第106話 寵姫のおねだり
「……ふむ」
夜。
今日も今日とてヘレナの部屋を訪れてきたファルマスに、事の顛末を話す。
ちなみにファルマスと一緒にやってきたグレーディアは、ヘレナの格好がいつもと変わらないことに軽く落胆していた。
本人は隠しているつもりだったのかもしれないが、ヘレナを見た瞬間に溜息を吐かれては気付くな、という方が無理な話である。
そして、ファルマスと二人になってから、今日の昼間ーーシャルロッテに関することを、一応報告した。
アンジェリカに対して新兵訓練を行う旨は知っているし、その訓練にシャルロッテを加える、というだけである。
だが、ファルマスは眉根を寄せていた。
「随分と奇妙な話だな」
「そうでしょうか?」
「ああ。そもそも、エインズワースの娘に武の心得など全くない。興味すらなかろうよ。そんな中で、ヘレナに自ら師事したい、というのは随分奇妙に思える」
「はぁ……」
武の心得がないことは、当然分かっている。
だが、かといってヘレナに師事する、というのはそれほど奇妙なことなのだろうか。
ううん、と考えるが全くヘレナには分からない。
「しかし……そのエステルという侍女の入れたお茶は、問題なかったか?」
「毒の類は入っておりませんでした。奇妙な動きもありませんでしたし」
「そうか。そなたが言うのならば間違いないのだろうな」
実際に、お茶を飲みはしたが特に体調の変化はない。
お茶を淹れる際にも、妙な動きはなかった。それに、同じポットから淹れたものをシャルロッテ、マリエルと共に飲んだのだ。そこに毒が入っていれば、三人まとめて何かの不調を訴えるだろう。
ふむ、とファルマスが腕を組む。
「まぁ、現状は様子見しかあるまいな」
「そうですね」
「何か妙なことがあれば、また報告してくれ。後宮のことは、そなたに任せる」
「ありがとうございます」
本音を言うなら、任されてもどうしろと、といった気分である。
だが、ひとまずファルマスがヘレナに任せる、と一任した以上、ヘレナの行動は間違っていないということだ。
つまり、明日からもいつも通りに訓練を行い、行わせればいいのである。
「だが……ふむ。余の考えすぎか」
「どうかされましたか?」
「いや、何でもない。余が警戒をし過ぎなのかもしれぬな。そなたは自然体であるというのに、余ばかりが憂いておるように思える」
くくっ、と自嘲の笑みを浮かべながら、酒を傾けるファルマス。
むしろヘレナが何も考えていない、ということに、この若き皇帝はいつ気付くのだろうか。
「ああ、そうだ」
そこで、ファルマスが思い出したようにそう言い出した。
「例の遠乗りの件なのだがな」
「はい」
「明後日ならば一日空けることができそうだ。急ではあるが、明後日でも構わぬか?」
「ええ。私は後宮にいる身ですし、ファルマス様のご都合にいつでも合わせられます」
「分かった。ならば、明後日の朝に迎えに来るとしよう」
「承知いたしました」
うんうん、と満足そうに頷くファルマス。
やはり奸臣の策謀渦巻く宮廷で日々を暮らしているからか、疲れが溜まっているのかもしれない。ファルマスにしてみても、ヘレナとの遠乗りはいい気分転換になるのだろう。
ファルマスが酒を傾け、空になったグラスへとヘレナが注ぐ。
相変わらず、ヘレナはファルマスの前では決して酒を飲まない、と誓っているので、お茶だ。
「テオロック山からの景観も見事らしいのだが、パタージュ大森林の中には、一面に広がる花畑もあるらしい」
「そうなのですか?」
「近衛に少し下見をさせてな、良さそうな場所を選ばせておいた」
「まぁ……それは、ありがとうございます」
花畑に興味など全くないが、一応そうお礼を言っておく。
遠乗りに誘ってくれたのはファルマスだが、ヘレナもファルマスに楽しんでもらうための努力をする必要があるのかもしれない。
例えば花畑で、摘んだ花で花冠を作ったり。
うふふ、捕まえてごらんなさぁい、と花畑を走ったり。
「……」
そこまで想像して、自分には全く似合わない、という結論が出て少しだけ落ち込んだ。
ならば、一体何をすればファルマスに喜んでもらえるのだろう。
明日あたり、アレクシアに聞いてみるべきかもしれない。
「どうした?」
「あ、い、いえ、何でもありません」
「そうか。だが、余も童心に帰った気分よ。今から楽しみで仕方がない」
