40.奥底を覗いて。

「はぁ~…………」


 大方の片づけを終え、紅音くおんは一人、窓辺で夜風にあたっていた。


 なにも紅音は酒を飲んだわけでもなければ、どんちゃん騒ぎをしたわけでもない。


 それでもなぜか紅音はここに吸い寄せられていた。


 外は既に真っ暗で、町の灯もややまばらになってきている。夜空は相も変わらず曇り空で、天体観測をするにはあまりにも不向きなロケーションだったが、それでも先ほどよりは薄くなったのか、それとも場所が違うからなのか、わずかながらの星と、かすかな月の光を拝むことが出来た。


 そんな空を見ながら紅音は一人、考える。


 佐藤さとう陽菜ひな


 彼女の家は間違いなく裕福ではない。


 家はマンションの一室で1LDK。それも新しい建物ではなく、部屋の防音もそこまで整っていないせいか、時折、同じ階からと思われる笑い声が聞こえてくる。恐らくは家飲みでもしているのだろう。うるさいとまでは思わないが、少なくとも西園寺家では聞こえることのない生活音だ。


 それから、これは紅音の予想でしかないが、恐らくは母子家庭だ。


 紅音から話を振るのは失礼だろうと思い、あえて避けていたが、二人からは父親の話題が全く出てこない。


 単身赴任だったり、出張中という可能性がないわけではないが、それにしては男性のものがあまりにも少なすぎる。靴箱だって紅音のものより大きい靴は入っていなかった。判断材料としては少ないかもしれないが、可能性を論じるには十分すぎるほどだろう。


 そして、それららいずれも、彼女自身からは全く感じられなかったことだ。


 今思えば違和感はあった。そもそも、本当のお嬢様は「ですわ」とか「ですの」とか「おーほっほっほっほ」とは普通、言わない。


 もし可能性があるとすれば、それは日本語が不自由で、たまたまそんな覚え方をした場合くらいだろうか。それでも相当純粋でないと難しそうだ。


 そう考えていけば彼女のあの言動は演技そのものなのであり、そんなことをしてまで自らを大きく見せなければいけない理由などそう多くはないだろう。ただの見栄か、単純な口癖か。そんなところだ。


 少なくともお嬢様だからという理由は、かなり可能性が低い。オッズだって高くはないだろう。賭けるならば本命でも対抗でもなく、大穴にふさわしい。


 それでも紅音は、そんな大穴と言っていい選択肢を信じた。


 なぜか。


 答えは分からない。


 彼女のことをよく見ていなかったという一言で片づけることも出来る。


ただ、それが本当の理由とはどうしても思えない。


周りに取り巻きらしき存在がいたから?いや、違う。それだけなら、単純に成績優秀者に金魚の糞が付いているだけという説明で成り立ってしまう。


 では何故だ。


 何故紅音は、


「そこにいたんですね~」


 声がした。既に耳なじんだ、おっとりとした声が。


「……ふみさん。起きたんですね」


「ええ。まあ起きたのはもうちょっと前なんですけどね~。あの子を寝かせて、それから紅音くんがいないなって気が付いて。探しちゃいましたよ~」


「それは……なんか、すみません」


「いいのよ~こうして見つけたから」


 そう言いつつ、文は紅音の隣に来て、


「あの子のこと、どう思う?」


「どうって……」


 曖昧だ。


 曖昧過ぎてとっさに上手い返事が出来なかった、ところが文はそんなことも計算済とでも言わんばかりに、


「昔はね、お嬢様だったのよ、ホントの」


「……えっと」


 紅音の困惑をよそに、文は続ける。


「あの子の父親……つまり私の夫はね、会社の社長だったの。それなりに大きかったのよ?だから、本物のお嬢様で間違いなかった。だけど、物事ってのはそんなにうまくいかないもの。ある日突然、あの人はいなくなった」


 いなくなった。


 死んだ、ではなく。


 そんな言葉を文は説明するように、


「いなくなったっていうのはね、本当にそのままなの。ある日突然、あの人と連絡が付かなくなった。そしたら暫くして、会社の資金繰りが立ちいかなくなってたことを知った」


「…………それで、どうしたんですか?」


 文はふふっと笑って、


「実はね、私もよく知らないの」


「知らない……ですか」


「ええ。幸いにしてね。あの人の側近みたいになってた人が、いろんなことを全部やってくれちゃって。だから、詳しいことは何も知らなくって。だけど、結果として残ったのは、働く場所も、能力もない私と、突然父親がいなくなった、あの子だけだった」


