アラカルト3 ~東雲來華と吉祥寺雪輝~
【アラカルト3 ~東雲來華と吉祥寺雪輝~】
「助けてくれて、ありがとう」
違う。
「守ってくれて、ありがとう」
これも違う。
「この話を聞いた時、なんて言うか、少し嬉しかった」
こんな事が言いたいわけじゃない。
誰も使わない授業時間中のトイレで、鏡と睨めっこをする。
私らしくもない。人に伝える言葉でこんなにも悩むなんて。
「……仏頂面、か」
あの日、吉祥寺君が私にバレーを誘ってくれた夜。私は彼に本当に伝えたかった「ありがとう」を言い損ねた。
ふとあの時の会話を思い出す。
『……その、ありがと』
『なにが?』
『……朝、助けてくれたでしょ』
『あぁ、っはは。次からは気をつけろよな。ホント危ねぇから』
『ええ。あと……バレー、誘ってくれて』
『それは俺がただ遊びたかったからで……つか、こっちこそ付き合ってくれてありがとな。楽しかったよ』
『えぇ。……あと』
そして言えなかった。私は頭の中が真っ白になり、気づけば彼の足をけり上げてしまっていた。
「はぁ……」
ため息が反響する。
吉祥寺君は明日、授業復帰の為に大宮君達と話し合う。結果は多分、上手くいくだろう。私はそれを知っている。
なぜなら――
―――――――――――――――
「東雲」
吉祥寺君が相談室に来ることになった翌日。下校する私を二人のクラスメイトが引き留めた。
振り返ると、顔に包帯を巻いた大男と、小柄で中性的な少年が目を泳がせながら立っている。
「なに?」
「すまん」
私が振り返るやいなや、包帯男は一言そう言って頭を下げた。するともう一人の小柄の少年も同じように頭を下げる。
「僕も。その、ごめん」
「は? 私は何を謝られているの?」
初めはこういう形の嫌がらせなのかと思って、辺りを見回した。しかし、陰に隠れて笑っている様な人も見当たらない。それが余計に混乱を招く。
「ちょっと、ちゃんと話してくれないと分からないわ」
すると小柄な方が頭を上げて、不思議そうに尋ねてきた。
「……もしかして、先生から聞かされてない?」
「聞くって何を?」
私は不安になった。謝ったという事は、私の知らないところでこの二人に、何か被害を被ったという事だろう。現状自覚はないが、その自覚の無さがまた不安を煽る。
「……冴島先生の言ってた事は本当にそういう事なのか。学校は本気で、僕たちがしたことを無かったことにしようとしてる……」
少年が独り言ちる。
「だから何? 何なの?」
「テルは学校に来てるか?」
包帯男が口を開いた。
「テル? もしかして吉祥寺雪輝?」
「あぁ」
「え、えぇ。あの暴力魔なら相談室登校で来ているけど」
「そうか……。オレ達はアイツに殴られた二人だ」
「あぁ、その包帯はそういう。でも、それと私への謝罪に何の関係が?」
「僕たちは……」
小柄が口ごもる。
すると包帯男が一歩前に出てこう言った。
「オレ達は、東雲に酷い事をしようとして、テルに止められただけなんだ」
「私に酷い事?」
私が目を細めると、二人の視線が少し泳ぐ。しかしその後、しっかりと私の目を見て、あの日起きた事を話し始めた。二人が私の机に虫の死骸やゴミを入れようとしたこと。吉祥寺君がそれをやめるように言ったが、二人は自制が利かなくなってしまっていたこと。そして吉祥寺君が二人を止めたこと。
しかし、公的に残っている事件の顛末は少し違っていた。三人は教室で些細な事から口喧嘩になり、痺れを切らした吉祥寺雪輝が二人を殴打。
そう。私への嫌がらせは、完全に無かったことにされている。
それは私が東雲源次郎の娘だからだろう。
私がいじめを受けているという事実があれば、それは瞬く間に日本中に広がる。嫌われ者の政治家の娘が、学校でも嫌われ者でいじめを受けているなんて、マスコミの格好の餌だ。
私は学校のとった判断は正しいと思っている。自分の学校で起こったいじめが、日本中に拡散されるなんて、絶対に阻止しないといけない事だ。
