生きてさえいれば、どんな傷も治るだなんて馬鹿げた奇跡だ。


 そんなものがあるならば、死した体に希望を託すよりも、生きた彼らが戦う方がずっとずっと合理的ではないか。

 壊れればそれまでの聖骸と、逃げ伸びれば永遠と再戦を挑める人間では比べるまでもない。


 ずっと、そう思っていた。


 ページを捲るアーニーの指が止まらない。

 この世界に来て様々な人々から語られた聖骸の英雄譚は、確かにどれも耳触りが良いものだった。だが、これまでのアーニーはその全てを信じきれずにいたのも確かであった。


 口頭の話は大抵情報が欠けたり、尾ひれが付いたり、はたまた語り手の語調一つですら大きく印象が変わる。

 アーニーがこの街までの道すがら耳にした英雄譚は、まるでどこか御伽噺じみていた。


 けれど、どうしてだろう。

 その御伽噺を文字にした記録を読んだ今、同じ様に考え続ける事が難しくなる。絵本のような夢物語ではない、これは確かに簡易的なものではあるものの歴史書だ。


 戦いに身を投じ、敗れた聖骸一人一人の名前を見る度に、その御伽噺は正しく全て歴史であったのだと理解した。


 一人の少女が持ち上げて読むにはあまりに重い一冊の本。膝の上で横たわる分厚い歴史。指先で巡れる紙面上に存在した、同郷達の生き様と共に語り継がれた壮絶な死に様。

 それらが実在したという一つの事実は、逃亡を選んでここまで来たアーニーにはあまりにも重すぎた。


 自分の力が戦いに向いていなかっただけで。

 自分の中の他の人格が十全にその力を振るう機会が無かっただけで。


 聖骸の、転生者の、我々の。

 この権能という力とは、本来恐ろしい程に強力なものだったと思い知った。


 聖骸とは、人類に希望を託されるに値する存在であり、死してなお、敗北してなお、英雄として語り継がれるに足る存在であると、アーニーは気が付いてしまった。


 膝に抱えた本を撫で、疲れたようにアーニーは息を吐く。その耳が、態とらしく高らかに鳴らされた靴の音を捉えた。

 音に釣られて手にした本から顔を上げたアーニーの目に、暖簾を潜り待合室に戻ったジルの姿が映った。


 ジルはたった一つ残った右目をゆったりと細めて、本を抱えてベンチに座るアーニーを見詰めている。


「治療は終わった。奴が起きるまでは待っていなさい」

「え、も、もう治ったの?」


 ジルの言葉にアーニーは反射的にそう聞き返した。膝に乗せていた本を脇に退け、ベンチから立ち上がる。


 聖骸リリーに宿る六つの人格は、既に別々の六人となった。そうである以上、心の奥底までがあけすけにはならないものの、その視覚や聴覚から得られる記憶に関しては互いに共有することが可能だ。


 ソフィアがテオに負傷させた際は休眠状態だった為に制止出来なかったアーニーだが、その負傷の過程はソフィアの記録を辿って知っていた。


 テオが昨夜ベッドを譲ると頑なに主張するので一度は飲んだものの、夜中に聞こえる苦しげな呼吸には良心が傷んだものだ。


 結局、思いのほかテオを気に入っていたらしいニーナが寝床へとテオを担ぎ上げ、ぬくぬくとその体温を堪能していた。

 あの体温の高さはテオの筋肉量が多いだけではなく、怪我による発熱もあったはずだとアーニーは考えている。


 そんな怪我人が、たった数十分で治療を終えたと言うのは、癒術と言う力の神秘を実際に目にした事の無いアーニーからすれば、信じ難い事だった。


 驚いて目を見開くアーニーを不審そうにジルは見遣る。しかし不安を押し殺すことも出来ずに自分を見上げ続ける少女を見かねたのか、足音を殺してそばに近付き膝を着いた。


「大丈夫だ。今は奥で寝ているが、すぐに目が覚めるとも」

「ほ、本当に?」

「ああ、本当だ。心配することは何もない」


 生来からの鋭い目付きを精一杯和らげたジルが、そう言ってアーニーの頭を緩く撫でた。

 長い髪を梳くように指を通し、尚も不安を隠さない少女を宥める。


「……む、君は」


 しかし、ふとその指が止まった。呟くように漏れたその言葉と共に小さく見開かれたジルの目の上で、眉が寄せられる。


「どうしたの?」

「……ふむ」


 アーニーの問いかけに、ジルは暫く無言を貫いた。暫くして、得心が行ったように小さく頷いたジルは、少女の頭を撫でていた指を離す。

 そうして徐に立ち上がったジルは腕を組み、自らを見上げる少女を見下しながら口を開いた。


「この世界において、負傷というのは存外簡単に回復する。生きた人間は神の加護により癒術の恩恵を受けられるからだ。千切れた手足も、腹に空いた風穴も、失った目玉も、焼け爛れた皮膚も。生きてさえいれば、癒術師の魔力が続く限り無限に修復される」


 唐突に語り出したジルに驚いたアーニーだったが、しかし彼のした話と彼自身の姿に食い違いがある事を見付けて首を傾げた。

 ジルの話が本当であるなら、彼の潰れた左目は治ってなければおかしい。そう考えたのだ。


 アーニーの視線を受けたジルが、鋭い目を細め、少女の無言の質問に答える。


「条件はあるとも。負傷後即座に対処しなければならないし、尚且つ、癒術師という限られた人的資源の恩恵に預かれる場合に限る」


 そう言って、ジルは縦に大きな傷が走る左目を撫でた。骨ばった指先に、鋭い瞳と同色の髪先が触れる。


「この国において欠損のある人間というのは、癒術師のほぼ全てを抱える聖教が、その恩恵を与えることを拒否した者が多いのだよ。故に、欠損者とは神の代弁者が存在を否定したものであると捉えられやすく、世間にも爪弾きにされやすい」


 話しながら、ジルは丸椅子の一つを手繰り寄せ、その上に腰かけた。身に纏う白衣には汚れひとつ無いが、どこか影を背負った様に薄暗く見える。

 暖簾の奥の診察室に視線を投げたジルが、左目の傷をなぞるように前髪をかき上げながら言った。


「もし奴を……テオドールを頼るならば、君が怪我をした際は私の元へ来なさい。日陰を歩く心配がなくていいようにしてやる」


 威圧的な言い方ではあったが、それは小さな少女の身を心配してのことであると、アーニーにも理解出来た。

 テオの言っていた、悪い人じゃないと言う言葉の意味を理解したアーニーが、一対一の会話で無意識に緊張していた体の力を抜く。


 そんな油断したアーニーの姿を、丸椅子の上から切れ長の目を細めたジルが睨めていた。汚れのない白衣に包まれた腕を組み、やがて重々しく口を開く。


「しかしそれは、もし君の体に癒術の恩恵が効くのならば、だがね」


 その言葉を受けて目を見開いたアーニーがジルを見つめ返す。少女の怯えを含んだ視線を受け取ったジルは、ゆっくりと腰掛けた丸椅子から立ち上がった。


「癒術が恩恵をもたらすのは、生きている人間だけだ。君には、さて。効くと良いがな」


 ジルの骨ばった指先に、淡い青の光が灯った。



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