滑落
コボルトと出会ったその日、アントン少年はうきうきだった。
世間ではありふれてきた
知らないからこそ、その正義と善心にあふれたコボルトを、純粋に評価した。自分もああなりたい、あんなふうにかっこよくなりたい。そう憧れた。
だからアントンは、生家の手伝いもそこそこに
今晩もあの
――それがそもそも、うぬぼれの域にあったのだが。そう気づけなかったのが、アントンがあどけない少年であることの証左だった。
「アントン、店の手伝いは終わったのか?」
家の前の井戸で、アントンは呼びとめられた。その声の主をみて、少年は不満そうに目を逸らした。彼の前に立っていたのは、少し寝癖のあるコボルトだった。
「おじさん、もう帰ってきたんだ」
「一旦、な。はは、さては悪巧みだな?」
「おじさんに止められることをそういうなら、そうかもね」
男はにやりと笑って、煙草を深く吸った。
「ははあ、さては俺の仕事を取ろうって魂胆か?」
「そんなことしないよ。ただ、おれでもできることをしようと思って……」
「ほう? じゃ、せっかくだから助けてもらおうか。俺は土地勘がないからな。
アントン、おまえに聞けるなら手っとり早い」
「……ほんと?」
「本当だ。朝に友達が行方知れずと言っていたな。その友達を最後に見かけた奴を知っているか?」
アントンは思わず飛びあがって、何度も頷いた。憧れたコボルトの助手になれるのが、実に嬉しかったのだ。そして、アントンはコボルトに背を向けて先導しはじめた。彼は、もうコボルトを信じきっていた。
毛むくじゃらの腕がのびた。
アントンが感じたことは、首が苦しくて、息が吸えないということだけだった。
瞬く間に彼は意識を失った。
甲高い叫び声。
母親は、我が子の首を絞めるコボルトを目撃して悲鳴をあげた。
次には気丈にも人を呼んだ。
コボルトは、自分の背丈とそう変わらない子供を担ぎあげるや、にたりと笑った。
そして、森のなかに消えていった。
アントンが目を覚ますと、頭と喉がずきずきと痛んだ。吐き気が唐突にこみあげ、嘔吐した。出てくるのは液体ばかりだった。
真っ暗でなにも見えない。頭痛は頭の内側から痛むようで、喉は擦り傷のようにひりひり痛む。喉に手をやろうとして、手が自由に動かないことに気づいた。手に鎖の音がついてくる。
けれど、アントンは手の不自由さなど忘れてしまった。
異様な臭い。それは便所や厩、家畜の臭いに似ていた。だが別の臭いが混ざっている。それは魚の生臭さや、汗と垢のすえた臭い、鉄の酸っぱい臭い、膿の放つ硫黄と腐った卵の臭い。
総じてそれらは、
足音。遠くから何度も反響してくる音。
その音が迫ってくると悟り、アントンはふるえはじめた。信じていた大人に裏切られ、ひどく憔悴していた。どうにか理由をつけようとするが、片端から投げ捨てざるを得なかった。誰かが激しい呼吸をしている、誰かの歯の根がガチガチ鳴っている。その音に自分の末路が脳裏をかすめ、母親と、死んだ父の顔を思いだした。何をされるのだ。自分はどうなるのだ。そこでふと、歯が鳴る音と激しい呼吸の音が、自分から出ていると気づいた。
遠くから明るくなってくる。
鉄格子の輪郭に切りとられたレンガ造りの壁、その両脇にも鉄格子。薄いローブの太った少年が、手にろうそくを持ってやってくる。
その後ろに、細く、背丈の高い男がついてきた。
「だ、……だれだ!」
アントンが勇気をふりしぼった声は、それでも反響しないほどにかぼそく、たわんでいた。下僕の少年が下品に笑う。細い男の顔は見えない。
彼はうやうやしく礼をし、同じ目線にしゃがみこんだ。ろうそくの炎に照らしだされたその顔は、子供を愛する壮年の男の――笑顔だった。
「私はエッカルト・オッペンハイム。君の名前を教えてくれないかな」
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