85.風邪を引いたら看病をしたいのです

「ごめんね俊成くん。葵ね、風邪引いちゃったのよ」


 休日。宮坂家に訪れると葵ちゃんのお母さんから申し訳なさそうに謝られた。

 外は寒くて空気も乾燥している。風邪を引きやすい時期ではあった。


「葵ちゃん大丈夫ですか? 俺看病しますよ」

「あら本当? それは助かるわね」


 娘によく似た満面な笑顔を浮かべる。促されて家に上がらせてもらった。


「インフルエンザの心配はないんですか?」

「昨晩体調を崩して病院に行ったんだけどね。ただの風邪だって言われたわ」


 まずはひと安心。いやいや、葵ちゃんがつらいことには変わりはないか。

 一晩経っているけど体の調子はどうなのだろうか。気になると尋ねずにはいられない。


「熱はどのくらいなんですか?」

「今朝計った時は八度二分だったわね。薬があるから食べさせるようにはしているけど、食欲はあまりないわ」


 当たり前だけどしんどそうだな。ここはおかゆでも作ろうか。


「おばさん、台所を借りてもいいですか?」

「ふふっ、もちろんいいわよ。俊成くんにはいつもお世話になっちゃうわね」


 葵ちゃんのお母さんは快く頷いてくれた。この家で料理を作ったこともあるのでもう驚かれることもない。

 葵ちゃんは病弱というわけでもないのだが、年に一回はどこかで必ず風邪を引いてしまうのだ。手洗いとうがいはしているのだけど、どうしても抵抗できない。

 その度に俺はおかゆやうどんなどの食べやすいものを作っている。


「料理ができる男の子だなんて本当に助かるわ」

「簡単なものしか作れないですよ」

「謙遜しちゃって。お母さんから聞いているんだからね。体調が悪い時には料理から洗濯まで全部やってくれたんだって喜んでいたんだから」

「毎日やってもらってますからね。俺がやることなんてたまにです。おばさんもそうですけど、母親には頭が上がりませんよ」


 葵ちゃんのお母さんと会話しながらおかゆを作っていく。材料や調味料を使うのも笑顔で了承してくれる。こういうところで信頼されているんだなと伝わってくる。


「それにしても、俊成くんも大きくなったわね。最初はあんなに小さかったのに」


 懐かしむような目差しを向けられてなんだか照れくさくなる。

 葵ちゃんのお母さんと出会ったのはまだ幼稚園にも通っていない頃だったっけか。あの頃は見上げるほどだった身長差も、今ではまだ俺の方が背が低いとはいえだいぶ差が縮まった。

 両親で実感しているのに、なんだか改めて考えると新鮮な感覚だ。


「もう少ししたら抜かされちゃいそうね」


 そう言って葵ちゃんのお母さんは嬉しそうに笑った。母親とさほど変わらない歳の女性に思ってしまうのは失礼かもしれないけれど、無邪気でかわいらしい笑顔だと思った。さすがは葵ちゃんの母親と言うべきか。

 さて、そろそろおかゆが出来上がる。今回は卵おかゆだ。青ねぎも刻んで入れる。

 そういえばお尻にねぎを刺すと風邪にいいとか聞いたことあるな。眉唾物だから試したことすらないが、実際のところはどうなんだろうね。なんかピリピリしそうなイメージ。もちろん葵ちゃんにする気はないですよ。

