プロローグ
穂積美希
「パパ、ママ!! お願いがあるの!」
幼い頃の私はリビングのドアを勢いよく開け放ち、父と母の前に強く出た。
「ハルの……ハルのタマタマ取って!」
私の一声に二人は、まるで時が止まってしまったかのように固まって動かなくなる。
「な…………何を言い出すんだお前は!」
「そうよハルキ……それはどういう意味なの? 男の子をやめたいの?」
二人の間には動揺の色が見える。だけど真剣な思いで踏み出した私の思いは止まらない。
「ハルキじゃなくてハルぅ! ハル女の子がいい!」
「どうしたの? 何かあったの?」
言われて私は、行動に至った経緯を話す。
「ハルはどうして女の子じゃないの? 男の子なのに変って言われたよ?」
私は幼稚園でよく女の子の友達と遊んでいた。そう、今日もバスに乗って家に帰るまでは、女の子に混ざって遊んでいたのだ。だがとある女の子に言われてしまったのだ。なぜ男の子が混ざるのか。付いている物が違うのになぜ混ざろうとするのかと。
「それはあなたが男の子なのに、男の子のしない様な事をするからでしょ?」
「でもハル、ぜんぜんおかしくないよ! ぜんぜん変じゃないよ!」
母は深くため息をつくと、持っていた皿を近くの台の上に置いて、腰に手を据える。雰囲気が変わった。覚えのあるその態度は説教モード。
「あのねハルキ、あなたは男の子なのよ? 前々から言おうと思ってたけど、男の子なら男の子らしく、男の子の友達を作ったらどうなの!」
頭ごなしに指を
「ハルは男の子をやりたくないよ!」
私はすっと片膝を引いて、床に座す。頭を下げて、土下座を振る舞った。テレビでやっていたのだ。何か大事なお願いをする時は土下座をするのが良いのだと。
「お願いします。ハルを女の子にしてください」
「ふざけるな!」
ドンッ! 強く叩かれたテーブルは大きな音を立てる。
「男が簡単に頭を下げるんじゃない!」
徐に立ち上がり迫り来る父。
「あなたやめて!」
「うるさい! こいつには躾が必要だ!」
どうして……
私はただ……
女の子で生きたいだけなのに。
ボコッ!
普通に生きたいだけなのに……
以来私は親にお願いをする事がなくなった気がする。女の子で生きたいなどと、親の前では口が裂けても言えない。
「うぅ、やっぱり痛い」
私はハサミを手にしていた。
何をしているかって?
自傷行為とは違うよ。
それはとても誠実な行いだとも。
「だめ、無理。痛い。怖い」
私は自らの性器を切り取ろうと考えていた。仮にこれで切り取ったとしても、たまは二つあるのであともう一回同じ痛みを味合わなければならない。棒の方は最悪おしっこが出来なくなるから止めておいた方がいいだろう。
「やばい、もう限界」
結局私は何も出来ず、ハサミを机に置いた。
父に蹴り飛ばされたあの日以来、私は欲という欲を両親には言わなくなった。それが原因か、私の部屋はとても質素なものとなっていた。小学校の入学祝いに買ってもらった机や黒いランドセル。タンスの中にしまった服も、壁にハンガーでかけられた学ランも、どれも男の子用のもの。母に何か買ってあげると言われても、私は自分を押し殺して男の子用のものを選んできた。
「他人の家にでも上がり込んでる気分だ」
私はそう呟いてベッドに寝そべる。
「パソコン欲しいなー」
私の家にはネット環境が何一つ揃っていない。唯一母と父が折りたたみ式の携帯を持っているくらいだ。しかも連絡のためだけに購入した安物で、ネットにもまともに繋がらない。周りの皆はスマホや携帯こそ持っていない者も多いが、何人かはパソコンを自宅に配備している。田舎なんてそんなものだ。小学生の時に出来た男子の友達に、パソコンを使わせて欲しいとお願いしたことがあるけれど、親が許さないからとかで使わせてもらえなかった。前に一度母にパソコンが欲しいと言ったことがある。何というか、恐怖症みたいなものでまず父には言えず、母に言うことにした。とても言い出しづらかったが、自身の悩みに繋がる手がかりが得られるかもしれないネットに、とても興味があった。
