第89話 閑話:ベルガルザード兄妹
時は僅かに遡る。
一周忌の式典に向けて一生懸命にダンスを練習しているヘレナに別れを告げて、『陽天姫』の部屋付き女官であるアレクシア・ベルガルザードは女官専用の宿舎へと戻った。
女官の仕事に、休みはない。
基本的に家族の不幸があったときや、年始といった特別な場合でなければ一日の休みというものはなく、明日も変わらず朝にヘレナの部屋へと出仕しなければならないのだ。既に夜も遅く、早めに寝なければ明日に響くだろう。
ファルマスが渡った日は、ファルマスの訪れと共に帰ってもいいため、夕刻くらいには戻れる。早ければ、それこそ日の昇っているうちから帰ることができるだろう。
もっとも、アレクシアはまだ幸せな方だ。
ヘレナ・レイルノートという主人は非常に親しみやすく、接しやすい。そして家から侍女を連れてきているわけでもないため、人間関係に苦労しないのだ。
これが『月天姫』や『星天姫』の部屋付き女官だと、既に連れてきている侍女が色々と周囲の事を行い、元々仕えていたわけでもない部屋付き女官は遠ざけるのである。つまり毎日、退屈を感じながら時間を過ごすだけ、という場合が多いのだ。
何より、幼い頃に親交があった、というのも大きい。
全く知らない主人よりは、それなりに知っている相手の方が仕えやすいのは当然である。
「……ふぅ」
宿舎の食堂で軽い夕食を摂る。
今日はこのまま部屋に戻って寝るのがいいだろう。
アレクシアはそう考えながら、立ち上がろうとして。
「あ、あああ、あああ、アレクシアああああーっ!」
ふと、そんな大きな声が、思考を阻害した。
慌てながら何度もアレクシアの名を呼びつつ、食堂へ入ってくる影。当然ながら知り合いであり、先日の鍋パーティのときも会った、『才人』フランソワ・レーヴンの部屋付き女官であるクレアだった。
「どうしましたか、クレア」
「あ、ああ、あああ!」
「いえ、あああと言われても分からないのですけど」
「あ、ああ、アレクシアぁ! あんた何やったのよぉ!?」
「……は?」
クレアに唐突にそう言われるが、全く心当たりなどない。
一体、これほどクレアを慌てさせる状況とは、何なのだろう。
「まずはクレア、落ち着いてください」
「お、落ち着くとかっ! だって!」
「何があったのですか」
「客! アレクシアを呼べって! めちゃくちゃ顔の怖いおじさんがあああああっ!」
「……ああ」
そこで、アレクシアは苦笑を漏らす。
ただそれだけの情報で誰なのか分かる、というのも随分失礼な話だ。だが、恐らくアレクシアをわざわざ訪ねに来てくれたのだろう。
なるほど、とアレクシアは立ち上がる。
「どちらですか?」
「い、行っちゃだめだよアレクシア! 絶対殺されちゃうよぉっ!」
「いえ……まぁ、知っている人ですから大丈夫です」
「マジで!? なんであんなそっち方面の人知ってるの!?」
「決してそういう職業ではないのですが」
はぁ、と嘆息。
いつだって、こんな風に誤解されるのだ。あの人は。
「お久しぶりです、お兄様」
「うむ、久しいな。アレクシア」
宿舎の入り口近くにある、小さな応接室で、兄と妹は久しぶりに顔を合わせる。
アレクシアの目の前にいるのは、それこそクレアが叫んで逃げ出すのも理解できる、とさえ思える強面である。
熊と豚と猪と鬼を足して人で割ればこのような顔になるのではないか、という凶相だ。もっとも、アレクシアからすれば幼い頃から見ているために、全く抵抗がないのだが。
バルトロメイ・ベルガルザード。
アレクシアの兄にして、ガングレイヴ帝国の武の頂点である八大将軍が一人『青熊将』その人である。
「変わりはないか、アレクシア」
「ええ。ヘレナ様に仕えさせていただいて、毎日楽しく過ごしています」
「そうか。ヘレナも自由奔放だから、苦労することも多いだろう」
「……まぁ」
バルトロメイの言葉に、アレクシアは苦笑を返す。
本当に、何故後宮にいるのか全く分からないほどに、ヘレナは常識を知らない。少なくとも、貴族としての自覚はゼロだと言っていいだろう。
そんな主人に仕えて、破天荒な行動に笑いながら過ごす、というのも、今のアレクシアの幸せの一つだ。