「私も楽しみです」
ヘレナもまた、ファルマスの言葉に頷く。
ファルマスと一緒、というのは少し緊張するが、遠乗り自体は楽しみなのだ。部屋と中庭しか行けない後宮という場所は、あまりにも狭すぎる。
たまには広い場所で羽を伸ばしたい、というのが本音だ。
「そういえば、遠乗りに出るのはファルマス様とグレーディア様だけなのですか?」
「……む? うむ。今のところはその予定だ。誰か誘いたい者でもいるか?」
「いえ……そういうわけではないのですが」
まぁ、グレーディアとヘレナがいれば、大抵の敵はどうにかなるだろう。
もし外で襲われるようなことになったとしても、問題はあるまい。
だが。
「……あの、ファルマス様」
「どうした?」
「我儘を申し上げるようで、非常に申し訳ないのですが……」
いざとなれば、ファルマスの盾となり死ぬ覚悟もある。
だが、それでもただ盾になるわけにはいかない。
「そなたが我儘か。今まで何も言ってこなかったそなたの頼みだ。余にできることならば叶えよう」
「ありがとうございます。では……剣を一つ、所望いたしたく思います」
「……また剣か?」
ヘレナに出来ることは、戦うことだけだ。
そして遠乗りに出て、護衛がグレーディアだけという状況は、敵に容易に隙を見せることにもなりえる。
そんな中で、ヘレナだけ徒手で戦うわけにもいくまい。
「後宮に持ち込むわけではありません。遠乗りの際に、取り回しの容易な長剣を一つ、携えたいと思っております」
「なるほど。まぁ、確かにそなたが武装すれば、守られる必要もないか」
「下賜していただいた大剣でもいいのですが……あれを持って騎乗するとなれば、かなりの軍馬が必要になるかと思いますし」
「そうだな。そういう理由ならば問題はあるまい。手配しておく」
「ありがとうございます」
これで、いざというときも安心だ。
そう、胸を撫で下ろす。長剣さえ一つあれば、敵が百人いたとしても、ファルマスを守りながら戦えるだろう。
「しかし、そなたは欲がないな」
「はい?」
「何か欲しいものがあるかと問えば、剣と言われた。我儘を何でも申せと言えば、剣と言われた。もう少し、我儘を申しても良いのだぞ」
「……いえ、そう言われましても」
欲がない、というよりは、それしか欲しいものがないのだ。
基本的に鍛錬以外に、ヘレナのすることはない。装飾品や服を貰ったところで、全く興味などないのだから。
だが――。
「では……欲しいものを申し上げても、よろしいのでしょうか?」
「ほう、あるのか?」
「いえ……高価ですし、ファルマス様に申し上げるのも、と思っていたのですが」
「何でも良いぞ。ノルドルンドの馬鹿の懐に入る予定だった資金を、後宮の管理費、という名目で自由に使えるようにしてある。何が欲しいのだ?」
「まぁ……では」
本当にいいのだろうか。
そう思いながらも、口にする。
出来れば欲しい、と常々思っていたもの――。
「もう少し、設備を充実させたいと思っておりまして」
「ふむ?」
「腕を鍛えるには、腕立て伏せのみならずダンベルなどによる負荷のかかる鍛錬が必要となります。ベンチが一つあるだけでも、様々な鍛錬に応用できます。バーベルがあれば腕力の目安にもなりますし、ハンドグリッパーで握力も鍛えたいと思っていますし……あとは走り込みもやりたいと思っておりますので、中庭から後宮を一周するようなコースがあれば一番なのですけど。あと、中庭で縄登りができれば」
「………………」
「……あの、いかがでしょうか?」
常々、鍛錬用の設備を充実させたいと思っていたのだ。
誰でもいつでも鍛錬ができるような、そんな部屋が一つあれば、皆鍛えることに前向きになるかもしれない。
それに何より、走っていないのだ。
朝と夜、毎日走るのが、ヘレナの日課だった。それによりスタミナも底上げされるし、しなやかな筋肉になる。後宮を一周できるようなコースがあれば、フランソワたちへの鍛錬もまた充実したものになるのだ。
「……そうか」
「出来れば、でいいのですが」
「いや……まぁ、そなたはそういう人間だったな」
はぁ、と大きく溜息を吐くファルマス。
そんなファルマスの溜息の理由が分からず、ヘレナは首を傾げた。
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