だけど、この二人はそれに疑問を感じていた。だからこうして今、私に頭を下げている。
「本当にごめんなさい。なんて言うか……こんな事本人に言うのも良くないんだと思うけど……」
「構わないわ」
「今思うとおかしな話なんだけどさ、クラスにも来ない東雲さんにだったら、何してもいいみたいな、そんな風潮があって……それで僕らも舞い上がっちゃってて、ごめんなさい。今はその、なんて酷い事をしようとしてたんだって、思い出すとゾッとするんだ。テルに止めてもらえて良かったってホントに思ってる」
「オレもだ。すまん」
差し出される二人分の首を前に、正直、何を言えばいいのか分からなかった。
別に怒りという感情は無い。私に向けられる悪意はいつもの事だし、恐らく私の知らないだけでもっと多くの悪戯がされているのだろう。こうやって謝罪に来られたのは初めての事で、私にはこの二人はまだマシな人間に見えた。
「……頭を上げて」
そう言うと二人はゆっくりと指示に従う。
「別に私は怒ってないわ。それよりも彼、吉祥寺君とは二人は仲がいいの?」
「……こうなる前まではね」
「そう。ならとっとと彼と仲直りして、クラスに復帰させてあげて」
「それは無理だ」
包帯男がそう言った。
「無理?」
「……わかねぇんだ、どうしたらいいか。オレ達はクズだ。それでもうアイツには嫌われた。どんな顔して会えばいいか分からねぇ……」
「面倒な性格してるわね」
「……」
包帯男が黙り込む。
きっと友達なんて出来たことの無い私には分からない、複雑な事情があるのだろう。
「オレ達はもう、アイツと友達する資格なんてねぇんだ……」
―――――――――――――――
結局今日までの一か月と少し、吉祥寺君は相談室登校を続けることになった。
するとチャイムが鳴り響く。もうすぐここにも他の生徒が入ってくるだろう。相談室に戻るべきなのだろうけど、戻るとそこには彼がいる。今は少し……会いたくない。なぜそう思うのか、それが自分でも分からなかった。
「あれ、來華ちゃん?」
その声に振り返ると、小牧原さんが立っていた。
「小牧原さん」
「昨日ぶりだね」
すると彼女はスマホを取り出し、私にストラップを見せてきた。
「昨日のやつ、つけてくれた?」
「えぇ、ちゃんとつけたわ」
そう言って私もスマホを彼女に見せる。改めて見ると変なキャラクターだが、気に入ってはいた。
「やった! お揃いだね」
彼女は屈託のない笑みを浮かべて言う。
「テルキチはつけてくれてるのかな」
「どうかしら、少し嫌そうだったけど」
「ねー。可愛いのに」
「恥ずかしいのだと思う。彼、そういうとこあるから」
「あっ、分かる。堂々としてるように見えて変なところで照れるよね」
「そう。見栄っ張りで馬鹿で、不器用で、その癖他人の事にすぐに首を突っ込む。頭がいいんだか悪いんだか」
そう言うと彼女は私の顔を不思議そうに見つめる。
「……來華ちゃんって、毎日テルキチと会ってるんだよね」
「えぇ、そうだけど。どうかした?」
「ううん! テルキチの事よく知ってるんだなぁって思って」
「どうだろう。別にそんなに会話が多いわけでもないし」
「そうなの?」
「彼、奉仕活動で掃除して回ってる事多いから」
「あはは、そうだったね」
彼女は私の隣で鏡を見ながらそう微笑する。
「そういう小牧原さんは、吉祥寺君とはずっと仲良かったの?」
「私は……どうだろう。テルキチが覚えてるかは分かんないんだけど、合格発表の時にちょっと励まされて、それ以来私は少し気にしては見てたけど、別に深い仲ってわけじゃなかったかな」
「そう。じゃあ本当に人の事情に首を突っ込む天才ね」
「ふふっ。そうかも。……でも、意外と嬉しいものなんだよね。そういうの」
鏡越しに見る彼女の顔は、少し恥ずかしそうに笑っていた。
「……小牧原さん」
「ん、なに?」
「その、お願いがあるのだけど」
私は鏡越しではなく、彼女の目を直接見つめた。
「彼が、教室に戻ったら……その、お願いできるかしら。彼がまた元の生活に戻れる様に」
「元の生活?」
