第89話 ファルマス覚醒
末恐ろしい。
それが、ファルマス・ディール=ルクレツィア・ガングレイヴという男に対して、リリスが感じた率直な意見だった。
恐らく、今まで剣を使って戦ったことはほとんどないだろう。ファルマスは細身であるが、鍛えている部分は少なからずある。だが、その筋肉の付き方は一般兵のそれだ。
戦において、兵士の仕事とは単純なものだ。それは、槍を突き出す壁となることである。そのため、一般兵は剣術などほとんど学ぶことなく、ただただ槍を突き出す訓練だけを必死に行うのだ。
ファルマスの鍛え方は、まさにそれだ。
「……」
「……」
ガングレイヴ帝国からガルランド王国に嫁いで、長く帝国を離れていたリリスは、この若き皇帝についてほとんど知らない。
だが、好きな武器を選べと言われれば棒を手に取り、決して鈍くはない突きを放った。それは、少なからず槍術について指導を受けた結果だろう。
確かに護身においては、剣術よりも槍術の方が適しているのだ。剣術は剣がなければ始まらないが、槍術は長い棒さえあれば何でも武器にできる。それが箒であれ、物干し竿であれ。『身近にあるもので護身をする』にあたって、これ以上のものはない。
ゆえに今まで、お付きの武術指南役からは槍術を主に教え込まれてきたのだろう。
だが。
ヘレナは、この若き皇帝に存在する才覚は、剣術であると見抜いた。
「……」
暗がりの中で、じっとリリスを見据える双眸を見て、小さく溜息を吐く。
最初のように、女と侮って攻めてくるわけではない。先程までのように、がむしゃらに攻めてくるわけでもない。
己の体力を温存しながら、しっかりと己が動き出す機を狙っている。まさに、獲物を目の前にした蛇のように。
先程までのファルマスは、素人も同然だった。
ただ渇きに対して水を求め、ろくに訓練もしていない足取りで近付くようなそれを、甘んじて受けるほどリリスは優しくない。何度となく地を舐めさせ、屈辱を与え続けた。それでも何度も何度も立ち上がってきたのは、男の尊厳か極度の渇きから解放されたいと願ってか、どちらかであるのだろう。
だが、極限の渇き――それが、ファルマスという男を覚醒させた。
「……」
ぜぇ、はぁ、と喘いでいた姿はもうない。
口から呼吸することでより渇きは増し、疲労も上がる――それを本能的に理解したファルマスは、極力鼻からの呼吸を保っているのである。
先程も向かってきたファルマスを一蹴したところだが、それでも無言で立ち上がり、今なおリリスを睨みつけてくる。
「ふぅ……睨み合いが好きなら、いくらでも付き合ってあげるけど」
「……」
「どんなに睨んでも、水はあげないわよ。私に一撃入れることができれば、水を一杯。二撃入れることができれば、水を二杯。簡単でしょう? 早くおいでなさい」
「……」
ちゃぽん、ちゃぽん、と竹筒を揺らして示す。
だが、そんなリリスの挑発に対しても、ファルマスは動く素振りを見せない。その視線は間違いなく竹筒に注がれているけれど、下手に動くのは得策でないと理解しているのだ。
戦場においては、先走った者から死ぬ。それを確と教えこめと、ヘレナからは言われていたけれど。
「それじゃ、かかってこないのなら」
「……」
「こちらから、攻めさせてもらうわよ」
リリスは本来、武人である。
ヘレナのように軍人というわけではないし、アルベラのように私兵を率いているというわけでもない。当然、学生時代に出会った現在の夫、ラッシュと結ばれてからはガルランドの王族であるため、戦場に出た経験などないのだ。
だというのに、リリスが並の男では敵わないほどの武力を持つその理由。それは幼い頃から母に習い、母の知り合いの武術師範から教えを受け、ひたすらに己の武を研鑽してきたからだ。
「ふっ――!」
地を蹴り、最短距離で己の射程にファルマスを入れる。
流麗な体捌きは、ひたすら研鑽してきた武人のそれだ。少なくとも、ただの素人には目で追うことすらやっとだろう。
ファルマスにしてみれば、ほんの一足で間合いに飛び込んできたようにすら感じる、距離の詰め。
