第22話 思い出話
エドガーが寝室に向かい広いリビングで一人になると、アンジェラは座ったまま両手で顔を覆って深く息を吐いた。
(長い一日だった)
朝ウィング家に向かうとき、まさかこんな一日になるとは思わなかった。
あまりにもいろいろなことがありすぎて、体中をいくつもの何かが駆け巡っているような感じがする。
「疲れましたか?」
低く響く声にハッと顔を上げると、いつの間にかコンラッドが入り口に立っていた。その手には湯気の立つカップが二つ載ったトレーがあり、彼は静かに歩いてくるとアンジェラの座るソファ近くの小さなテーブルにそれを置いた。
「すみません、旦那様。少し休んだら声をかけようと思ったんですけど」
「ああ、座ったままで。――やっぱり顔色が悪いですね」
隣に座ってアンジェラの頬を両手で包むと、コンラッドはその冷たさに驚いたような顔をした。逆にアンジェラはコンラッドの手の温かさにホッとし、その手に軽く手を添えて軽く目を閉じる。
今のコンラッドの目に先ほどまでのような熱はなく、ただアンジェラを心配し気遣っていることが感じられた。
「何を持って来てくださったんですか?」
「白湯です。遅い時間なので茶を飲むと眠れなくなると思って」
コンラッドにカップを手渡され、アンジェラは礼を言って一口飲んだ。
「ありがとうございます。少し楽になる気がします」
ただの白湯だが飲みやすい温度で口当たりが優しく、疲れているためか少しだけ甘く感じる。
「それはよかった。ここには酒を置いてませんしね」
「わたくしはお酒は飲まないんですよ」
いざというとき動けないと困るから。
その言葉は飲み込んだけれど、コンラッドもカップを口にして、何か考え込むような顔になる。
狼はヒィズルの地酒を好んでいたことを思いだし、でも藪蛇になりそうだからそれも口に出さないでおく。沈黙が続いたけれど、学生時代を考えればコンラッドと二人でいておしゃべりをするなんてこともなかったのだ。今もこの沈黙は苦痛ではなかったし、体温さえ感じそうな距離なのに少しだけとろりと眠くなった。
「アンジェラ。二人きりの時に、旦那様はやめませんか」
コンラッドの提案に反射的に反論をしようとして、彼の寂しそうな目に一瞬口をつぐむ。
「でもわたくしは、メロディの家庭教師代理ですから」
「業務時間外ですよ。今は昔なじみの友人でいて下さい。学生時代のように」
学生時代の言葉に少しだけ笑みがこぼれる。
「あの頃はコンラッドと、友人と言えるほど話したことはなかったですけどね」
「えっ? そ、そうでしたか?」
「そうでしたよ。わたくしとも、ほとんど目も合わせて下さいませんでしたでしょう? 当時の貴方は冷たくて近寄りがたい存在でしたわ」
「そんなに冷たかったですか?」
「大丈夫。そこが素敵とも言われてましたから」
「全然フォローになってません」
コンラッドは心底驚いたような顔をしたあと、なぜか落ち込んだような顔をしてしまう。昔とは違う表情の豊かさが好ましかった。
「コンラッド?」
額に手をあて俯いてしまったコンラッドの顔を下からのぞき込むと、彼は小さくため息をこぼして苦笑した。
「ちなみに、その。アンジェラが当時私を、どう思っていたのか聞いてもいいですか?」
「みんなコンラッドのことを、カレイドの絶対零度の王子様って呼んでましたよ。ちなみにヴィクトリアは女王様です」
(メロディに学生時代のことを教えてあげたら喜ぶかしら?)
「なんだか微妙に納得がいくような解せないような気もしますけど、貴女もそう思ってたんですか?」
「わたくしがですか? そうですね。ヴィクトリアは普通に友だちですから、女王様という表現は面白かったくらいですし。――ああ、コンラッドのこと……。ええと、友だちの友だち?」
まじめに当時を思い出しながら正直に答えたものの、なぜか「遠い」と不思議なつぶやきが聞こえてアンジェラは首をかしげる。何が遠いのだろう?