「大宮君達だけじゃなくて、クラスでも微妙な立ち位置になってるのでしょ。だから……私が原因でこうなる前の、元の吉祥寺君に戻してあげて欲しい」
「來華ちゃん、知ってたの?」
小さく頷く。
「そうなんだ……。うん、分かった。任せて! 私中学の時はあぁだったけど、こっちでは『優しい小牧原さん』で通ってるから! それにテルキチも元々明るくて人気者だったし多分何も問題ないよ!」
「……安心した」
そう答えて私はその場所を後にした。
小牧原さんと話して、今吉祥寺君に会いたくない理由がわかった気がする。
認めるのは少し癪に障るけど、吉祥寺君が相談室に来てからの生活が、楽しかったのだと思う。彼が大宮君達と仲直りをしたら、その生活は終わる。それが分かってるから、今は会うのが少し寂しい。
私が寂しい? そんな馬鹿げた感情なんてって、知らないふりをしていたけど、認めざるを得ない。
私は寂しいんだ。
相談室に戻ると、そこにいたのは吉祥寺君だけだった。
「二人は?」
「冴島先生は職員室。神原先輩は帰ったよ。SNSの方をすぐに対応してくれるんだってさ」
「そう。頼りになるわね」
私はいつもの席に座る。向かいには吉祥寺君。この一か月と少しで、当たり前になった光景が広がった。
「はぁ……」
吉祥寺君が頭を抱えてため息をつく。
「どうしたの?」
「いや、タケル達に会うのかと思うと気が重くて」
「どうして?」
「どうしてって、そりゃ俺はアイツらを殴ってんだぞ。タケルに至っては鼻まで折れてるし……仲直りなんてどうすりゃいいんだよ」
「嫌われてるって、そう思ってるってこと?」
「そりゃそうだろ」
そう言ってまたため息が聞こえる。彼はそのまま机に顔を突っ伏した。
「ねぇ……」
「なんだ?」
「あっ、そのまま。そのまま顔を絶対に上げないで」
「は?」
「いいから、そのまま伏せてて」
そう言うと一瞬不思議そうに顔を上げたが、私の言う通りにまた顔を伏せる。
「――ありがとう」
「え?」
「だめ! 顔上げないで、見られてると上手く喋れないから」
「お、おう……」
「……私、吉祥寺君がこうなった理由、聞いたの。二人から。あなたがここに来た翌日に」
「……」
「だからその、ありがとう。ずっと言いたかった」
「別にアレはお前の為じゃ――」
「顔上げない! ……いつか聞いたわよね、あなたは優しい人なのかって。あなたの事を推し量っているって。最近少し分かったわ。あなたは基本自分の事しか考えていない人だって」
「おい」
顔を伏せながらツッコむ。少しシュールだ。
「……でも、あなたは他人の事を自分の事のように考えられる人。優しいとかそういう話じゃない。漆野さんや小牧原さんの件を見てそう感じた。そういうの、特異な存在だと思う」
「……」
「だから大丈夫よ。きっと上手くいくわ。はい、もういいわよ」
そう言うと彼は恐る恐る顔を上げる。
「でもよ、殴ってんだぜ」
「じゃあ一つヒントをあげる。物理学者でTOC理論の提唱者、エリヤフゴールドラットの言葉よ」
「誰だそれ」
「科学の世界に対立は無い。もし何か対立を感じている時は、その対立を成り立たせていると感じさせている『前提条件』に誤りがある。と」
「……? どういう事だ?」
「学年十位くんには難しかったかしら?」
「はぁ? いや分かるし。あれだろ……あのぉ」
「無理しなくていいわ」
そう言うと彼は少し拗ねたように唇を尖らせた。その顔を見て自分の頬が緩むのが分かる。
「いい? 前提条件が間違ってるの。あなたが嫌われていて、二人に恨まれているっていう前提条件がね。言いたかったのはそれだけ」
そう言うと彼は少し不安そうに小さく頷いた。
「あのさ、一つ聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「美心の事。先週まではあまり得意な感じじゃなかっただろ。でも今日すごい親身になって作戦練ってくれてたじゃん。なんでだ?」
「……似てるからかな、私に」
