第102話 後宮の異変
その日、銀狼騎士団補佐官ディアンナ・キールは後宮の警備における責任者だった。
とはいえ別段、大した理由があってのことではない。北方の最前線を黒烏騎士団に任せており、銀狼騎士団は現在、ほぼ全軍が帝都における仕事に携わっている。それは『銀狼将』ティファニー・リードもそうであるし、副官のステイシー・ボルトも同じくだ。だが、今日はティファニーが皇太后ルクレツィアに呼び出されており、副官のステイシーは非番である。ゆえに、年齢こそ若いものの、既に補佐官としてそれなりの経験を積んでいるディアンナが、責任者として後宮の警備を統括しているのである。
「ふぅ……」
後宮全体の見回りを終えて、ディアンナは小さく嘆息する。
ディアンナは、決して書類仕事のできるタイプの補佐官ではない。むしろ、補佐官として抜擢されたのはその武を買われてのものだ。
並の男を越える背丈に、筋肉の塊と呼べる肉体。主に格闘術を鍛えているその身は、戦となれば最前線を駆けるものである。その武は、銀狼騎士団において将軍ティファニーに次ぐ二番と称されるものだ。
ちなみに、そんなディアンナよりもステイシーの方が副官となっている理由は、主に書類仕事の面である。実際に一対一で戦えば、十戦して九はディアンナの勝利に終わるだろう。
「さて……それじゃ、報告書でも書くかなぁ」
とはいえ、書類仕事のない仕事というのはほとんどない。
補佐官であるディアンナは大隊の指揮官でもあり、その調練も仕事の一つである。そして調練をしたならば、その報告書を。武具や装備が破損したならば、その破損報告と武具の支給申請書を。何かしらの事故が発生した場合には、その報告書を――考えるだけで嫌になるほどに、その仕事は多いのだ。
ゆえに、ディアンナにしてみれば自身の大隊に対する調練よりも、この後宮警備の方が遥かに楽な仕事なのだ。
何せほとんど毎日、『特に異常なし』の一文を提出すればいいだけの話なのだから。
退屈ではあるが、書類漬けになるよりは遥かにマシである。
「そろそろ昼だし、交代させるか。さて、ユーリは……」
ちなみに後宮の警備は、四人体制である。
将軍ティファニー、副官ステイシー、補佐官ディアンナ、メリアナ、いずれかの責任者が一人と、銀狼騎士団の騎士三名だ。常に責任者が必要な体制は、一度不審者が侵入したことを受けて皇帝から厳命されていることである。
もっとも、中庭の鍛錬を通りすがりに見る分には、本当に警備が必要なのか怪しく思えてしまうけれど。
あそこにいる令嬢が、何人か銀狼騎士団に入ればいいのにな、と何度思ったか知れない。
「おぉい、ユーリー!」
本日の警備担当は、責任者のディアンナ、騎士であるユーリ、ステファニー、マリカの四人だ。
ひとまずユーリに昼休みに入ってもらって、その間は二人で巡視をして、という形で昼休みを与えたのでいいだろう。
と、そう思いながらユーリの名を呼ぶが、反応がない。
「……?」
後宮はそれなりに広いし、もしかすると少し遠くにいるのかもしれない。
だけれど基本は全員、別の場所を巡視しているはずだ。ということは、ユーリが少しばかり遠くを巡視しているということだろう。
だったら、別の者に先に休みをとらせればいいか。
「ステファニー!」
叫ぶが、返事はない。
こちらも遠くにいるのだろうか。戦場にいても味方に声が響く程度に、ディアンナの声は大きいのだが。
「マリカー!」
こちらも変わらず、返事がない。
さすがに三人いれば、一人くらいは近くにいても良さそうなものだが。
面倒くささを感じながら、やれやれとディアンナは廊下を歩く。
誰か一人でも見つかれば、その時点で昼休みに入るよう指示を出せばいいか。
と、そんな風に。
特に何も考えずに、角を曲がったそこに。
廊下に横たわる、銀狼騎士団の軍服があった。
「――っ!?」
「う、うっ……」
「ユーリ!? どうしてこんなところで!?」
「ディ、アンナ、様……」
「何があった!」
見たところ、外傷らしいものはない。
頰に僅かな擦り傷があるが、その程度だ。だが両手足をぷるぷると震えさせ、息も絶え絶えといった様子のユーリ。
何か毒でも――そう一瞬、頭を過る。
「も、申し訳、ありません……私では、止められ、ません、でした……」
「侵入者か!」
「い、いえ……」
ごほっ、と咳き込むユーリ。
その手が押さえているのは、腹だ。血は出ていないが、痛がっている様子がよく分かる。
どうやら、腹部を殴られた。そう判断して良さそうだ。
だが、侵入者でないとなると――。
「ご、ご令嬢、に……」
「なっ――!」
「ヘレナ様の、弟子の、方に……勝負を、挑まれ、て……」
「……っ!」
思わず、言葉を失う。
ヘレナの弟子が、それぞれ化け物揃いであることは知っている。だが、その武はあくまで『鍛えれば銀狼の騎士にも及ぶだろう』程度の評価だ。現状では、一般騎士とはいえ騎士の称号を持つ者が、負けるはずがない――ディアンナは、少なくともそう思っていた。
だというのに、騎士であるユーリが床に転がっているという現状。
「ご令嬢は、どこに向かった!」
「む、こう、に……」
ぷるぷると、震える手で示す方向を見る。
ディアンナがいたのは、ヘレナをはじめとする高位の令嬢たちの部屋の前だ。そこから向こうということは、『月天姫』か『星天姫』のどちらかであると考えられる。
「ユーリ、すまない! 私は向かう!」
「お、気を、つけて……」
立ち上がり、駆ける。
ユーリとて、決して弱い騎士ではない。そして残る二人――ステファニーとマリカも、騎士の名に恥じないだけの実力を持っている。
そんな三人が、それほど簡単に負けるはずが――。
「――っ!」
「あら……もう一人、来ましたの」
だが、ディアンナが見たのは。
後宮の廊下に転がる、二つの影――ステファニーとマリカの姿と、そこに無傷で立つ令嬢と侍従の姿だった。
「ロッテ様、銀狼騎士団の補佐官、ディアンナ殿です」
「それは十全ですの。騎士とは、こんなにも弱いのかと思ってしまっておりましたの」
「ロッテ様、既に数発は入れられております。お気をつけください」
「もちろん、分かっておりますの」
そこにいたのは『月天姫』シャルロッテ・エインズワース。
侍従が言うには数発ほど入れられているらしいが、ディアンナから見たシャルロッテはほぼ無傷だ。
数ヶ月前まで、ただの伯爵令嬢でしかなかった女に、銀狼騎士団の騎士が無傷で三人もやられた――。
「シャルロッテ様! 何故、このようなことを!」
「何故って……決まっておりますの」
「どういう……」
「わたくし、強い人と戦いたいだけですの」
シャルロッテが、答えとばかりに両の拳を構える。
腰だめに構えた右手と、前に突き出した左肘。その構えには淀みもなく、流麗さすら感じられる。
一瞬、ディアンナでさえ臆するほどの迫力を、放っていた。
「あなたは補佐官。だったら、ここにいる騎士の中で一番強いということですの」
「……」
「いざ、尋常に。ですの」
ディアンナは思った。
今日の報告書は、長くなりそうだ――と。
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