第9話 変わらぬ脳筋

 離宮に移り住み、対外的にも皇帝の正妃――皇后と認められたヘレナだが、別段その生き方は変わっていない。

 朝は日の昇らぬうちから起床し、まず鍛錬を行う。そしてアレクシアの持ってきた朝餉を食べて、午前中の鍛錬を行う。そしてアレクシアの持ってきた昼餉を食べて、午後の鍛錬を行う。そしてアレクシアの持ってきた夕食を食べて――。


「後宮にいた頃と、全く何も変わっていませんね……」


「当然だろう。鍛錬を一日でも休めば、取り戻すのに三日かかる」


「いえ……まぁ、ヘレナ様はそういう方ですからね」


 ちなみに、晴れて『皇后付き女官』という立場になったアレクシアが、初めて皇后になったヘレナに命じられたのは。

 当然、「腕立てをするから背中に乗ってくれ」だった。


「百九十九……二百……ふぅ」


「降りてもよろしいですか?」


「ん……ああ、いいぞ。私も少し休むか」


 真上からかけられた声に、ヘレナは頷く。

 本当はもう百ほど重ねたかったところだが、きりの良い数字だし別にいいだろう。額に僅かに浮いた汗を手の甲で拭い、小さく嘆息する。

 もうそろそろ、昼餉といったところか。


 ヘレナが離宮に来て、三日目。

 この三日ほどファルマスは、離宮にすら戻ってきていないらしい。後宮にいた頃に何度か話を聞いたことがあるけれど、執務が忙しいときには宮廷の執務室で休むことも多々あるそうだ。

 先日、結婚式から様々な儀式まで色々やってきたため、執務が溜まっているのだろう。


 しかし、ヘレナの悩みは違う。

 別にファルマスとは会おうが会うまいが、皇后としてどうかと思う部分はあるけれど正直どうでもいい。

 ただ、今考える問題は。


「……割と、寂しいものだな」


「ヘレナ様? どうなさいましたか?」


「いや……私も、中庭で皆で鍛錬することを、割と楽しんでいたようだ」


 フランソワ、クラリッサ、シャルロッテ、マリエル、アンジェリカ、エカテリーナ、カトレア、レティシア、クリスティーヌ、ウルリカ、タニア、ケイティ――。

 一期生から三期生まで、皆で揃って鍛錬を行い、互いに切磋琢磨していく姿を見るのが、師としての一つの楽しみでもあったのだ。

 現在はフランソワはバルトロメイに嫁いでいるし、クラリッサはレイルノート侯爵家の養子になっている。他の面々も、それぞれの道を歩んでいる。

 それがどことなく、寂しい。


「……皇帝陛下への思慕ではなく、弟子たちへの寂寥ですか」


「別に、陛下はいつでも会えるしな」


「まぁ、そうではありますけど……はぁ、陛下にはとても聞かせられませんね」


「ふむ……しかし、陛下もリリスの新兵訓練ブートキャンプで目覚めたようだし、ここは一つ鍛錬に付き合ってもらうのも良いかもしれないな」


「国政が滞りますのでおやめください」


 むぅ、とアレクシアの言葉に、ヘレナは唇を尖らせる。

 だが実際、一人で鍛錬を行い続けるというのも、割と寂しいものなのだ。これがヘレナが後宮で一人きりで、ずっと一人で鍛錬を行ってきたのならば話は別だけれど、師として弟子の成長を楽しみにしていた部分もあったのだ。

 こうなったら、誰か離宮にいる者を弟子にでも取るか――そう、考えが斜め上に向かおうとした矢先に。


「来たわよっ!!」


 唐突に、そうノックもなくヘレナの部屋――その扉が開き。

 それと共に現れたのは、ヘレナの弟子が一人にして皇帝ファルマスの実妹、アンジェリカだった。


「む……アンジェリカ? いきなりどうした?」


「ようやくヘレナ様、離宮に来たのね!」


「ああ、三日ほど前からいるが」


「どうしてわたくしに一言伝えないのよっ!」


「あー」


 そういえば、こいつ離宮にいたわ。

 そんな失礼な感想を抱きながら、改めてヘレナはアンジェリカを見やる。

 そして、その後ろ――何故かいる、クリスティーヌも。


「クリスティーヌもいたのか?」


「ええ、ヘレナ様。クリスは、わたくしの専属侍女として雇い入れたのよ」


「よろしくお願いします、ヘレナ様」


「後宮が解体されて、でもハイネス家って帰る家がないから、仕方なくよ。仕方なく」


「なるほどな」


 ヘレナは、笑みを浮かべる。

 数は少ないけれど、この離宮にもヘレナの弟子がいてくれたことに対する安堵だ。

 今後、鍛錬をするときには二人にも声をかけよう――そう考えて。


「でも今日は、わたくしがヘレナ様にお願いをしに来たのよ」


「む……アンジェリカが、私にお願いだと?」


「ええ。実はクリスが、『禁軍』の将軍になったの」


「なんだと!?」


 思わず、ヘレナは眉を寄せる。

 それはいつぞやの武闘会で、ファルマスが与えた褒賞だ。『禁軍』はあくまで宮廷内の警備や警護を行う部隊であり、八大騎士団からは外れている軍隊である。

 しかし実際のところは貴族家の次男三男が多く在籍しており、ほとんど戦場に出た経験もないため、練度は限りなく低い。いつぞや、リファールの奇襲に対してヘレナが率いたこともあるけれど、これほど愚鈍な部隊かと失望したほどだ。

 だがそれでも、将軍という立場には変わりない。

 うらやましい――その感情を抑えながら、ヘレナはアンジェリカの話の続きを聞く。


「でも、ヘレナ様も知っている通り、『禁軍』ってめちゃくちゃ弱いのよ」


「そうだな。私も一度率いたが、士気は低いし覇気はないし命令伝達は遅いし動きも鈍いし、どいつもこいつも腰抜けだったという印象だ」


「……返す言葉がないわ」


「まぁ、貴族の子息ばかりが入隊している部隊だからな。それも致し方ないと考えていたが」


「でも今のところ、皇族が扱うことのできる部隊って、『禁軍』しかないのよ」


「そうだな」


 アンジェリカの言葉に、ヘレナは頷く。

 ガングレイヴ帝国は完全に政治と軍事の分離を行っており、八大騎士団はあくまで軍部に仕えている。そのため、基本的には皇帝から軍部に要請を行い、その要請に従って八大騎士団が出陣する、という形をとっているのだ。

 その例外が『禁軍』であり、唯一皇族が指揮権を持つ軍事力である。


「今は戦争も小康状態になっているけど、今後何が起こるとも限らないわ。だから、皇族の率いることのできる『禁軍』の練度を、少しでも底上げしておこうと思うの」


「ふむ」


「まぁ、分かりやすく言うと」


 こほん、とアンジェリカは咳払いをして。

 そして、真剣な眼差しでヘレナへ向けて告げた。


「『禁軍』の、指導顧問になってほしいのよ」


「良かろう」


 皇后としての職務とか責務とか、そういうのがヘレナには分からない。

 そして離宮へやってきた三日、現状何をすればいいのかさっぱり分からない。

 その上で、アンジェリカから要請されたそんな役職に。


 ヘレナは、一も二もなく頷いた。

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