「携帯なら、高校受かったら考えてもいいよ」
高校……高校と言っても、親が許すのは男子校だ。男がうじゃうじゃいる。私は女の子になりたいのに。いや、女の子なのに。そんな私の気持ちに勘づいたか否か、昔の私がしたあの発言に不安を感じているからなのか、両親はそんな高校に行かそうとしている。
嫌だ、嫌だ……
でも…
「ハルキー! 晩ご飯出来たわよー!」
止めて。
もう止めて。
その名前で呼ばないで。
私はハルキじゃない。
私はミキ。
下の階から母の声がする。
私の名前を漢字で書くと、美希となる。親はハルキと呼ぶつもりでつけたみたいだけれど、いい加減もう我慢出来ない。なぜよりによって美をハルと読むのか。
「ごめんお母さん、今日ご飯いらない」
食欲がない。ほんとに、ほんとに気分が悪い。男の子のみたいな質素なこの部屋も、ハルキと呼ばれるのも嫌だ。嫌でたまらない。
私は枕に顔をつけて、声を出さない様に泣いた。
次の日の朝
私は起きて歯を磨く。
「ハルキ、なんだ寝不足か?」
寝起きの低い唸り声を響かせる父。
中年間際の父親の臭い。
あー嫌だ。
これが思春期というやつか。
「うん、まあねー」
適当に返事をする。何も悟られないようにわざと作った笑顔で誤魔化した私。
「男ならシャキッとしろ。シャキッと」
と父は私の背中をポンポンと叩く。
苦痛だ。
苦痛苦痛。
男扱いするな。
もう止めて。
朝食の時間。父は朝食を早々に済ませ、タバコを吸いながらテレビを見ていた。母親もとっくに朝食を済ませており、洗い物に励んでいる。
「ほらハルキ、とっとと食べなさい。学校遅れるわよ」
私は喉を通らないながらも朝食を無理やり済ませると、自身の名前を呼ぶ声から逃げる様に急いで二階へ行き、学校へ行く準備をする。最後に黒い学ランを着れば、もう学校に出かける準備は完了だ。 これを着れば…
私は学校へと向かった。今は夏の終わりかけ。何となく心に不安の残る季節だ。やや肌寒くもあるか、これから冬になっていくと思うと何だか悲しくなる。
これは植物たちの感情かな? まだ枯れたくないよーと、
不思議な季節の変わり目だ。
私は少し寄り道をした。少しでも学校に居たくないからだ。公園のブランコに座ってみたり、人通りの少ない道を歩いてみたりと、ちょうど遅刻ギリギリ一分前の八時十四分に校舎へ入る。他の生徒はきっともう、教室の中にいるのだろう。玄関にも廊下にも誰もいない。
教室へ近づくごとに騒々しい声が聞こえてくる。私は教室の前に立った。後ろのドアからそっとドアを開ける。すると一瞬声が止む。
「おっ、オカマだ、オカマが来たぞ」
「相変わらずキモいな」
「言えてるーアハハ!!」
私は顔を
「私はオカマじゃない…」
私は女言葉や女らしい仕草、女の子ものが好きなだけではない。オカマ、オネェと一言で安直に言い表せない何かを、確実に違う何かを体の奥に秘めていた。
「ん? ハルキくんが今、何か言いましたよ?」
「わ、た、し、オカマじゃないわよんっ! って言ってましたねー」
クラスの至る所から笑い声が上がる。悪魔の笑い声が。私はもうそれだけで泣きそうになっていた。でもいつもの事だ。いつもの事だからこそ何を言ったって無駄なんだ。それは私が一番わかっていた。
「止めなよ男子! 可哀想でしょ」
「あん! うっせーよ女子。へへ」
私は中学生用のカバンから教科書を取り出して机の中にしまっていく。するとある事に気がついた。私の机の中に既に入っていた本が一冊あったのだ。何の本なのか確認するために私はその本を取り出してみる。
「何これ」
私はすぐに目を背けて、手に取ったそれを机の中にしまう。恥ずかしさがぐっと込み上げてくる。
何でこんなものが!
