第10話 ヘレナの一番長い夜 2
「陛下、ご機嫌麗しゅう……」
「よい、堅苦しい挨拶などいらぬ。女官長よ、余は下がれと、そう申したが」
「は……」
イザベルの挨拶を、そうにべもなく返して退室を強要するファルマス。
やはり皇帝の言葉には逆らえるわけもなく、イザベルはアレクシアを伴って、一礼してから退室した。
そして、その後ろには恐らく近衛であろう軽鎧を着た男性が二人、待機している。
「陛下」
「貴様らも戻れ。余は今宵、『陽天姫』と語らう。そこに貴様らのような武骨者はいらぬ」
「ですが陛下、我々は陛下の身を……」
「ここは後宮である。余の後宮において、余を害そうとする者がいると申すか。不敬罪でその首を叩き斬るぞ」
近衛の一人が反論するが、ファルマスはそう断じて睨みつける。
皇帝である以上、行動の一つ一つに護衛が伴うのは当然だ。絶対的君主である皇帝に何らかの障害が発生した場合、それは直接に政務の滞りへと繋がる。だからこそ、監視をされているようにこのように近衛が付随するのだろう。
だが、そんな護衛をファルマスは遠ざけようとしている。
「……御身に何かございましたら、国が」
「ほう、余に何が起こるという。ここは我が後宮であり、正妃に次ぐ存在である三天姫が一人、『陽天姫』の部屋である。貴様は宮中候アントン・レイルノートの娘が余を害そうとしている、とでも言うつもりか?」
「うっ……」
ふん、とファルマスはその形の良い唇から、尊大そのものの皮肉を吐く。
ヘレナはそんなやり取りを見つめながら、しかし何も言えずにいた。
「……承知いたしました、陛下。ですが、扉の前で」
「許さぬ。余と『陽天姫』の語らいは、余人の耳なくして行わなければならぬ。元より後宮は余を除き、男の侵入を禁じられていること程度は知っておろう。それを貴様らが詰まらぬことを延々と申すがゆえにここまで連れてきた。ここに至るまでに危険の一つでもあれば、貴様らの危惧も分かろう。だが、そうでない以上は貴様らの存在は、余と側室の語らいを盗み聞こうとする下賎な輩に過ぎぬ」
「ぐ……」
「二度は言わぬ、戻れ。これは命令だ」
「……は」
近衛が頭を下げ、そして一歩後ろに下がる。
しかしファルマスは、それに追い討ちをかけるように、さらに言葉を重ねた。
「仮に、余の命に背いて、その扉の前で耳を傾けてみよ……貴様らの一族郎党、斬首に処す。分かったな?」
「……承知いたしました」
明らかに納得のいっていない態度で、近衛が退室する。
そして、そのまま足音が遠くまで去ってゆくのを確認して。
ようやく、ファルマスはヘレナを見た。
「当代皇帝、ファルマス・ディール=ルクレツィア・ガングレイヴである」
「は、はいっ!」
ええと、とヘレナは必死に思い出す。
確か、アレクシアに言われた、陛下お渡りの際の一言目。御尊顔を拝し、恐悦至極に存じます、ではない――もっと簡単な言葉。
忘れてしまった。
確か、「お」から始まる、割と簡単な言葉だったはず。
ヘレナは必死に脳を回転させ、言葉を思い出す。なんだっけ、なんだっけ、と心ばかり逸るが、しかし見つからない。
そして。
ヘレナの唇は、とりあえず「お」から始まる割と簡単な言葉を紡いで、頭を下げた。
「お……」
「お?」
「お疲れ様です陛下!」
……。
……。
……。
なんとなくヘレナは思った。違う、これ。
これはヘレナが練兵所に顔を出したときなどに、下士官から言われることだ。そして軍におけるそんな挨拶を、このように皇帝を相手にして使って良いわけがない。
やばい、と背中を冷たい汗が流れる。
「くくっ……」
しかし。
ファルマスは、可笑しそうに――破顔した。
「お疲れ様か、ついぞ言われぬ言葉であったな。だが、悪くはない。確かに、少々疲れてはおる。『陽天姫』よ、余も座って良いか?」
「ど、どうぞどうぞ!」
ファルマスは言葉と共に、ヘレナと対面するかたちで置いてあるソファに腰掛ける。その所作の一つ一つも、優雅と言う他にないだろう。
完璧すぎる造形はただソファに腰掛ける、という行動一つでも、まるで高級な絵画か演劇の一幕のようにさえ思える。
ファルマスは足を組み、そしてヘレナを正面から見て。
「ふむ……レイルノートの家では、常識を習っておらぬのか」
「は、はい……?」
「余は名乗った。貴様も名乗るのが筋ではないか」
ファルマスの言葉に、ああっ、と心の底から後悔する。
