第109話 亡き母との思い出
「そういえば」
唐突に、夕餉を終えたヘレナに対し、アレクシアがそう口を開く。
普段ならばそろそろファルマスが来る時間だが、今日は来ないと言っていた。そしてアレクシアの職務は、基本的にヘレナが眠るまで側にいなければならないのである。
それゆえに、今日はこのように夕餉を終えた後もヘレナの近くにいるのだ。
具体的には、その背中の上に。
「どうした?」
ふん、ふん、とアレクシアを背中に乗せながら、腕立て伏せを続けるヘレナ。
傍から見ればおかしな光景なのだが、悪い意味でヘレナという女に慣れてしまったアレクシアに、もう違和感はない。
「ヘレナ様のお母上は、かの伝説の『銀狼将』レイラ・カーリー将軍なのですよね?」
「ああ、それがどうかしたか?」
「いえ……レイラ将軍の話は何度か耳にしたことがありますけど、ヘレナ様よりお強いのですか?」
「圧倒的にな」
アレクシアの質問に、端的に答えて軽く嘆息する。
ヘレナにとって母レイラは、生涯の目標であり超えるべき壁だ。現在のところ超えられる気が全くしないけれど。
「そうだな」
思い返す、母との様々な思い出。
主にヘレナを鍛えてくれたのは、亡き母だ。母という存在がいたからこそ、ヘレナはこのように強くなることができた。
そんな母との思い出を、少し語ってもいいかもしれない。
「……少し、昔話をしよう」
それは、母が亡くなる前。
ヘレナ・レイルノートがまだ若く、幼かった時代――。
「うあっ!」
「まだまだ踏み込みが浅いねぇ。そんなんじゃ、百年経っても当たりゃしないよ」
ヘレナが軍に入る少し前。
五歳の頃から日課となっていた、母と共に行う鍛練。父アントンは常に溜息を吐いていたが、ヘレナを含むレイルノート三姉妹は、常に鍛練を行った後、母に三人で挑む、ということを繰り返していた。
長女ヘレナ十四歳。次女アルベラ十一歳。三女リリス九歳。
同年代の女性よりも成長の著しいヘレナは、既に母の背を抜き、見下ろすほどになっていたのだが。
「はぁっ!」
「いい奇襲だヘレナ。でも、不意を突くつもりなら、声を出しちゃいけないねぇ」
「はぅっ!」
ひゅんっ、と目にも止まらぬ速度で、ヘレナの顎が打たれる。
それは母レイラにしてみれば、手加減した一撃。それでも、直接脳を揺らすその一撃に、ヘレナは一瞬意識が吹き飛んだ。
だが、その目は更なる追撃を捉える。
「――っ!」
「なるほど、アルベラの突撃を囮としてのヘレナの奇襲かと思ったが、三段構えかい。でもねぇ、リリス。甘いよ」
「痛ぁっ!?」
打ち合わせをしていた、三姉妹での協力攻撃。
アルベラが正面から剣で打ちにいくこと、背後からヘレナが迫ること、その両方を囮としたのだ。そして、最も体の小さなリリスが、音もなく攻撃を繰り出すことを最後の一撃とした。
だが、そんな浅い知恵を一蹴するかのように、リリスの額が指で打たれる。
ただ額を指で弾かれただけだというのに、リリスは倒れて悶絶していた。
「くそぉ……」
「上手くいったと思いましたのに……」
ヘレナ、アルベラが立ち上がる。
そんな姉妹に対して、レイラは嬉しそうな笑みを浮かべて。
「なぁに、作戦としては悪くないさ。ただ、アルベラだけが来るんじゃぁ囮ってバレバレさね。せめて二人で来なきゃな」
「よぉし、母さん! もう一戦だ!」
「えぇぇ、姉さん、まだやるのぉ……?」
いたたた、と額を押さえながらリリスが不満を漏らす。
最も体の小さいリリスは、まだ体力が追いついていないのだ。そのように不満を漏らすのも仕方ないかもしれない。
だが。
「もう剣やだぁ」
「何を言いますの、リリス。剣での戦いこそ誉れでしょう!」
「わたし剣じゃなくて格闘がいいんだもーん!」
「格闘なんて剣を失った後の手段に過ぎません! 剣での戦いこそ戦場の華!」
「いつだって剣が近くにあるわけじゃないじゃん! 素手で戦えてこそ真の戦士だよぉ!」
「こらこら、二人とも喧嘩するな」
そう口論を始めた二人を止めるのはヘレナ。
アルベラは剣術に優れ、リリスは格闘術に優れている。だが、一応三人でレイラにかかるときには、装備を統一しているようにしているのだ。
今日はアルベラが強く訴えたために、剣での模擬戦である。それがリリスには不満なのだろう。
「だったら小姉さん! 剣でわたしに勝ってみなさいよぉ!」
「よく分かりました。それほど這い蹲りたいのなら、止めません!」
「いくよぉ!」
「おいでなさい!」
