第42話 指導
「いいか、まずは柔軟体操からだ。体操は全ての動きに通じる。まず全身を伸ばし、凝り固まった筋肉を動かすことで、より良い鍛錬となるのだ」
「はい! ヘレナ様!」
部屋の中で、ヘレナとフランソワの二人が柔軟体操を始める。
膝の曲げ伸ばし、腰の回転、開脚からの柔軟など、全身をしっかりと伸ばし、それから立ち上がった。
普段へレナはそれほど柔軟体操をしていないのだが、フランソワが初心者ということで合わせたのだろう。
そして、やはりアレクシアはそんな二人の姿を、死んだ眼差しで眺めていた。
「まずは、運動能力がどれほどあるのか、試験をしよう」
「分かりました!」
「ではフランソワ、まずは腕立て伏せをしてみろ」
「はい! どうやれば良いのでしょうか!」
「うむ。まず、両手を床につき、爪先だけで体を支えるんだ」
ヘレナの指示と共に、フランソワが床に両手をつく。そして足を伸ばし、爪先をついた。
「次に、腕を曲げて体を落とす。落とした体を、腕を伸ばして上げるんだ」
「はい!」
フランソワは気合を入れるように、ふぅ、と大きく息を吐いて、それからゆっくりと両手を曲げ、体を落としてゆく。
そして。
ぺたん、と倒れた。
「ひぅ……」
「……」
まさか一度も出来ないとは思わず、ついヘレナは言葉を失う。
そして、普通の令嬢は腕立て伏せなどする必要がなく、その筋力など全くない。本来、日常生活で動かすであろう体だが、令嬢はそのような身の回りの世話でさえ、侍女や女官がしてくれるのだ。
だからこそ、フランソワの力の無さは、分かりきっていることでもあったのだが。
「も、申し訳ありません!」
「いや……構わん。まさか一度も出来ないとは思わなかったが……足りない力は、これから鍛えていけば良い」
「は、はい!」
「では、次は腹筋だ。私が足を押さえるから、両手を頭の後ろに回して、腹筋の力だけで体を起こしてみろ」
「はい!」
寝そべったフランソワの足を押さえる。フランソワは指示通りに両手を後頭部に回し、そして体を起こそうと気合を入れる。
だが――。
「む、ぐ、ぐ、ぐ!」
「……」
「う、ぐ、う、う!」
「……」
フランソワの体は、微動だにしない。
まさか腹筋すら一度もできないとは、とヘレナは頭を抱えそうになる。
だが、一度師として教える、と決めた以上は、投げ出すわけにはいかない。
「もういいぞ、フランソワ」
「うぅ……も、申し訳ありません!」
「問題ない。これから鍛えればいいのだ」
フランソワの謝罪を、そう受け入れる。
筋肉は一朝一夕でつくわけではないのだ。体を鍛えることは継続すべきことであり、そして続ける限りは必ず肉体は応えてくれる。
だからこそ、続けることに意義があるのだ。今できないことを嘆く必要などない。
「では……そうだな、中庭へ行くか」
「ヘレナ様、お召し物はどうされますか?」
「このままでいいだろう。フランソワは……もう少し、動きやすい服を着てきてくれるか」
「わ、分かりました!」
さすがに、ドレス姿で運動をする、というのもどうかと思う。
動きやすい服を持っているのかどうかは分からないが、フランソワは頷いた。
「では、着替えたら中庭に来てくれ」
「分かりました!」
ヘレナの言葉に、フランソワはそう答えて部屋を辞する。
先に向かっておくか、とヘレナもアレクシアを伴い、中庭へ向かった。
今のところは必要ないため、剣は持っていかない。
中庭で待っていると、程なくしてフランソワが戻ってきた。
「このような格好でよろしいでしょうか!」
「ああ、それでいい」
「ありがとうございます!」
フランソワの服は、先程のドレスよりもやや地味なワンピースだった。
決して動きやすい服というわけではないが、この服なら問題ないだろう。倒れたときになど下着が見えるかもしれないが、男性のいない後宮では留意する必要などあるまい。