確かに最初に、ファルマスは名乗った。しかしそれに対して、ヘレナが返したのは「お疲れ様です」の一言だけだ。
名乗られた以上、名乗り返すのが礼儀だ。しかも、自分よりも遥かに格上の人物。下手なことを言ってはいけない、と言われたが早速、礼儀を弁えない行動をしてしまった。
「申し訳ございません! 私は第一師団所属、赤虎騎士団副将ヘレナ・レ……」
そこで、かぶりを振る。
現在のヘレナは軍属ではなく、あくまで侯爵令嬢であり皇帝の側室だ。そこにおける自己紹介で、己の軍籍を言う必要はない。
「し、失礼いたしました! 私は宮中候アントン・レイルノートが娘、ヘレナ・レイルノートと申します!」
「ヘレナか、良い名だ。しかし随分と余よりも年は上のようだが」
「はい、申し訳ありません。十五の頃より軍に入りまして、現在に至るまで浮いた話の一つもなく、嫁き遅れの女でございます」
澱みなく、ヘレナはそう述べる。
年齢については、きっと皇帝も気になるだろう、と思っていた。だからこそ、事前にこう己を謙って伝えておけば、なんとかなるだろう、と。
ファルマスはそんなヘレナの言葉に、くすりと口角を上げた。
「なるほどな。道理で、このような美姫が我が後宮におるはずだ」
「えっ」
ファルマスの言葉に、思わずそう目を見開く。
美姫だなんて、こんな十も年上の女に言うとは。
褒められて嬉しくないわけではないが、どこかむず痒い。
「貴様の評判は聞いている、ヘレナ・レイルノート。『赤虎将』の腹心にして、随一の副将と聞く」
「あ、ありがとうございます」
「本来ならば、このように後宮になど寄せるべきではなかった人材であろう。余の不徳の致すところだ」
……え?
ヘレナは首を傾げる。まるでヘレナを後宮に入れたのが、仕方のなかったことであるかのように振舞うファルマスには、激しい違和感があった。
父であるアントンが無理やりに捻じ込んだだけだと思っていたのに。
「ここは後宮であり、余の私的な空間である。ゆえ、この場における余は皇帝ではなく、一人の男ファルマスだ」
「は、はい……」
「その上で、伝えるべきことがある」
すると、ファルマスはその造形の整った顔立ちをゆっくりと下げ。
ヘレナへ向かって、頭を下げていた。
「へ、陛下っ!?」
「リファールの襲撃については、余の計算違いであった。我が国にも名の知れた名将であるガゼット・ガリバルディを相手にしては、禁軍を率いらせておる老骨では、まともに相手をできなかったであろう。我が国の危機を救った英雄に、感謝する」
「あ、頭を上げてください陛下! このような姿を、誰かに見られては!」
「余の立場上、人前で頭を下げるわけにはゆかぬ。だが、権威とは人前で着るものに過ぎぬ。ここは我が後宮であり、我が家であるようなものだ。己の家で、わざわざ権威など重いものを着たくはない」
ファルマスは顔を上げ、薄く笑う。
ヴィクトルの言っていた、『坊ちゃん陛下』。アントンの言っていた、『諫言を嫌う愚皇』。
ヘレナから見て、どちらの評価もこのファルマスには合っていない。
「改めて、感謝を。この国を、この国に住まう民を救ってくれて、ありがとう」
「へ、陛下……」
理想的な君主とはいかなるものか。
少なくともそれは、民を慈しむ存在だ。君主という存在が民の上に立つ存在である、と認識し、その重責を負うことのできる者が、最も理想的な君主だろう。ヘレナはそう思っているし、これを間違っている、と断言できる者などいるまい。
そして、皇帝ファルマス・ディール=ルクレツィア・ガングレイヴ。
彼が即位して現在で一年弱。
その間、様々な噂は聞いた。前帝の崩御により若年の皇帝が即位し、そのために国外から舐められている、と。部下の諫言は聞かず、耳に甘い言葉ばかりを受け入れ、新しい役職を作ってまで宮廷を二分させようとしている、と。
だが、そんな彼の評判を、市井の民から聞いたことがない。それは恐らく、生活苦もなければ困った事態も特になく、三正面作戦という無茶な戦争をしているというのに、そこまで市井に負担が回っていないからだ。
それは、ファルマスという皇帝の治世があるからに他ならない。
目の前の、評判と実際があまりに異なる皇帝を前に、ヘレナは何も言えなかった。
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