 時刻は昼になったばかりだったのでちょうどいい。完成したおかゆを持っておばさんといっしょに葵ちゃんの部屋へと向かう。


「葵ー? 俊成くんがお見舞いに来てくれたわよ」


 おばさんがノックをして反応を待つ。小さい呻きのような声が返ってきた。返事だけで調子が悪いんだってわかってしまう。


「葵ちゃん、体調はどう?」

「んー……」


 かなりしんどそうだ。つらそうな表情を見ると胸が苦しくなる。


「おかゆ作ったんだけど食べれそう?」

「……トシくんが作ってくれたの?」

「うん。今回は卵が入ってるよ」

「じゃあ、食べる……」


 葵ちゃんが上体を起こす。熱のせいか顔が赤い。汗のせいで髪が頬に張り付いていた。


「大丈夫? 無理はしなくてもいいからね」

「うん……、トシくん食べさせてー……」


 葵ちゃんがとろんとした目を向けて甘えてくる。

 段々と大人っぽくなっていく葵ちゃんだけど、風邪を引いた時なんかはこうやって甘えてくることが多い。まだまだ子供だからしょうがない。


「お母さんお邪魔虫みたいね。俊成くん、後は任せたわ」


 止める間もなく葵ちゃんのお母さんは部屋を出て行ってしまった。しんどいから純粋に甘えたいだけだと思うのですが……。


「トシくん、ちゃんとふーふーしてー……」


 葵ちゃんは口を開けて待ちの体勢となった。こういうところを見ると小さい頃の甘えん坊の彼女を思い出すな。

 今の歳を考えれば懐かしむのはおかしな感じがするけれど、そう思ってしまうほどにたくさん成長したということなのだろう。葵ちゃんのお母さんが言っていたことだけれど、出会った頃に比べれば本当に大きくなったもんな。