「おーし朝礼始めるぞー」
途端教室に先生が入ってくる。
「まず出席からなー」
「先生!」
するとある男子生徒が挙手をして立ち上がった。
「どうした高橋」
高橋と呼ばれた男子は、ニヤリと私の方を一瞥してから先生へと向き直り、口を開く。私はとても嫌な予感がした。
「先生! ハルキくんがエロ本持ってきてまーす」
「違っ!?」
私は唐突に声を上げてしまった。
「ほう、穂積! それは本当か?」
「ち、違います。私はそんなもの持ってきてなんて」
「机の中、見せてみろ」
先生は私の元に向かってきた。私は慌てて机にある本を教科書に挟んだが、バレバレだ。だけど咄嗟にこの方法しか思いつかなかった。
「穂積、中学生なら確かにこういうのに興味が湧くのも自然だろう。だがな、学校に持ち込むのはいかん」
「違います。それは、私が登校して来たら、机に元々入ってて」
「嘘はいかんぞ穂積。とりあえずこれは没収だ」
先生の背後で高橋がこちらを見ながら、口を手で抑えてクスクスと笑っているのが見える。
ひどい。あんまりだ。
「先生!」
「今度はなんだ。島木」
島木と呼ばれた女子生徒が、挙手をしていた。
「穂積さんは悪くありませんよ。その本、高橋くんが入れてました」
「はぁ!? 俺そんなの知らねぇし。意味わかんねー」
高橋は島木の発言に逆ギレし出す。
「証拠はあるのか?」
と先生は返す。
「証拠はないですが、穂積さんの証言が嘘だという証拠もありませんよね?」
「確かに、島木の言う事も一理あるな。決めつけはいかん……まあとりあえず、この本は
先生は手に取ったエロ本を間近で見ていた。
「おい高橋。この雑誌にお前の名前が写りこんでるんだが」
先生は
「え?」
ふざけた態度で白々しくしていた高橋は、動揺していた。
「この雑誌に写りこんでるのはお前の名前だ、高橋! きっとインクが新しかったんだろうな」
先生の言葉に高橋の顔はドンドン青ざめていく。
「先生、それは…」
「お前、放課後職員室へ来い。親には俺から電話しておく。2時間は覚悟しておけ」
高橋は青ざめたまま呆然として動かない。島木は私に向かって軽くウインクを流した。とりあえず私は助かったようで、
放課後になると、私は即刻帰宅しようとする。少しでも学校に居たくないからだ。家に帰って自室にこもれば、軽い休憩になる。そう……いつもならこのまま家に帰っているはずなのだ。でも今日は
「穂積さん、今日ちょっと私の家に寄ってかない?」
今日朝礼の時に冤罪から救ってくれた
「うん、いいけど」
私は中学になって初めて女の子の家にお邪魔する事になる。
そこは夢のような空間だった。熊やうさぎ、パンダや最近流行りのキャラクター人形などの可愛いお人形が、手に届く範囲でタンスの上に置いてある。ピンク色のシーツをハート柄の布団が覆うベッド。汚れのない真っ白い机には本が一冊置かれており、読書を誘う高潔な佇まいをしている。そこは私の部屋とはまるで違い、おとぎの国の世界へと迷い込んだ様な感覚に浸らされる。
羨ましい。私はひたすらそう思った。今までに焦がれ続けていた部屋が理想の形となってその場に実現しているのだから。沈んだ心が一気に高揚して、私は辺りをまじまじと見回していると島木は急に制服を脱ぎ始めた。
「え?」
私は慌てて向こうに振り返る。
「島木さんいけないよ。僕…おと…こ…のこ…だよ? そんな格好したら怒られちゃうよ」
島木涼子はクスクスと私の背後で笑っている。
「穂積さん。無理しなくていいよ。知ってるから。分かってるから。あなた、女の子なんでしょ?」
私はその言葉を聞いて、急に涙が溢れてきた。
「そ…そうだよ。僕…ううん、私、そうだよ」
「うふふ、分かるわよ。男子の制服着てたってね。何でわざわざ男子の制服着て男子と偽って学校来てるのか分からないけどね」
え?
私はその言葉に引っかかりを感じた。きっと島木涼子は私が男装して学校に行かされていると勘違いしているのかもしれない。この噛み違いに、私の額からは一筋の冷たい汗が流れ出た。
「ねぇ、聞かせて。何で男装させられてるの? 力になれるかもしれないよ」
きっとでなくて思い切り勘違いをしている。もしも本当の事を話したら、信じてくれないだろう。それどころか通報されるかもしれない。
「ねぇ島木さん」
それでも黙っているのはいただけないので、私は本当の事を話した。
「つまりあなたは、えっと、女の子になりたいの? それとも変態?」
島木涼子の顔はきょとんとしてはいるが、無意識か防衛反応かで体は正直だった。ゆっくり後退り、ベッドの布団を引っ張って体を覆い隠す。
「変態じゃない! それに、なりたいんじゃなくて……上手く言えない………」
しばらく島木涼子は考え込んでいた。少しの沈黙の時が流れ、表情を引き締めると再び口を開いた。
「聞いた事あるかも。確か、あなたみたいな人、GID…だったかしら」
