第5話
【05】
長く着たために解れが目立つ草臥れたグレーのシャツ。元の色が分からないほど汚れてしまった現在は凡そ焦げ茶色に見えるカーゴパンツ。足場が悪くても問題ないよう靴底と足先が厚く、硬く作られたブーツ。
それらを身に付けたテオは、小道具の入った小振りの鞄と、大振りのナイフを腰のベルトに通した。肩と脇を通したハーネスベルトにサイズ違いの小さめのナイフをもう二本提げ、二回りもサイズが大きいカーキ色の外套を羽織る。
どうしても余ってしまう袖は畳んで、動いた際にずり落ちないようバンドで留めた。最後に、外套に付いたフードを払って固まった布を解す。
鏡代わりに窓に映る自分の姿をテオは覗き込んだ。所々跳ねた焦茶色の短髪を見苦しくない程度に手のひらで撫でつける。
生まれつきの癖っ毛なのである程度は見逃さなければならない。それでも諦めきれないと言わんばかりに眉を寄せた灰色の目と、窓越しに目が合った。
そんな自分の姿に馬鹿らしくなり、結局最後に二、三度頭をかいて終わったりする。
その日の行き先によって多少変わるが、テオの朝支度は大体いつもそんなものだった。今日は更に、少し膨らんだボディバックを背中に背負っている。
体重を載せきると軋んだ音で抗議する椅子に股がったテオは、昨日の帰りに買ってきていたパンを噛じる。
堅焼きの表面を毟った際に、ぼろぼろとパンくずが散らかった。
放っておけばいつまでも口の中に居座りそうなそれを、コップの水で流し込む。
一度に飲み込んだせいで開いた喉が痛んだが、こういうものは行ける時に飲み込んでおかないと後悔することをテオは経験で知っていた。
水と唾液でふやけたパンに長いこと居座られるのも好きじゃない。
テオが部屋を出て階段を降りると、宿の受付カウンターに肘を着いた赤毛の少年と目が合った。
テオの胸ほどもない身長も、足の長い椅子に腰かければそう目立たない。
「おはよう、アイザック」
「おはよう、テオ! 今日は朝に起きてきたな!」
飛び跳ねるように椅子から降りた少年、アイザックは、抱きつくようににテオの上着の端を掴んだ。
アイザックはテオが宿泊しているこの宿の一人息子だ。昔に父親を亡くしているらしく、現在は母親と二人で宿を切り盛りしている。
腰に抱きついたアイザックの母親そっくりの赤毛を撫でれば、父親似と話していた緑の瞳を心地よさそう細めて見せた。
「夜のお仕事は終わったからね」
「そっか! 気をつけて行ってこいよ! お前すっとろいんだから!」
アイザックから差し出された、まだ小さく柔らかな手をテオが握る。
自分の手が掴まれたことに満足気な笑みを見せたアイザックは、その途端、足を伸ばして後ろに倒れるようにテオの体を引っ張った。
「うわ、わ。危ないだろう、アイザック」
「大丈夫だって!」
「大丈夫って、支えてるのは俺だぞ。すっとろいんだろう」
「誰がそんなこと言ったんだよ」
「君だろ」
急な事でたたらを踏みそうになる足を踏ん張らせてテオがその体重を支えれば、アイザックはにかりと眩しい笑顔を見せる。
くるりくるりと意味の無い会話を重ねながら、万が一にも滑って離してしまったりしないようテオはしっかりとアイザックの手を握り直した。
もし偶然にでも意図的にでも、繋いだ手が離れてしまえば、その小さな体はひっくり返ってしまうだろうに。それを疑ってもいない幼い信頼に、釣られてテオも笑みがこぼれた。
アイザックは伸ばした腕と体重移動で、傾いた体を器用に右に左にと揺らし始める。
「テオ、元気出たか! 元気出たな!」
「元気だよ」
「良かったな! お前最近変だったから怖かったんだぞ!」
「ふっはは。俺、子どもに心配されてた」
ひくりとテオの目元が引き攣った。無償で与えられる優しさって眩しい。
「子どもに見栄張りたいなら、酒に酔ってその子ども相手に泣き付くのやめた方がいいぞ」
「……そんなことしたっけ」
「した。覚えてないのかよ。先週だぞ」
「…………面目次第もございません」
からからと笑っていた声を引っ込めて急に現れた真顔で述べられたアイザックの言葉は、昨日までその反省を兼ねて夜の巡回を行っていたテオとしては酷く耳が痛いものだった。
テオは思わず、膝に頭をすり付けるようにしてしゃがみ込む。
アイザックが後ろに倒れないよう腕は上に伸ばしたままだったが、それも当の本人に解かれたため、ずるずると首の後ろに畳まれた。
繋いだ手を勝手に解いたアイザックが、自分よりも下に来た大の大人の頭を撫で始める。
「……俺、真っ当な人間を目指すよ」
「無理だと思うけど、頑張れテオ」
「……がんばる」
そうしてテオは、同い年であったころの自分よりずっと聡いアイザック少年に見送られて宿を出た。
テオはこの宿の一室に住んでは居るものの、客として一泊いくらの金銭は払っていない。アイザックとその母親の二人で回しているこの宿は、大人の男手が無いこともあり、悪漢等に少しばかり無防備だ。
そこでテオが用心棒の真似事をする代わりに、格安の家賃で、使用していなかった屋根裏部屋を貸し出してもらっている。
テオも冒険者としての仕事があるため四六時中見張っている訳にはいかなかったので本当に真似事止まりではあったが、それでも用心棒もどきとして仕事をする機会はそこそこに存在した。
その理由はこの街の特性にあった。
北部の鉱山に張り付くよう横長に発展したこの街はポーロウニアと呼ばれている。東に大きな河川が面し、南西を長い城壁で囲まれた、別名最前線の街。
遥か遠く、南から押し寄せる魔物の群れは幾つもの街や村を飲み込んだ。
年々激化するその攻勢を受け続けても、長く耐えるこの街の防壁の内側に庇護を求め退去してくる人間も後を絶たない。
故郷を失った者達の間を、前線に配属された兵士と武功に群がった冒険者が闊歩する。それがこのポーロウニアと言う街だった。
そんなもので、屈強な男たちが腕力任せに横暴な態度で暴れる事も少なくない。
多少なりともギルドによる統率が取れているとはいえ、冒険者とは名前ばかりを立派に着飾ったゴロツキの集まりであった。
彼らに悪意があろうとなかろうと、テオの泊まる宿の母子のように力のないものからすれば、彼らが振りまく気迫というのは恐ろしい。
そう言った相手に対しては、母子に代わりテオが矢面に立つ。同じ冒険者として働いている同士だ。
斡旋される仕事を一括で管理しているギルドにおかしな報告をされても面倒である。互いが適度な抑止力として働いていた。
街の中心地から外れるこの場所は、道の舗装もない。馬車が通ればそのままに、踏み固められた土から少量の埃が立った。
人通りは多くなく、しかし決して少なくもない。さりさりと立つ砂煙を手で払いながら、テオは目的地に向けて早足で急いだ。
道端に開かれる露店は昨日と変わった様子もない。銅貨五、六枚で買える程度の装飾品から、明日には誰かしかの胃に消えていそうな硬いパン、荷車の上で揺られてここまで来たであろう質のいいシルクの反物まで。取り扱われているものは様々だ。
雑多な商人の招く声や、値引きをねだる主婦の声、そして時折その間を歩く兵士の鎧の擦れる音が響き渡っていた。
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