第12話 ヘレナの一番長い夜 4
「さて、余としてはもう少し語らいたいが、少々喉が渇いたな」
「はい。では、お酒をご用意しましょうか?」
ファルマスのそんな言葉に、アレクシアから言われていた通り、酒を提案する。
本来ならばアレクシアには、「酒にも私にも酔って欲しい」という意味であると聞かされたが、現状では特に意味もない暗喩である。ファルマスの目的も分かった今、そのような配慮は必要ないだろう。
今夜で純潔を散らすかと思えたが、周囲の評価とは全く異なるこの皇帝――面白い。そうヘレナには感じられた。
「そうだな……では、茶を貰おうか」
「お茶を、ですか?」
「ああ。喉の渇きに、酒は向かぬ」
茶を提供するのはご法度だと言われているけれど、本人が求めるのならば出してもいいだろう。
では、とヘレナは席を立ち、すぐに部屋備え付けの小さな台所へと向かう。茶葉は、最初の荷物と一緒に持ってきていたはずだ。レイルノート公爵家で飲まれている上等なものではなく、ヘレナが軍で私的に飲んでいる安物だが。
まずヘレナは、昼間のうちに沸かしておいた湯冷ましに、茶葉を入れる。
その間に、薬缶に水を入れて火にかけた。
「どうぞ、陛下」
そして湯冷ましで入れた、冷めたお茶をまずファルマスと自分の前に置いた。
冷めたお茶は「あなたに情熱を持ち合わせていません」という暗喩を含むとは聞いている。だが、喉が渇いた状態で、熱いお茶というのも厳しい。
まずは冷めたお茶で喉を潤し、それから茶の旨味を味わえる熱いお茶を飲むのが、ヘレナの一番の好みだ。
「いただこう」
「安い茶葉ですので、陛下のお口に合うかは分かりませんが」
「ほう、逆にそれは楽しみだ。侍女はいつも、どこどこで採れたなんたらのお茶だと申すが、余には味が全く分からぬ」
くくっ、と悪役じみた笑みを浮かべながら、ファルマスがお茶を一口、啜る。そして、恐らく思った以上に熱くないことに驚いてか、ちらりとヘレナを見た。
ヘレナは同じお茶を、ぐいっ、と一口で飲み干す。
「ふー……陛下?」
「いや……まぁ、いいだろう。ふむ」
同じくファルマスも、冷めたお茶をくいっ、と飲み干す。お茶は冷めている方が飲みやすいのは、誰でも同じだ。
その間に、ヘレナは台所へ向かい、薬缶の水が沸くまで待つ。そして沸いたと共に、茶葉を入れた。
それを同じく二人分用意し、ファルマスの前に置く。
「どうぞ、陛下。熱いのでお気をつけ下さい」
「うむ」
ふー、ふー、と息で冷ましながら、ファルマスがお茶を口に運ぶ。
そして、やはり熱すぎたのか、少しだけ顔をしかめた。意外と猫舌なのかもしれない、とヘレナは少しだけ微笑む。
「……これは、美味いな」
「ありがとうございます」
「茶を美味いと思うことなど、あまりないのだが……最初に冷めたものを渡されたからか。喉の渇きが潤ってから飲む熱い茶は、随分と風味がするものよ」
皇帝に出すには安すぎる茶葉かとも思えたけれど、意外に好評だった。これまで、喉が渇いた状態で熱い茶を飲んでいたのだろうか。
それでは風味も香りも楽しめないのが当たり前だ。
「ふぅ……茶はもう良い。ヘレナよ、そなたは酒は飲めるくちか?」
「あまり強くはありませんが、嗜む程度でしたら」
「なに、そのくらいで良い。少々弱みがある程度の方が、女は愛い」
聞きようによっては女性蔑視にも聞こえるけれど、ここは後宮であり、ヘレナは側室だ。ファルマスの発言も、自分の愛でる側室に与える言葉としては良いだろう。
もっとも、武人であるヘレナには、あまり嬉しくない言葉だが。
「では、共に飲もうではないか。用意せよ」
「承知いたしました」
ファルマスの言葉に従い、ヘレナは持ってきていた荷物の中から、決して安くない――むしろ高級な酒を取り出す。本当は、一人で飲もうと思っていた高級品である。
勿論、買ったわけではない。アントンの目を盗んで、レイルノート侯爵家から拝借してきたものだ。
ちなみに同じものが、あと三本ある。
度数はやや強いけれど、このくらいで潰れるようなファルマスではあるまい。
「どうぞ、陛下。お注ぎします」
「うむ」
二つのグラスと酒瓶をテーブルに置き、ファルマスのグラスへと注ぐ。光沢のある琥珀色の液体が、銀のグラスへと注がれた。
ちなみにヘレナが自分で飲む分については、手酌である。基本的に酒を注ぐのは女の仕事であり、男が注ぐということはない。
「では、乾杯としよう」
「何に乾杯しましょうか?」