「GID?」
私は聞き覚えのない言葉に、興味を抱いた。
「うん、
「え!? パソコン持ってるの!? いいなー」
そんな私の期待を乗せた視線に、島木涼子は苦笑いを浮かべる。
「……パソコン、見る?」
私は二つ返事で島木涼子のパソコンを借りることとなった。島木涼子は再び着替え直す。その間私は目を瞑っていた。島木涼子からそうして欲しいと言われた訳じゃない。私自身が変態だと思われたくないからである。
パソコンのある部屋まで案内してもらう間に、怒っているのか島木涼子は口を閉ざしていた。そんな時
「これからあなたのこと、ミキちゃんて呼ぼうか? ほら、漢字だとミキって読めるんじゃん。ていうかそっちの方が自然」
「え? ほんと? 嬉しい!」
島木涼子は笑顔で話を切り出してくれて、私はほっとする。そんな会話をしながら、私たちはパソコンの元へとたどり着いた。
「GIDっと」
学校に置いてある白いパソコンとは違い、島木涼子のパソコンは黒くて、何というか新しさを感じた。聞くとこのパソコン、普段は親が仕事で使っているらしく、親がいない時にだけ使う事を許されているらしい。学校のパソコンとも違って、起動も早かった。やっと求めていた情報が手に入る事に、私は浮き立つ心を抑えきれない。
「出た出た。うわーいっぱいある」
学校のパソコンだと、何かを自由に検索することも出来なかったから、こんな体験は初めてだった。
島木涼子は検索結果のウチ1つをクリックすると、GID……またの呼び、性同一性障害について書かれた記事が表示される。
「体と心の性不一致によるもの…えっと…他には」
小一時間ほどパソコンの使い方がよく分からない私に代わって、島木涼子は操作してくれた。
そこで得た情報では、恐らく私はGIDだろう。GIDは治療という名目でその性差における人生をより良くすべく、ホルモン治療や性別適合手術や戸籍の変更を、自らの望む性に基づいて行う者が多数らしい。そうしない場合は、大抵が何か理由があったり、性別違和による拒絶反応の様なものがあまり強くなかったりなどの、個別性もあるようだった。
「島木さんありがとう! 私、これから希望を持って生きる事にする!」
「リョウコって呼んで」
「え?」
喜ぶ私の鼻を人差し指で優しく抑える島木涼子。
「リョウコって呼んで。私もあなたのこと放っておけなくなっちゃった。これから友達、ね?」
初めての女の子の友達。私は舞い上がっていたに違いない。今までずっと男子だからとか、男子はあっち行け、キモい、オカマ、と避けられてきた。そんな私にとって、女の子の友達は初めて作る友達に等しいくらいに嬉しかった。この先の未来に希望が見えてきた。私はどうすればいいのか、どうしたいのか。私の
次の日
私は今まで以上に苦痛な朝を迎えたかもしれない。昨日リョウコとパソコンでGIDについて調べて、どうすればいいのか、これからすべきことが見えてきた。抱えてる思いをはっきりと言葉にする事が出来て、私は逸る気持ちを抑えきれない。早く今の現状から脱出したいという気持ちが強く、強すぎて、まともに睡眠も取れなかった。眠れなくて眠れなくて、ついには朝日を目にする。
「さて、リョウコちゃんのお家はっと」
私は今日リョウコと一緒に、登校をする約束をしていた。そのため早めに家へ迎えに来てと言われて、いつもより三十分も早い出発をしたのだけど、
「どうしよ、道分からない」
昨日リョウコに渡された地図を見ながら歩いてるのだけど、どうも私は方向音痴らしい。そういえば新しく学校へ入学した時、道を覚えるのに一苦労した気がする。
「おーい! ミキー!」
頭上からリョウコの声がした。どうやら私はリョウコの家に着いていたらしい。二階の窓から制服姿のリョウコが笑顔で手を振っている。
「おはよー! ごめん、道わかんなくなっちゃって」
「今そっち行くねー!」
窓からリョウコの姿が消える。しばらくしてリョウコが玄関のドアから出てきた。
「ミキちゃん、入って入って」
と言われるがままに私はリョウコの家の中へ。
「涼子? お客さん?」
「ううん、友達」
姿は見えないが家奥から女性の声が聞こえた。リョウコの母親だろう。私はリョウコに手を引っ張られて、二階のリョウコの部屋に連れ込まれた。
「さて! じゃあ制服脱いで!」
「え? 何? いきなり」
「いいから脱ぐの! 私あっち向いてるから。パンツ、良かったらこれ使って。嫌ならいいけど」
私は何が何だか分からないと立ち
「あーもー、ミキ! じっとして」
「へ? はい、えっ…ちょっとわわっ」
いきなりズボンを脱がされる。私はその勢いで床へとへたり込んだ。
「痛…つー」
「ほら、パンツも脱ぐの」
とリョウコは顔を赤くしながら、私のパンツを脱がした。
「ち、ちっちゃい。何で、何でこんなちっちゃいの?」
「ちょっと、止めてよ。何でこんな事するの!」
