滑落

 コボルトと出会ったその日、アントン少年はうきうきだった。

 世間ではありふれてきた犬人コボルトも少年にとってはめずらしく、見かけたのが三度目なら話したのは初めて。ハインというコボルトと話して、がコボルトだと思ったのも無理はない。少年は、コボルトが最低でも三匹以上の群れで行動することや、世間ではゴブリンと同じく低脳な亜人だと思われていること、まして野良犬と同じ扱いを受けることすらある、とは知らない。

 知らないからこそ、その正義と善心にあふれたコボルトを、純粋に評価した。自分もああなりたい、あんなふうにかっこよくなりたい。そう憧れた。

 だからアントンは、生家の手伝いもそこそこにことにした。親のお古の肩かけかばんに、水をつめた竹筒とナイフ、それにパンを半分。探検かばんを手早く完成させると、母親の目を盗んで酒場を抜けだした。

 今晩もあのした連中は泊まりに来るだろう。それまでに何か、手助けがしたい。アントンはそう考えた。自分のはわきまえているつもりだった。だから、犯人退治はコボルトに任せて、自分は情報でもなんでも、細々としたものをなんでも探しだしてやろうと意気込んだのだ。

 ――それがそもそも、うぬぼれの域にあったのだが。そう気づけなかったのが、アントンがあどけない少年であることの証左だった。


「アントン、店の手伝いは終わったのか?」

 家の前の井戸で、アントンは呼びとめられた。その声の主をみて、少年は不満そうに目を逸らした。彼の前に立っていたのは、少し寝癖のあるコボルトだった。

「おじさん、もう帰ってきたんだ」

「一旦、な。はは、さては悪巧みだな?」

「おじさんに止められることをそういうなら、そうかもね」

 男はにやりと笑って、煙草を深く吸った。

「ははあ、さては俺の仕事を取ろうって魂胆か?」

「そんなことしないよ。ただ、おれでもできることをしようと思って……」

「ほう? じゃ、せっかくだから助けてもらおうか。俺は土地勘がないからな。

 アントン、おまえに聞けるなら手っとり早い」

「……ほんと?」

「本当だ。朝に友達が行方知れずと言っていたな。その友達を最後に見かけた奴を知っているか?」

 アントンは思わず飛びあがって、何度も頷いた。憧れたコボルトの助手になれるのが、実に嬉しかったのだ。そして、アントンはコボルトに背を向けて先導しはじめた。彼は、もうコボルトを信じきっていた。

 毛むくじゃらの腕がのびた。

 アントンが感じたことは、首が苦しくて、息が吸えないということだけだった。

 瞬く間に彼は意識を失った。

 甲高い叫び声。

 母親は、我が子の首を絞めるコボルトを目撃して悲鳴をあげた。

 次には気丈にも人を呼んだ。

 コボルトは、自分の背丈とそう変わらない子供を担ぎあげるや、にたりと笑った。

 そして、森のなかに消えていった。


 アントンが目を覚ますと、頭と喉がずきずきと痛んだ。吐き気が唐突にこみあげ、嘔吐した。出てくるのは液体ばかりだった。

 真っ暗でなにも見えない。頭痛は頭の内側から痛むようで、喉は擦り傷のようにひりひり痛む。喉に手をやろうとして、手が自由に動かないことに気づいた。手に鎖の音がついてくる。

 けれど、アントンは手の不自由さなど忘れてしまった。

 異様な臭い。それは便所や厩、家畜の臭いに似ていた。だが別の臭いが混ざっている。それは魚の生臭さや、汗と垢のすえた臭い、鉄の酸っぱい臭い、膿の放つ硫黄と腐った卵の臭い。

 総じてそれらは、の臭いだった。

 足音。遠くから何度も反響してくる音。

 その音が迫ってくると悟り、アントンはふるえはじめた。信じていた大人に裏切られ、ひどく憔悴していた。どうにか理由をつけようとするが、片端から投げ捨てざるを得なかった。誰かが激しい呼吸をしている、誰かの歯の根がガチガチ鳴っている。その音に自分の末路が脳裏をかすめ、母親と、死んだ父の顔を思いだした。何をされるのだ。自分はどうなるのだ。そこでふと、歯が鳴る音と激しい呼吸の音が、自分から出ていると気づいた。

 遠くから明るくなってくる。

 鉄格子の輪郭に切りとられたレンガ造りの壁、その両脇にも鉄格子。薄いローブの太った少年が、手にろうそくを持ってやってくる。

 その後ろに、細く、背丈の高い男がついてきた。

「だ、……だれだ!」

 アントンが勇気をふりしぼった声は、それでも反響しないほどにかぼそく、たわんでいた。下僕の少年が下品に笑う。細い男の顔は見えない。

 彼はうやうやしく礼をし、同じ目線にしゃがみこんだ。ろうそくの炎に照らしだされたその顔は、子供を愛する壮年の男の――笑顔だった。

「私はエッカルト・オッペンハイム。君の名前を教えてくれないかな」

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