リリスが剣を捨て、徒手で構える。
比べアルベラは剣の柄を両手で持ち、切っ先をリリスへ向ける。
互いに、己の最も信じる得物での戦いだ。
「あはははははっ!」
「無様に這い蹲りなさいっ!」
そして、リリスとアルベラがそのように諍いを始めるのを眺めながら、ヘレナとレイラは休憩に入る。
時には妹たちの戦いを、このように眺めるのも楽しいものだ。
「母さん」
「どうしたんだい、ヘレナ」
「私は……軍に入ろうと思う」
「そうかい」
一昨年、軍に入隊した兄リクハルド。
必ず母さんを超えてみせる、と宣言した兄は、もう既に何度か戦場を経験したらしい。妹への愛が八割を占めた文には、そう書かれていた。
兄に負けたくはないし、母にいずれは勝ってみたい。だからこそ、ヘレナは軍に入ろうと、そう決めた。
だが――そう自分の決意を話したというのに、レイラはあっさりとそう頷いた。
「アントンは何て言ってたんだい?」
「やめろ、と言われた。侯爵令嬢がわざわざ軍になど入らなくてよい、と」
「あたしが後で殴っておくよ。あんたは好きに生きるといいさ、ヘレナ」
「……いいの?」
不安に、そう上目遣いに母を見る。
微笑む母は、ヘレナの頭をぽんぽん、と柔らかな手で叩いた。
「どうすれば」
「ん?」
「どうすれば……母さんみたいに、強くなれるんだ?」
「んー……」
ヘレナのそんな質問に、レイラは首を傾げる。
姉妹での戦いこそ、ヘレナは一番強い。同年代の男にも負けることはないだろう。だが、それでも母レイラの強さには、足元にすら及んでいる気がしない。
弛まぬ努力を続け、弛まぬ鍛練を続け、それでも全く追いつける気がしないのだ。
レイラは暫し腕を組んで考え。
「知らん」
にべもなく、そう返してきた。
あまりにも意外すぎる答えに、ヘレナはただ眉根を寄せることしかできない。
「つってもなぁ……あたしが何故強いかって聞かれても、あたしにゃ分からんのよ」
「なんで?」
「鳥がどうして空を飛べるのか、鳥が知っていると思うかい?」
「うーん……」
確かに、言われてみればその通りかもしれない。
ただ、全く解決になっていないのだが。
「まぁなんだ……あたしだって、昔からずっと強かったわけじゃないよ」
「そうなのか?」
「ああ。むかーし、いっぺんだけ負けたことがあってね」
「えぇっ!?」
思わぬ言葉に、ヘレナはそう驚きの声を上げる。
この最強の母が負けるという、その言葉が全く理解できない。
「だ、誰に……?」
「内緒だよ。ただ、まぁ……ヘレナもいい年だ。これから、あんたも結婚するだろうね」
「まぁ……」
自分が結婚する、という未来はいまいち見えないが、曖昧に頷く。
同年代の女性の中には、もう婚約者がいる者もいるのだ。大半が政略結婚だが。
「ヘレナにも、いずれ出来るはずさ。こいつになら負けてもいい、って思える相手がね」
「……どういうこと?」
「いずれ分かるさ。分かってんのに、避けられない。反応できるのに、体が動いてくれない。何故かってゆーと、こっちがそれを期待しちゃってるからだ。最初は認めらんないかもしんないけど、いずれ気付く日が来るよ」
「……?」
「まぁあたしの娘だ。相手の男は苦労するだろうねぇ」
くくくっ、とレイラが笑う。
その話の意味がよく分からず、やっぱりヘレナは首を傾げるだけだった。
「そんな会話を母さんとしたな。結局、誰に負けたのかは教えてくれなかった」
「……あの、それは」
「あの母さんを倒す相手だ。どれほど強いのか分からないが、いつか手合わせをしてみたいものだと常々思っている」
三姉妹でかかっても一蹴される、最強の母。
アルベラもリリスも、兄リクハルドも聞いたことがないらしい、そんな母を倒した者。
恐らく師匠とかそういう存在なのだろうけれど、存命であるのだろうか。
「……なるほど」
「まぁ、相手の男、と限定していたからこそ、恐らく男なのだと思うが……」
「ええ、恐らくそうでしょうね……」
「む?」
何故か、頭を抱えているアレクシア。
そんなアレクシアの言葉に、ヘレナは腕立て伏せを止める。
「何か知っているのか?」
「いえ……ただ、陛下は苦労しそうだ、とそう思っただけです」
「何故そこで陛下が出てくるんだ?」
アレクシアのそんな呟きの意味が分からず。
ただ、ヘレナは首を傾げるだけだった。
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