見られたくない私の汚点。こんなものがあるから私は苦しんできた。私は慌てて腕を挟むようにして股を閉じる。そして同時に、昨日友達と言ってくれたリョウコに対して疑心を抱いた。
「お願い、見ないでよ」
私はつい泣いてしまう。
「あ、ごめん。見られたくないよね…って違う違う。そうじゃなくて、これ。パンツ履いて」
「え? でもこれ、リョウコちゃんの」
リョウコは顔を背けながら、私にレースの入った黄色で三角の手触りがふわりとした下着を差し出した。私は今までトランクスという下着を履いていたから、とても新鮮なものに見えた。
「履いて! 遅刻しちゃうよ」
私は急いでその下着を手に取り、足を通す。
「もう見てもいいわよね。考えてみれば、制服の着方知らないものね。教えてあげるわ」
私は立ち上がって、リョウコの言われるがままに女子制服を着た。
「次にウィッグね。これお気に入りだけど、あげるわ」
私はリョウコに茶髪の長めのウィッグを被せられる。そして傍にあるピンクの縁取りが可愛い縦長の鏡で、自身の姿を見た。
「可愛い…」
何だろう。今まで繋がれていた鎖が解き放たれたような感覚。私はとても気分が良かった。
「じゃ、名札付け替えて、はい完成! 学校行きましょ」
「りょ、リョウコちゃん。ダメだよこんな格好で学校行っちゃ」
女子の制服を着て行けばきっと先生にも叱られるし、クラスの皆にももっと過度に虐められるかもしれない。
「大丈夫よ。だって似合ってるわ。ていうか、もともと美少女顔なのよね」
「ふぇ? えっと……」
「もしかして気づいてなかった? 美少女過ぎて、毎日化粧してるみたいって軽く女子の間で噂よ」
私は自分の姿を鏡で見る度に今まで嫌な気持ちになっていた。だからこそ必死にスキンケアなどを怠らなかった。それが理由と言えば理由だけども、今まで誰にも褒められた事がなかったために嬉々とする。
「何なら化粧してあげたいけど、ミキが遅れてきたからなし!
じゃあ行こ!」
私はリョウコに手を引かれて学校へと向かった。
ギリギリ昨日と同じ八時十四分。私とリョウコは肩で息をしながら校舎へと入っていった。
教室の前。先にリョウコが入っていく。私の心臓の鼓動が高まっていた。先程走ったせいだけじゃない。呼吸が更に荒くなっていく。
「はっ…はっ…」
緊張で胸が張り裂けそうになるも、私は教室のドアに手を伸ばした。
ガラガラ
昨日と同じくぴたりと騒がしい声が止む。
「うぉ、来やがった。おいてめぇオカマ! 昨日はよく…も……て…誰?」
高橋が声を上げた。途端クラスがざわつき始める。
「誰あの子?」
「あんな子いたっけ?」
「転校生かな?」
私は周りの視線を気にしながら席へと着く。
「おい、あそこって」
「オカマの席に座ったぞあの子」
「あれ、ちょっと待てよ。あいつの顔…」
教室のドアが再び空けられる。
「おーし、朝礼始めるぞー。さて出席からー…」
バタバシャバシャ
先生は名簿を床に落として口をあんぐりさせて、目を皿のように丸くして私の方を見ていた。
「お、おま…穂積…何だか……様子が違うんだが…」
私は朝礼後に職員室へ呼び出されてしまった。
内容はやはり、制服やウィッグについてだ。リョウコも私のことを説明するために着いて来てくれた。
「GID? 穂積、そうだったのか。すまない、気がつかんで」
先生は寛容で、私がGIDである事を信じてくれた上に、受け入れるとまで言ってくれた。世間ではGIDが受け入れて貰えずに、苦難している者がたくさんいるとネットの記事では書かれていた。私もそれなりに覚悟はしていた。しかしそんな事は全くなく、肩に入った力が抜けて、返って拍子抜けをした。
「親は知ってるのか?」
「いいえ。親は、話しても否定すると思います」
「そうか…」
先生はこれからの事を考えようと言ってくれた。とりあえず今の制服とウィッグは許されるみたいだった。それから私とリョウコは授業が始まる前に教室へと戻った。
授業中、昨日私を冤罪で貶めようとした高橋が睨みつけてくるのが見えた。昨日の事で相当恨みがあるのだろう。
授業が終わると私は急にトイレに行きたくなった。実はトイレについて、先生からは女子トイレを使って良いとの許可が出た。昨日の今日でこんなにも事が運ぶだなんて思いもしなかったけれど、これも全てリョウコのおかげだ。まだお礼を言っていない。ちゃんと言わなければ。
私は女子トイレに入る直前
「おい、てめぇハルキ」
私を苦しめるその名で呼ぶのは
「てめぇオカマのくせに何で女の格好してんだよキメぇんだよ」
高橋だった。その目は私を睨みつけている。その迫力に私は危険を感じて、すかさず女子トイレのスイングドアを開いて逃げ込む。スイングドアの小窓の型板ガラス越しに、人影が映る。
「おいこらハルキ! てめぇ昨日の件覚えてんだろーな! あの後親にまで電話されて大変だったんだ!」
そんな事を言われても私は悪くない。自業自得というものだ。