そこから、鋭い拳をファルマスの顔面へ――。
「はぁっ!」
打ち込む。
間違いない手応えは、下手をすれば鼻の骨を折るかと思えるほどのものだ。もっとも、「痛めつけるのはいいが、骨は折らないように」とヘレナから言われたことはちゃんと守り、鋭くとも力は抑えている一撃だが。
鼻の骨は折れていないにせよ、少なくないダメージが――。
「――っ!」
「……」
だが。
ファルマスは、倒れなかった。
むしろ全身で、リリスの一撃を受け止めるために防御していたと言ってもいいだろう。足を開き、腰を落とし、前屈みになったそれは、顔面を強打したところで簡単に倒れるものではない。
しかし、問題は。
顔面を強く打たれたにも関わらず、その双眸が変わらずリリスを見据えていること。
「うおぉぉぉぉっ!!」
そして、何よりリリスの誤算は。
ファルマスが、その手に何も持っていないこと。
棒や剣をその手に持っているのならば、近すぎて逆に使えない――それほどまで間合いを詰めたことが、逆に仇になった。
ファルマスの振り上げた拳が、拳を打ち込んだために空いたリリスの腹部――そこを、正確に貫く。
「がっ……!」
攻撃は最大の防御という言葉があるが、それはある種正しくもあり、ある種間違いでもある。
相手が攻撃に転じることができないほどの連撃を浴びせれば、それは防御も伴うものとなるだろう。だが、相手が完全に待ち構えているような状態で攻撃をすることは、自分の隙を晒すことにも繋がる。
先程までのファルマスがそれだ。整ってもいない足取りで隙だらけで近づき、まるでカウンターをして下さいと言わんばかりの雑な攻撃だった。
だからこそ、学んだのだ。ファルマスは。
腹部から沸き立つ嘔吐感に、思わずリリスは膝をつく。
確かに鍛えてはいるけれど、成人男性が思い切り腹に殴打を加えて、耐えられるほどではない。そもそも男女の間には、根本的な筋肉量で大きな違いがあるのだ。
「うっ……!」
自分がしてきたことを思い出して、リリスは顔を防御する。
ここからファルマスがさらに顔に攻撃してきたら、リリスには防ぐ手立てがない。膝をついたファルマスに、何度となく蹴りを浴びせてきたリリスからすれば、この状況で同じことをされても卑怯と言えないのだ。
「……」
だが。
攻撃は、来ない。
「……一撃、加えたぞ。水をよこせ」
「えっ……」
「余は、倒れた女の顔を蹴り飛ばすほど非道な男ではない。それより、さっさと水をよこせ。喉が渇いてたまらぬ」
ファルマスは座り込み、そう要求する。
鋭い眼差しで、リリスを見据えながら。膝をついたリリスを、それでも警戒しているかのように。
リリスは、小さく溜息を吐いた。
これが、この国を統べる男――皇帝か。
「ええ……どうぞ。好きにお飲みなさいな」
リリスは竹筒を手渡し、ファルマスが中の水を飲む。
ごくっ、ごくっ、と一口ごとに味わうように、ゆっくりと。その一口が甘露であるかのように。
「ふぅ……」
「落ち着いたかしら?」
「まったく、ここまでの渇きを覚えたのは初めてだ。水がこれほど美味いとはな……」
「ええ……」
ひょいっ、とファルマスは竹筒をリリスに投げ返してくる。
リリスがそれを受け取ると共に、ファルマスは立ち上がった。
「さて……では続きを始めよう。そなたを倒さねば、余は外に出られぬのだったな」
「……」
「悪いが、執務が溜まっている。さっさとこの部屋から出させてもらうぞ」
「ええ……」
リリスは立ち上がり、そう告げる皇帝に。
先程の防御に徹した構え、鍛えられた体幹、鋭く貫くような拳、何より攻撃に臆することのない度胸。
その全てに、才覚を見出して。
「それよりも、陛下。一つ、提案があるのだけれど」
「む……?」
ヘレナの掌中の玉ということは、分かっている。
剣術にも、確実に才があるということは、分かっている。
だけれど、リリスは。
「格闘術、身につけてみない?」
「は……?」
この男を、育ててみたくなった。
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