まず何をするか、と考える。
現在に至るまでヘレナは弟子など取ったことはなく、誰かに師事をしたこともない。だからこそ、どのように接したらいいのか悩んでいるのだが。
ではまず、こうしよう。
「ではフランソワ」
「はい!」
「まず、どれほど動けるのか確認をしよう。私を攻撃しに来てくれ」
「へ、ヘレナ様を、ですか!?」
「ああ。勿論、当てる気で構わない。私からは一切反撃をしないから、安心してくれ」
さすがにヘレナの膂力でフランソワを殴れば、骨どころか内臓まで達する可能性もある。リリスを相手には手加減できなかったが、リリスはリリスで十分鍛えているのだ。
だが、全く鍛えていないフランソワを相手に、そのような真似はできない。
「し、しかしヘレナ様をそのようには!」
「安心しろ、私が当てられるはずがない」
「そ、そうなのですか!?」
「ああ。だから安心して、フランソワの本気を私に見せてくれ」
フランソワに向けて、構える。
しかし、構えるだけだ。
だが戦場を駆ける虎が如きヘレナは、ただ構えるだけでもそこに威圧を孕む。
フランソワは、やや怯えながら、しかし見様見真似でゆっくりと構えた。
「で、では! 行きます!」
「来い、フランソワ」
「や、ぁっ!」
それは、ヘレナからすれば蚊の止まるような速度。
だが、恐らくフランソワの全力なのだろう、右拳が迫ってくる。
ヘレナはあっさりとそれを避け、同時にフランソワの体がふらつき、前に倒れた。
「ひぅ……」
「まだだぞ。さぁ、来い」
「い、行きます!」
立ち上がったフランソワが、更にヘレナへと攻撃を仕掛ける。
しかし、その速度のどれもが、ヘレナからすれば一瞬で避けることのできるものだ。
今度はやって来る左拳を、軽く払うだけでいなす。
「ひぅっ!」
同時に、ばたん、と中庭に倒れるフランソワ。
少し体のバランスを崩しただけだというのに、自らの体の動きすらもコントロールできなかったらしい。
「ふむ……まずは体力を作ることから始めるか」
「は、はいっ!」
「では、まずは正拳突きから教えよう。フランソワは武器を持たずとも良いから、徒手格闘の方が良いだろうな」
「お願いします!」
「では、まず拳を腰溜めに構えて……」
「はいっ!」
腕立て伏せは一度もできず、腹筋も一度もできない。動きは遅く、力もなく、しかし向上心だけは人一倍。
こんなにも、鍛え甲斐のありそうな者は初めてだ。
「いいか、突きを出したときに、自分の体勢が安定していなければならない。そのように前のめりになったら、容易く倒されてしまう」
「は、はいっ!」
「そうだ。そのように、体のバランスを整えることを第一に考えるんだ」
ひとまずは、正拳突きの練習をさせるとしよう。そうすれば、自然と腕の筋肉はつくはずだ。
その後は、フランソワの出来る限界まで腕立て伏せをやらせる。そして稽古の総仕上げに、ヘレナとの真剣勝負を行えば良いか。ヘレナから一切手は出さないが。
「よし、そうだ。しっかりと、体の中心に芯があるように感じるんだ」
「はいっ!」
真っ直ぐに立てるようにそう指導しながら、動きのおかしな部分を都度修正しつつ、ヘレナはフランソワを鍛える。
もしもそれなりの腕になれば、ヘレナの徒手格闘の訓練相手となってくれるかもしれない。そうなれば、いつでも対人戦ができるようになるだろう。
そして徒手格闘の訓練ならば、剣を振るように重いものを持つわけではないため、走り込みと同じような結果が出るのではなかろうか。
うんうん、とヘレナは頷いて。
そして何気なく、中庭から見える渡り廊下に目をやると。
「……」
そこに。
普段と同じく、しかし普段と違って。
ヘレナにも分かるほどの憤怒の表情で、目を血走らせた『星天姫』マリエルが、じっと見つめていた。
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