「ハルキ! お前放課後顔貸せよ。約束だかんな」
心臓がバクバクと高まっている。怖い。放課後にもし、約束を破って逃げたら私はどうなるんだろう。
高橋がぎゃーぎゃーと騒いでいると、チャイムが鳴る。舌打ちが聞こえたかと思うと、女子トイレの扉の小窓から人影が消えた。高橋は行ったのだろう。
今日という時間が流れていく。けれどいつもと違う流れ方をしていた。その理由の一つが制服だ。たったこれだけが違うだけで、私はいつもより勉強に集中出来た気がする。休憩時間では周りの視線が気になって気になって仕方がなかったが、それもこれから直に慣れるだろう。オカマやキモいという陰口も減った気がする。むしろ余計に酷くなると私は予想していた。可愛いという単語が聞こえたのが今までで一番嬉しいと感じる。
「あ、少し笑った」
と考えていると、リョウコの顔が目の前にあった。昼休憩中に前の人が席を外したために、リョウコがその席に逆向きに座って私の方を向いている。
「ミキってさ、全然笑わないなーって思ってたの。今何考えてたの?」
「え?ううん、何でも」
「ふーん?」
リョウコはまるで私の心を見透かした様に笑みを浮かべる。
「ねぇリョウコ、本当にありがとう」
「え? う、うん、気にしないで気にしないで」
リョウコの態度が少し変わった。私は何か変な事を言ったのだろうか。
「何か今のミキ、凄い女の子っぽかった」
「そう?」
「女の子っぽ過ぎて、少し惚れそうになったわ」
それはいったいどういう意味だろう。
「リョウコって、レズビアン? バイなの?」
「え? 言われてみれば……そうかも? 考えたことなかった」
笑い飛ばすリョウコを、戻ってきた元の席主が手で払うようにどかす。こうして昼休憩が終わる。
いつもなら一人で昼を過ごすのに、こうして初めて女の子の友達が一緒に過ごしてくれるのは、私にはとても新鮮な事で嬉しいことだった。
放課後。ついにその時がやってきた。高橋がかなり睨みをきかせて私の方をチラチラと振り返ってくる。
「おい高橋、今日この後手伝って欲しいんだ」
先生が高橋を呼び出してくれたおかげで、私は無事に帰ることが可能となった。
「ごめんミキ。今日私、部活あるからさ」
「そっか、分かった。部活頑張ってね」
私はリョウコに一緒に帰ろうと誘ったが、リョウコは部活だ。互いに手を振って、私達は教室の廊下で分かれた。
今までに比べ、随分と学校生活が良い方へと向いていた。他のクラスの人たちも、私のことを誰だろうって感じで見てきている。
私は帰路につく。いつも心の中で閉じこもっていたからか、周りの景色をちゃんと見ていなかった。よく見るとこんな住宅街の景色も良いものだ。道端の綺麗な花にも感動を覚える。私はスキップなんかしたりして家にたどり着いた。
「ただいまー!」
「あらお帰り、今日は早いの……ね……」
私は忘れてしまっていた。
私は先程家に着いていた。父が帰宅するまで自室で待機しなさいとの指示が母より為される。
それもそのはず。私はうっかり、ウィッグと女子用制服を着用したままで帰宅してしまったのだから。
「はぁ」
私の運命はこの先、どうなるのかな。こうなればいっそこの格好で、父を説得するしかない。
「ただいま」
下の階から声が聞こえると、口角がぴくりと上がる。張り付いた作り笑顔が、声を聞いただけでも現れてしまいつつあった。どうやら父が帰ってきたみたいだ。もうしばらくすると私は呼び出しをくらう。死刑執行を待つ人間は、こんな気持ちだったのだろうか。
「ハルキ! 降りてきなさい!」
母の合図が聞こえた。
私は今から死にに行くのかもしれない。遺書を書き忘れたか。いや、本当に死ぬわけじゃないのだから。でもまた私の事を否定されたら、私はもう立ち直れない。その上勘当されて、野垂れ死になんて事になったらそれこそ死ぬと同義。
そんな事を考えつつ、私はリビングについていた。タバコの臭いがだんだんと鼻を強く刺激する。私の心臓も跳ね始める。恐怖を押し殺して、そっとリビングのドアに手をかけた。
「ハルキ、何だその格好は?」
まず第一の一声。分かっていたことだ。
「お父さん、覚えてる? 私、昔」
「私とか言うな!! 気色悪い!!」
「ちょっ、お父さん! ご近所に聞かれるから!」
急に声を荒らげる父を母が宥める。
「ふぅ……勘当だ」
「え?」
「出ていけ。お前なんぞ、俺の子じゃない」
やはりそうなったと、泣きそうになる気持ちを我慢して私は頷いた。リビングを後にして、私の向かった先は玄関だった。靴を履き替えているところで、後ろから私を呼び止める声がした気がしたが、気になかった。父と母は言い争っているようだ。けれども感情が頭の中を支配して、今の私には誰の言葉もただの騒がしい音。外に出てドアを閉めてもその騒音は漏れていた。
「ひっ、ひっく」
あぁ、目からいっぱい水が溢れてくるよ。
何で?