あまりにもしょんぼりしてしまったコンラッドに、何かフォローしなくてはいけないような謎の使命感がわいてくる。ヴィクトリアがよく彼をからかっていた理由が分かったような気がしたものの、どうすれば彼が元気になるのかはよく分からなかった。
「あの頃は、すごく緊張してたんです」
ぼそっと呟かれた低い声に、アンジェラは目が丸くなる。
「優秀で、なんでもできる貴方が緊張?」
一番似合わない言葉のように思えるのだけれど。
「ええ、緊張してました。おかしいですか? シドニーに言わせると、当時の私は見掛け倒しのエセ王子らしいですよ。あの頃は貴女の名前を呼ぶのだって、本当にいっぱいいっぱいだったんです」
ふてくされたようなコンラッドの顔を見つめ、アンジェラは何度も瞬きをする。
(今日は驚くことばかりだわ)
無敵の冷たい王子様に見えていた当時のコンラッドは、裏を返せば緊張しやすい普通の男の子だった?
「ええと。今日、コンラッドがわたくしを覚えていてくれたことにとても驚いていたんですけど。もしかしてあの頃、わたくしと友達になりたいと思ってくださってました?」
「もちろん仲良くなりたかったですよ」
「そう、なんですね」
打てば響く彼の返事に、思わず緩みそうになった口元を手で隠す。
彼はスミレを愛していたかもしれないけれど、アンジェラはアンジェラとして、決して無かった存在ではなかったのだ。
その意外な事実に優しい思い出が増えたことを感じ、温かいものが胸の奥からあふれてくる。あの頃コンラッドと友達になれたら、また何かが違っていたかもしれない。
(やっぱり今世は、すごく幸せな人生だったわ)
アンジェラは学生時代が一番楽しかった。
心の奥に棘が刺さっていても、それでも一番キラキラしていた。
前世で日本人だった頃も学校生活はあったけれど、入院生活のほうが長くて孤独だったから、憧れの学園生活を本当に無我夢中で過ごした。たった二年だったけれど、たくさんの思い出を作った。
一番輝いている思い出は、今も心の支えになっている、どこの誰だか分からない太陽神だけど。今、仲良くなりたかったと言ってくれた隣に座る男性に一瞬彼が重なり、(まさか)と首を振る。
アンジェラにとっては、すべての人生を通しても唯一と言えるくらい貴重な思い出の彼が、コンラッドであるわけがない。
「ありがとう。嬉しいです」
アンジェラが素直に礼を述べればコンラッドは一瞬目を見開き、覆いかぶさるように顔を寄せてきたので再び手で押さえる。
「キスはしませんよ」
上目遣いで睨むアンジェラにコンラッドは目元を緩ませる。そしてアンジェラの手のひらに唇を押し当てると、「ちぇっ」と子供のような顔をして離れた。
(「ちぇっ」ってなんですか。もう!)
なんだか振り回されているようで悔しいと思い、手のひらをぎゅっと握りしめる。
「あまり、こんな悪ふざけはしないでください」
自分でも驚くほど弱々しくなったアンジェラの声に、コンラッドはハッとしたような顔をして「ごめん」と頭を下げた。
「ふざけてるわけでも、からかったわけでもないんだけど。いや、十分貴女を困らせましたね。せっかく血色が戻ったと思ったに、また顔色が悪い。今日二度も倒れたのに無理をさせすぎてしまったようだ。すみません、もう休みましょう」
「ええ」
立ち上がるのに手を差し出すコンラッドに、少しだけためらってから自分の手を預ける。
「アンジェラ、また明日」
日付は変わってしまったからおかしいかなと言う彼に、アンジェラも「また明日」と返事をする。
それだけでとても嬉しそうな顔を見せたコンラッドに、アンジェラはまた少しだけ落ち着かなくなった。
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