「そうだな……今日の出会いに、というのも陳腐であろう。我が後宮の美姫に、といったところか」
「……それは、随分と買い被りでございます」
思わぬ言葉に、そう嘆息することしかできない。
ファルマスはヘレナをそう褒めてくれるけれど、ヘレナにそんな自覚はない。軍の中でも、男社会で生きてきたのだ。見た目についてはもう諦めている。
着飾ろうというつもりもないし、服に金をかけるつもりもない。持ってきているドレスだって、ほとんどが出来合いのものだ。オーダーメイドなど一つもない。
「良いではないか。余がそう思っているのだから、そなたは素直に受け止めれば良い」
「……陛下より十も年上の女に、美姫とは少々物々しいかと」
「美しさは見目だけではあるまい。心の強さもまた美しさであり、鍛えた肉体もまた美しさだ。余は、そなたの生き様を美しいと思う。女の身で軍の中枢に食い込むのは、並大抵の苦労ではあるまい。本来ならば、このような後宮になどおらぬべき人物だ。余は、そなたという咲き誇る野花を摘んだも同然よ」
くいっ、と酒杯を傾けながら、ファルマスがそう独りごちる。
ヘレナを後宮に無理やり入れたことは、ファルマスにしてみれば、あまり気の進まないことだったのだろう。そこに、深い後悔が見える。
「ヘレナよ」
「はい」
「今宵は、無礼講としようではないか。今宵、そなたが余に何を言おうとも、不敬とは取らぬ。その上で、そなたに頼みがある」
「何でしょうか」
頼み、とはファルマスの言葉とは思えない一言だ。
皇帝であるファルマスには、絶対的な命令権が存在する。ただヘレナに命じれば済むことを、わざわざ頼み、とするのはどういった意図なのだろうか。
「先も言った通り、余は宮廷の混乱が落ち着くまで、正妃を迎えるつもりはない」
「はい」
「だが、対外的には仮初ながら、妃を迎えておらねばならぬ。他国の使者を迎える夜会などだな。その際には、後宮でも最も身分の高い側室を連れるのが慣例とされている」
「……はい」
なんだか嫌な予感がしてきた。
だけれど、それを伝えるわけにもいかず、ヘレナはそう小さく返事をする。
「そなたには、それまで――正妃となってほしい」
「……私が、夜会に出るのですか?」
「そうだ。余はアントンを疎んじていると、そう臣下には認識されている。それゆえに、ノルドルンド侯爵が発言力を強めている、というのも事実だ。だが、余が対外的にアントンの娘を正妃扱いとすれば、それだけアントンの発言力も高まる。恐らく、それでアントンとノルドルンドの宮廷における力は五分となるだろう」
「……」
よく分からない。
そして分からないことは考えない。これがヘレナの残念な悪癖である。
「余は一年間、宮廷を乱す。だが、政治が乱れようとも国の根幹を為すのは民だ。影響が民にまで及ばぬよう、宮廷における力の均衡を保つ必要がある。そのためには、そなたを余が寵愛していると周りに思われなければならぬ」
「……」
「恐らく、他の側室からは疎まれるであろう。特にノルドルンドが無理やりに任じた『月天姫』などは、嫉妬に狂うやもしれぬ。だが、そなたにしか頼むことはできぬのだ」
「ええと……」
まずいさっぱり分からない。
だけれど、とりあえずファルマスの言を信じるならば、ヘレナを正妃扱いにすることでなんとなく問題が解決するっぽい。
なら、別にいいか――残念な脳は、それ以上考えることを拒否した。
「分かりました、陛下」
「……すまぬな。そなたには重責を与えてしまっている」
「構いません。私もまた、陛下の臣下でございます」
そんな風に頭を下げるヘレナ。
それはファルマスから見れば、己の重責を理解し、その上で全てを背負うと決めた女の、凛々しい姿。
されど本当は、考えることを拒否して、なんかすればいいっぽいや、くらいで頭を下げた、適当な女。
しかし人の本音など分かるはずもなく、ファルマスはただただヘレナを高く評価するのみ。
「うむ……では、飲もう。今宵は、余も美味い酒が飲めそうだ」
「はい」
チン、とグラスが合わさり、そして二人だけの宴が始まった。
「ヴィクトルのやつぁひどいんですよぉ。あいつぅ、わたしのことのーきんだのーきんだって言ってぇ、もうすこしかんがえろってぇ」
「……本当に酒に弱いのだな」
そんな風に、ヘレナの一番長い夜は、ぐだぐだに終わることとなった。
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