頭が働かない。
私は何で歩いてるの。
歩けば道が見えるから?
分からない。
もう何も…
分からない。
辺りは真っ暗だ。
私の心も真っ暗だ。
もう、生きていけないや。
火傷してしまいそうな程に、目頭が熱い。不安は胸をぺしゃんこに押し潰そうとする。早くあの騒音がしない所まで行きたい。そんな思いが私の足を持ち上げる。
「おい」
その声に私は俯いた顔を上げた。
「たか…はし…くん?」
涙で滲んだ目を拭い視界がはっきりすると、前からやってきたのは私をいつも虐める高橋だと判明する。私はすぐに逃げようとするが、高橋のいつもと違う様子に気づいて足を止めた。今の高橋の表情は冷めきっている。
「オカマ」
「……っく……」
「泣き虫」
「……ずず……」
「キメぇんだよ」
「……っく……」
親と同じ様な事を淡々と言う目の前の人間に、何も言えない。言い返せるだけの勇気も、気力もない。ただ泣き続ける私に、高橋はイライラを募らせているようだった。だけどもいつものように、怒鳴り声の一つでも上げながら私の頭を掴みにかかってくるでもなく、私に向かって蹴りを入れようとするわけでもない。
「無視かてめぇ……お前さ、今日放課後すっぽかしたろ? 覚悟しろよ」
きた。ようやく高橋は私に怒りをぶつけようとする。逃げなければと私は足を動かそうとした。けれどふと巡(めぐ)る考えに、私は足を止める。逃げたところで何があるのだろうか。家も勘当され、もう生きる事すら不可能だ。それなら何のために、逃げてまで自身の体を守る必要があるのか。どうせ死ぬのなら、もう何も怖くない。そんな私は逃げるのを止めた。そして死ぬ前にどうしても知りたい事が一つだけあった。今までなら怖くて聞くことすら出来なかった問いかけを、今この場で口にする。
「ねぇ高橋くんさ…」
「あん?」
「ひっく…何で私を虐めるの?」
涙声で私は問う。
「キメぇからに決まってんだろう」
「何でキモいの?」
「は? だから…」
しつこい私の問いにイライラを募らせると、頭を両手でボリボリと激しく掻きだした。
「んあーっ! もーうっせぇな! ちくしょう、何でてめぇそんな可愛いんだよ!」
「へ?」
乱暴にぶつけられた高橋の一言で、頭の中に大きな穴が出来たようだった。
「だから」
高橋が私に詰め寄る。顔を近づける高橋に思わず私は仰け反った。
「ああ可愛い、すっげぇ可愛い。何でそんな可愛いんだよ。オカマのくせに可愛いとか、それが腹立たしいんだよキメぇんだよっ!」
私は頭が真っ白になる。
私が可愛い?
だから虐めた?
意味が分からない。
「高橋…くん?」
「くんとかつけんな男同士で!」
「私は……男じゃないよ……」
私は斜め下に目を逸らして、言い渋る。
「男じゃない…か…ふっ…だったら見せてみろよこのタコ」
ガシッ
私の両肩は高橋に掴まれた。それは物凄い力で、私はとても痛かった。
「痛っ」
高橋は不敵な笑みを浮かべながら、強い力で私を路地に押し込もうとする。
「何、する気なの?」
「決まってんだろ。触って確かめる」
触るって何を?