「似てる?」
「吉祥寺君は彼女が何を信仰しているか分かる?」
「何って、アカシアの救徒だろ」
「違うわ。多分、これはどこの家庭でもある事でね、子供は両親に、何が正しいとか何が悪い事だとかを教わるでしょ。彼女の場合は、その両親の正しさの基準が、アカシヤの救徒だったってだけ。だから彼女が信じているのは、他のみんなと何一つ変わらない。ただご両親を信じてるだけなの」
「……なるほどね」
「私も同じ。私の中の正義を作ったのはお爺ちゃんと、そして父親。それが世間と少しズレてたとしても、それはきっと簡単には変えられないから。だから小牧原さんの悩みが、私には少しわかる」
そう言うと彼は納得したようにどこか遠い目をした。
「俺たちと変わらない、か。そうだな。それを聞いてさっきの対立の話も、何となく分かった気がするよ」
「あら、意外なところで話が繋がったわね」
「学年十位の理解力なめんなよ」
「はいはい」
「……にしても少し残念だな」
「え、何が?」
尋ねると彼は少し悪戯な笑みを浮かべた。
「お前の美心に対するコミュ障ぶりが見れなくなるのがだよ」
「は? コミュ障? だ―― 「誰が?」
私の言葉を予想してたかのように、彼がしたり顔でセリフを横取りする。
非常に腹立たしい顔だ。
こうなるともう、一発すねに蹴りでも入れないと気が済まない。私は机の下で足を思いっきり伸ばして、彼を蹴り飛ばした。
「いたっ」
彼の腹立たしい顔が少し歪む。
「よくこっちまで届くな」
「スタイルいいから、私」
「自分で言うか普通」
「あら、私は覚えてるわよ。あなたがここに来た日。鬱陶しく絡んできた時に、私の顔を見て美人だって言ってくれたこと」
「アレは何しても無視するお前をからかって、何でもいいから喋らせようとしただけだ」
「そう……じゃああの言葉は嘘だったのね……」
「落ち込んだふりしても無駄だぞ」
「……あっそ」
そう言うと彼は少し呆れたように笑った。
とても静かだ。半分開けた窓から入る風だけが机の上のノートを揺らしている。
私は相談室が好きだった。静かで、穏やかで、騒がしすぎる世界から切り離されたこの空間が、とても居心地よかった。
そんな私の世界に彼がやってきた。俗的で鬱陶しくて、初めは早く教室に戻って欲しいと思っていたけど、気づいたら悪くないと思い始めていた。人との会話も、内容の無いものが増えた。そしてそれを楽しめるようにもなった。嫌われ者の東雲という苗字を、彼といる事で忘れることが出来た。
でももう戻らなければいけない。私は嫌われ者の私に、彼は元の居場所に。
未練は……ある。あるけど、構わない。
「吉祥寺君」
「なんだ?」
「明日、絶対に仲直りしなさいよ」
「分かってるよ」
「私も応援するわ。一刻も早くここから出て行ってもらわないと、私の成績まで落ちてしまいそうだもの」
「へいへい」
「だから、約束。……そうね、もしまたここに戻ってきたら、その時は罰ゲームね」
「何だよそれ、怖ぇな」
「内容はまたその時考えておくわ。いい、約束したからね」
「……了解」
仕方がないといった感じにそう言う彼だったが、その顔にはもう不安の色は無かった。この調子なら上手くいくだろう。
風がまた入ってきて、机の下を通り抜けた。ひんやりとしていて無性にこそばゆい。
足を組みなおした時、つま先が彼に触れた。冷えた脚につま先だけ熱を感じる。その熱が、日曜日の脱出ゲームで感じた彼の体温を思い出させる。込み上げるように顔が熱くなるのが分かった。
私は彼と目を合わせないように窓の外を見つめた。方角は西。古ぼけたビルの先に、それほど高くない山脈が見える。太陽の位置はまだ少し高い。
せめてあの太陽が山脈に隠れるまでは、二人でここにいたいなんて、私らしくもない恥ずかしい事を一瞬考えてしまったが、その考えを払いのけるように、私はもう一度机の下で、彼の足を蹴り上げた。
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