「しかし奇妙な縁だな。まさかアレクシアがヘレナに仕えることになるとは」
「わたしもそう思います。昔、お兄様が連れてこられたヘレナ様が、後宮に入られるとは思いもしませんでした」
「うむ……まぁ、正直に言えば、戦場に戻ってきて欲しいのだがな」
「それほど苦戦されているのですか?」
「そういうわけではないのだが……とある馬鹿を止めるためにな」
はぁ、と大きく溜息を吐くバルトロメイ。
アレクシアにはよく意味が分からないが、戦場は戦場で違う苦労もあるのだろう。
ん、とふと疑問に思う。
「そういえば、何故お兄様は帝都に? 今は戦争の真っ最中では?」
「……ああ、大したことではない。陛下から呼び出されたのだ」
「陛下から!?」
思わず、そうアレクシアは声を上げる。
アレクシアはファルマスの寵愛を受けているヘレナに仕えているがゆえに、何度も顔を見たことがある。しかし、後宮に仕える女官でも、ファルマスの顔を見たことがある、という人物は少ないのだ。
本来であれば、ガングレイヴ帝国の頂点たる皇帝とは、天上人である。
そんな相手に、直々に呼び出された、というのは驚きだ。
「な、何故、陛下から……?」
「うむ……いや、大したことではないのだが」
「お兄様……」
「本当に大したことではない。むしろ、吉報と呼んでもいいだろうな……」
「そうなのですか?」
思わず、アレクシアは首を傾げる。
皇帝であるファルマスから、バルトロメイに吉報が届く、というのも奇妙な話だ。それほど、皇帝と将軍に関わりがあるとは思えない。
「うむ……実は、陛下から結婚を薦められてな」
「……え」
「どうにも、陛下は将来的に後宮を解体するつもりらしい。その上で、俺に側室を一人娶るように、という話があったのだ。まだ先の話ではあるが……」
「あの、それはまさか……」
アレクシアは、苦笑いを浮かべることしかできない。
どう考えてもその相手は、毎朝ヘレナから特訓を受けているあの少女でしかないからだ。
「うむ……いや、まぁ、それはいい。今日は、変わりないか少し顔を見に来ただけだ。夜分にすまなかったな」
「いえ、それは構わないのですが……」
「女官の仕事も忙しいだろう。早めに休んでくれ」
「は、はい。お兄様は、いつまで帝都に?」
「既に用は済んだからな、明日の朝にでも、早馬で戻ろうと思っている」
「そうですか」
僅かに、寂しさが過る。
アレクシアが幼い頃から、バルトロメイは滅多に家にいなかった。その人生のほとんどを戦場で暮らしていたために、たまにしか帰ってこなかったのだ。
その代わり、帰ってきたときにはよく遊んでくれて、少なからず小遣いもくれていたバルトロメイを、アレクシアは慕っていたのだが。
「ああ、そうだ。少ないが取っておけ」
「お兄様、わたしはもう働いている身ですし……」
「そう言うな。たまには兄らしいこともさせてくれ」
バルトロメイが差し出す包みを受け取りながら、アレクシアは苦笑しか返すことができない。
恐らくこんな風に、バルトロメイは兄である子爵家当主の子供たちにも、小遣いを配ってきたのだろう。
ふふっ、とアレクシアは笑って。
「しかし、お兄様が結婚ですか」
「うむ……まぁ、俺もあまり実感がないのだがな」
「『おにいさま、アルをおよめにしてください!』……覚えておられますか?」
「……蒸し返すな。恥ずかしい」
アレクシアが幼い頃に宣言した言葉だが、今でも覚えている。
当時は五歳かそのくらいだったはずだが、随分ませたことを言ったものだ。
もっとも、その後にバルトロメイに、兄と妹では結婚をすることができないことを懇々と諭されたのも、いい思い出だ。
思えば、五歳の少女の宣言を、そのように真面目に受け止めるバルトロメイもまた変わり者である。
そして、そう思い出を語るだけでも、少し恥ずかしそうにしているバルトロメイに、アレクシアは笑って。
「お兄様は変わりませんね」
「……そうか?」
「ええ」
こうして。
ベルガルザードという家に生まれながらにして、全く似ていない兄妹の語らいは、和やかに過ぎてゆく――。
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