体に強い悪寒が走った。背筋が凍るようだ。
私は路地に入った所で押し倒される。
「がはっ」
「あー可愛い。すげぇ可愛い。昔見た時からその可愛さがムカつくんだよ」
私は抵抗しようとしても、高橋の力は私よりもはるか上で全く身動きが取れない。高橋は片腕で私を押さえつけて、もう片方の手でスカートの中に手を入れてきた。私は"それ"がついているということすら認識もしたくなくて、普段から手も触れずに放置してきた。体を洗う時も嫌々だった。それを高橋は容赦もなく鷲掴み。不快な感覚が私を襲う。
「チッ、やっぱり男じゃねぇーかよ。お前なんなの? ほんとに」
「止めてよ。ひっく…酷いよ」
今度はブラウスの中に手を入れてきた。
「あー真っ平ら真っ平ら。これの何が男じゃないんだよ、あん?!」
「やっ…痛いっ」
ザラザラとした感触の手が、私の胸を乱暴にまさぐる。
「で、この顔だ。何でこんな可愛いんだよ。おいっ!」
「がはっ、ケホッ…」
高橋は私の胸を強くどついた。私はしばらく息が止まる。
「ケホッ! ケホッケホッ! っ」
五秒は呼吸が出来なかった気がする。そのあまりの力の強さに、ただでは済まないのだろうと実感した。
「なあ、キスしていいか? いや、するわ」
「止めっ」
暴走する高橋のキスを避けるべく、ほっぺたを地面に擦りつける。すると高橋は両手で私の顎を強い力で掴んで、自分の顔に持っていこうとする。
「…止め……んもっ」
ザラザラと乾燥した唇が私の唇に重なった。私の初めては最悪の相手に奪われる。ショックで意識が遠のきそうだった。
殺すなら殺せばいい。
「ぶはっ……男のくせに、私とか言ってんじゃねーよ……」
高橋は私のウィッグを取り外して、自身の背後へと放り投げる。そして高橋は息継ぎをすると、その唇を再び私に重ね合わせた。瞬間、私は勇気を振り絞って高橋の唇を思い切り噛む。
「ほへぇええええっ!! ふへっ!!ふへっ!!」
「はぁ、はぁ」
鉄の味がした。やっと高橋の拘束が解ける。高橋は慌てて口を手で抑えていた。相当痛かった様で、私の目前で悶え苦しんでいる。その隙に私は急いで脱出。
「待へっ!」
私は高橋に足を掴まれた。そして私の体は宙に浮く。
「ごほっ……………」
私はうつ伏せに倒れた。そして掴まれた足ごと路地に軽々と投げ飛ばされる。
「逃げ……なきゃ…ケホッ、ケホッ!」
私は痛む体を無理にでも起こして、今度は路地の先へと向かおうとする。しかしその先は行き止まりだった。
「待へっへ言っへんはほ…へぇ、へぇ…」
逃げ場はない。振り向けば、鬼の形相で私を睨みつける高橋。
「コロス」
高橋はわなわなと拳を握りゆっくりと歩み寄ってくる。
「…あ…あ」
叫んで助けを呼ぼうとしたがまるで声が出ない。極度の緊張が喉まで硬直させてしまっていた。死ぬのは怖くない。けれど今の高橋は私の命だけでなく、私の全てを奪ってしまいそうな勢いだ。私は後退りをして、路地の壁面に背中をぶつける。
『誰か…助けてよ』
今どこかから声が聞こえた。私の心の声か?
『一人は…ひっく…嫌だよ』
女の子?
女の子の声が聞こえる。
誰?
『ママ…もう会えないの?』
「私だって……助けてよ」
突如高橋のいる風景は上へとスライドされ、真っ黒い空間に切り替わっていく。
「え? 私、落ちてるの?」
体の中の物が浮き上がって足が軽くなる。下から空気が吹き上げてくるように感じられた。
落下
重力に縛られない初めての感覚や、今起きている不思議な現象に、私の脳内は混乱を招いていた。
「待って、落ち着いて私。何で…落ちてるの?」
私は高橋に襲われていたはず。それがどうしてこうなっているの?
私は下を見た。落ちゆく先に白い光が見える。その光は次第に大きくなり、どこかの景色が映し出された。そこは薄暗い林の中で、私の落ちゆく先には泣いている少女が一人。気づいた少女が見上げると、私と視線がぶつかった。
「あ」
『あ』
ゴツンッ!!!!!
耳に響いた音は、人生の中で一番大きな音だったかもしれない。私の頭は割れてしまったのだろうか。そんな思考を巡らせているうちに、目の前が真っ暗になった。
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