「捜索願とかって出せないんですか?」


「もちろん出した。けど、見つからないまま。今、生きてるのか、死んでるのかも分からない。それが現状なの」


 言葉が、出なかった。


 佐藤家に一体何が起きたのかは分からない。ただ、結果として、文と陽菜ひなだけが残った、事実はそれだけだ。


「陽菜だけはね、なんとかしてあげたいなって」


「え…………」


「本当はね、あの子、野球をやってたのよ」


 思い出す。


 先輩たちとの会話を。


 何故野球なのか。何故ソフトボールではないのか、


 その部分への結論は出されないままになっていた。


 そして、その答えはあまりにも単純で、あまりにも残酷なものだった。


「……それは、佐藤さとう……陽菜さんが、学業推薦での入学なのと関係がありますか?」


 そんな言葉に文は目をぱちぱちさせて、


「よく知ってるわね」


「ちょっと、知る機会があったもので……」


 文は微笑んで、


「いいのよ、別に。あの子は嫌がるかもしれないけど、私は。学業推薦だなんて、凄いことじゃない」


「それはまあ、そうですけど」


「それにね、紅音くん。悪いことばかりじゃないのよ。あの子、ピッチャーとしてはむしろソフトボールの方が才能があるんじゃないかって言われてるのよ?」


「そうなんですか?」


「ええ。だから、まあ。本人がどう考えているかは分からないけど、これで良かったんじゃないかなって、私は思ってるわ」


「そう……ですか」


 そんなことはない。


 紅音は正直にそう思った。


 陽菜だって野球が続けられれば、その方が良かったはずである。


 いかに才能があったとしても、本人が納得していなければ意味がない。どれだけの才能を発揮できて、評価され職業につけたとしても、やっている人間が苦しければ、それを天職とは思わないだろう。


 野球選手にも現役をやめた途端に見た目が若返った人間だっている。周りが本人の技術をほめたとしても、本人が納得していなければ意味などないのではないか。


 ただ、その問いかけは意味の無いものだ。


 それは数多の選択肢から一つを選び取る人間だけに生じる疑問だ。


 陽菜の前に与えられた選択肢は「野球をやめ、ソフトボールをすること」であり、「学業推薦で合格する」ことに他ならない。それが幸福か不幸かを、吟味する権利は彼女には与えられなかった。


 なのに。


「俺、勝負を挑まれてるんですよ、彼女から」


「陽菜から?」


「ええ」


 紅音の目の前にはいくつもの選択肢が転がっているのに。


「ご存じかは分からないですけど、俺、彼女にライバル視されてるんですよ」


「知ってる。定期テストの度に話が出るもの。だから私は言ったのよ。ああ、いつも言ってる彼氏を連れてきたんだなって」


「そんな……彼氏なんかじゃないですよ」


 その中には「紅音には必要ないけど、陽菜にとっては喉から手が出るほど欲しい選択肢」もあるはずなのに。


「そうなの~?でも陽菜の話してるのを聞いてたら「どんだけその西園寺くんって子を好きなんだろう」って思ったわよ~」


「そんなにですか?」


「そんなによ~これはもう、喧嘩するほど仲がいいってやつだなって感じで~」


 なのに。


「それで?勝負するの~?」


「ええ。でも、俺、思うんですよ。勝っちゃいけないんじゃないかって」


「どういうこと~?」


 紅音の欲しかった、たった一つの選択肢は、なぜか陽菜だけが持っていて。


「そりゃ、簡単に勝てるとは思ってないですよ。でも、でもですよ。仮に野球でも勝っちゃったら、それは佐藤の得意ジャンルなわけで、つまり」


「あの子の心を折っちゃうって思う訳ね」


「……っ!」


 なんだ。今の声は。


 今までのどの声とも違う。低く、深く、そしてどこか暖かさのある声。


 文は微笑みを崩さずに、


「ねえ、紅音くん。一つ私からお願いがあるんだけど、聞いてくれる~?」


「え、ええ。俺に出来ることだったらなんでも」


「ん?今何でもって言ったね~?それじゃあ」


 そこで言葉を切って、紅音の両肩をがっちりと両手でつかんで、


「命じます。明日、陽菜とデートしてちょうだい」


「…………はい?」


「いいわね~?」


「いや、でも、それ、佐藤……陽菜さんが嫌がるんじゃ」


「そっちは私がなんとかするから~」


 なんとかする。


 一体何をするんだ。さっきの声色を思い出すと怖くて聞けない。


 文さんはふふふっとと笑いながら、


「大丈夫よ~あの子、表面上は嫌がると思うけど、最終的にはデートしてくれると思うから~。こういうのなんていうんだったかしら……」


 ポンと手を叩き、


「そう。口は嫌がってても体は正直だぜ!」


「絶対違うと思います」


「あれ~?」


 首をかしげる文。あの、もしかして本気でそれでいいと思ってました?


 ただ、


「まあ、分かりました。あいつとデートすればいいんですね?一日泊めてもらったわけですし、それくらいはしますよ」


「そう?良かった~」


 そう言ってリビングへと戻っていき、


「そうと決まったら、早速準備しなきゃいけないですね~えーっと……」


 そこで紅音の方を向いて、


「紅音くんは自分のモノに自信がありますか~?」


「モノ?」


「おちん○んです」


「おち……えぇ!?」


 文は「なんで驚くんだろう」といった顔で、


「そうですよ~だって、必要じゃないですか、コン○ーム」


「…………文さんは高校生のデートを何だと思ってるんですか」


「え?ヤりたい盛りのオスとメスが作った、体のいい口実?」


 なんてことを言うんだ。謝れ、全国の健全なお付き合いをしている高校生たちに謝れ。


 紅音が若干引いていると、文は首を傾げ、


「あら?違ったかしら~?おかしいわね~……私の読んでる漫画だと「そんな格好して、誘ってるんだろ」とか言って、すぐベッドに連れ込もうとしてるんだけど~……」


 なんの漫画だ、なんの。


 文の男女交際に関する知識は、極めて偏っていた。


 大丈夫なのだろうか、この人の言うこと聞いて。

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