 スプーンでおかゆを掬って息を吹きかける。熱くないようにしてから葵ちゃんの口元へとスプーンを差し出した。

「あーん」をしていた葵ちゃんの口が閉じられる。食べた葵ちゃんの感想はにぱーとした笑顔で充分だった。

 同じようにして食べさせていく。食欲がなかったという話が嘘だったみたいに綺麗に完食してくれた。


「トシくんが作ってくれたおかゆおいしー……」

「ありがとね。じゃあ薬飲もうか」


 薬と水を差し出すと嫌そうな顔をされた。薬に対して苦手意識を持っている葵ちゃんなのである。


「熱を計っとこうか」

「うん……」


 ぽやぽやした調子で体温計を受け取った葵ちゃんは、躊躇いなくパジャマのボタンを外していく。


「わっ!? 葵ちゃんストップストップ!」


 慌てて葵ちゃんの暴挙を止めさせる。上のボタンを二つほど開ければ充分だろうに、彼女は全部のボタンを外してしまっていた。うん、遅かったな。

 はだけたところからキャミソールが見える。ブラジャーはしていないようで目に毒だった。

 葵ちゃんはその状態で体温計をわきの下に挟む。計り終わるまで明後日の方向を向いていた。

 電子音が聞こえて体温計を渡される。三十八度ちょうどか。ちょっとだけ下がったけど、まだ安静にしていた方がいいだろう。


「まだ熱があるね。ゆっくり休んでるんだよ」


 氷枕を取り替える。食器を片づけようと立ち上がると、ベッドに横になった葵ちゃんがこっちをじっと見つめてきた。


「トシくん……行っちゃうの?」


 彼女の表情に弱気が表れていた。そんな顔をされたら離れるわけにはいかないと足が止まる。

 食器をテーブルに置き直して葵ちゃんに近寄る。


「眠れるまでいっしょにいるよ」

「手……繋いでてほしいな……」

「わかった」


 布団の中から葵ちゃんの手が出てきたのでその手を優しく握る。葵ちゃんは微笑みを浮かべて目を閉じた。


「……」


 やがてすぅすぅと寝息が聞こえてきた。早く元気になってほしい。そう思って彼女の顔を見つめ続けた。

 白い肌がまだ赤くなっている。それでもつらそうな表情は消えていた。

 大きな目を閉じていると今度は長いまつ毛が存在感を主張する。鼻筋が通っているし、唇は見た目からでも瑞々しい。


「って、いつまで見ているんだか」


 時間を忘れて葵ちゃんの顔を見つめ続けていた。ていうか見惚れていたのか。長い付き合いになっているから見慣れたはずなんだけどな。

 葵ちゃんの前髪に触れる。汗でおでこに貼りついていた。


「タオルでも持ってくるか」


 握った手を離そうとして、葵ちゃんの手が緩まないことに気づく。


「タオル持ってくるだけだよー……」


 小声で言ってみる。当然眠っている彼女には聞こえるはずもない。

 さてどうしたもんか。すでに眠っているから手を離してもいいとは思うのだが、そうなるとこの手を引き離さないといけない。


「……」


 これは動けない。だから仕方がないのだ。

 俺はベッドの傍らで葵ちゃんの手を握り続けるのだった。



  ※ ※ ※



「俊成、何寝ているの。起きなさい」

「ふぁ……。あれ?」


 体を揺すられて目が覚めた。どうやらいつの間にか意識が落ちてしまっていたようだ。


「ん……瞳子ちゃん? どうしてここに?」


 俺を起こしたのは瞳子ちゃんだった。確か今日は用事があるからと言っていた気がするのだが。


「もう夕方よ。帰ってきて電話したら葵が風邪を引いたって聞いて急いで来たの」


 窓の外を見れば夕焼けが広がっていた。冬は日が暮れるのが早いとはいえけっこう寝てしまっていたようだ。


「でも、もう体調はいいみたいね」

「え?」


 瞳子ちゃんの言葉で葵ちゃんの方を見る。するとバッチリと目が合った。


「えへへ」

「体はどう? 熱計ろうか」


 葵ちゃんといっしょに上体を起こす。ベッドに突っ伏すような体勢で寝ていたからか体が変に凝り固まっていた。

 体温計の表示は三十七度三分。ここまで下がれば安心してもいいだろうか。


「俊成、ずっと葵の看病してたの?」

「ん、まあ……寝ちゃってたけどね」


 居眠りしたのに看病したと言えるのだろうか。なんか微妙だ。


「一応これ。スポーツドリンクよ。汗もたくさんかいたみたいだし水分補給はしっかりとしなさい」

「うん、ありがとう瞳子ちゃん」


 瞳子ちゃんはペットボトルの蓋を開けて葵ちゃんに渡した。葵ちゃんはスポーツドリンクを受け取ると一口二口とゆっくり飲んでいく。


「おばさん今は買い物に出かけているから。すぐに帰るって言ってたけど、それまではいてあげるわ」


 瞳子ちゃんは勝手知ったるという風に座布団を自分で出して座る。


「で? いつまで俊成は葵の手を握っているつもりなのかしら?」

「え? あっ」


 葵ちゃんの手を握りっぱなしで寝ていたからなのか気づかなかった。長時間握っていたせいで汗ばんでしまっていた。

 手を離そうとすると葵ちゃんが力を入れる。一瞬動きが止まったが、彼女はすっと手を開いた。


「看病してくれてありがとうね」

「どういたしまして」


 風邪が治ったのなら良かった。彼女の元気な様子を見ると頬が緩んでくる。


「じゃあ俊成、もう帰ってもいいわよ」

「え、でも……」

「あら、これから葵を着替えさせるんだけど、部屋にいるつもりなのかしら?」

「そういうつもりじゃ……、部屋の外で待ってるよ」

「あんまり長い時間看病でいられるのも却って迷惑でしょ。あたしもおばさんが帰ってきたらすぐ帰るから。俊成はもう帰りなさい」


 確かにもう俺にできることはないのかもしれないけど、そんなに帰らそうとしなくてもいいんじゃないだろうか。


「トシくん、今日はありがとうね。あとはお母さんが帰ってくるまで瞳子ちゃんといるからもう平気だよ」


 しかし葵ちゃんにそう言われてしまえば反論のしようがない。この調子なら学校は来れそうだし、長居をするのも瞳子ちゃんの言う通り迷惑になるか。


「わかった。俺はこれで帰るから無理しないようにね。お大事に」

「はーい。トシくんバイバイ」


 手を振ってドアを静かに閉じた。食器を洗ったら大人しく帰るかな。

 この後に部屋で行われた二人の会話を、俺が耳にすることはなかったのであった。



  ※ ※ ※



「体拭いてあげるからパジャマ脱ぎなさい」

「うん」

「お風呂はまだあんまり熱めにしちゃダメよ。体力使っちゃうんだから」

「うん」

「今さらだけど、濡れたタオルを部屋に干すと乾燥予防になるわよ。お肌のためにもあまり乾燥させない方がいいんだから」

「うん」

「水分補給はこまめにね。自分が思っている以上に体の水分は出て行っちゃっているんだからね」

「うん」

「……」

「……」


「……瞳子ちゃん」

「何?」

「……トシくんのことで、話があるんだけど」


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