小牧原美心はいただきますが言えない 6
――雪輝はこの光景をどこか美しいと感じていた。
鼻を刺すような土と埃と汗の臭いの中、薄暗い体育倉庫に、自らが開けた扉から光が入り、目の前で膝を折りたたんで祈りを捧げる少女の背中を照らしている。
「小牧原……?」
絞り出すような声はその静寂の中でも十分な存在感を放ち、彼女の耳と壁に吸収されていった。
とても長く感じられた硬直の後、美心が床につけた頭を持ち上げ、ゆっくりと振り返った。
「……うそ……テルキチ……? どうして……?」
【小牧原美心はいただきますが言えない】
ここに小牧原美心が居る事を、きっと先生は知っていて、わざと俺を呼び込んだのだろうか。
気まずい沈黙の中で二人は横並びに座って、雪輝はそんな事を考えながらボールを拭いていた。隣にいる美心は黙って弁当を食べている。
「あの――」「あのさ――」
二人の喋りだしが被った。
「ごめん。テルキチからでいいよ」
「いや、小牧原の方が早かった」
「ううん。っていうか、テルキチが何言いたいか、大体想像つくし」
まぁそうだろうな。と雪輝は思う。
「私がここで何してたか、だよね……」
「……まぁ、だな」
「うん……」
「言いたくなかったらいいぞ。俺は冴島先生に頼まれてここのボールを掃除しに来ただけだし、用が終わったらすぐ帰るよ」
「先生に言われて来たんだ」
「あぁ、おう」
「はぁ……冴島先生って、やっぱちょっと強引だね……」
「それは同感だな」
「……」
箸を持つ美心の手が震えている事に雪輝は気付いた。
「大丈夫か?」
「ご、ごめんね。なんかドキドキしちゃって」
美心は無理に笑顔を作ってそう言った。しかしその表情はどう見ても一杯一杯で、雪輝を更に不安にさせる。
「やっぱいいぞ。俺もう戻るわ。さっき見たこと、誰にも言わないから」
そう言って雪輝が立ち上がると、美心は「待って」と声を捻りだして彼の袖をつかんだ。カラカラと箸の転がる軽い音が響いたが、二人は一切気に留めなかった。
「……話す。話したいの」
「お、おう……」
雪輝は止まり、再び腰を下ろす。すると彼女は手を放して膝を抱えた。
三十秒程だろうか、体育倉庫内が沈黙に包まれ、美心の隣に置かれた弁当箱は口を開けたまま乾いた空気に晒された。彼女の言葉を待つ雪輝は、ふと転がった箸に目をやる。早いもので、もう箸の先についた米粒の元に一匹の蟻が這い寄っていた。雪輝はその米粒を蟻に渡し、箸をそっと持ち上げた。美心との間にある弁当箱に蓋をして、その上に箸をおく。米粒に這い寄る蟻は三匹になっていた。言葉を探していた美心は、ポケットの中から幾つかの円で構成された花のような形のペンダントを取り出した。ギュッと握ると、ひんやりとしたシルバーの感覚が掌に突き刺さり、その震えを止めてくれた。
「私、宗教二世なの」
「宗教二世……?」
「えっとね。親が信仰を持っていて、小さいころから、その宗教での生活が当たり前だった子の事をそう言うんだけど、聞いたこと無い?」
「なかったけど、理解できた」
「よかった……」
握っていたペンダントを雪輝に手渡す。
「アカシヤの救徒(きゅうと)っていうの。ここら辺には会館が無いから知らないよね」
「そう、だな……そもそも俺あまりそういう文化に詳しくなくて……すまん」
雪輝は受け取ったペンダントを眺める。円が重なりあって花のように見え、単純に綺麗だなと雪輝は思った。
「謝る必要ないよ。そもそもあまり人も多くないし、知らないのが普通、なんだと思う」
「でもその宗教が小牧原にとって普通だったんだろ。それを知らないって言うの、なんていうか、失礼だと思ったから」
「……」
美心は目を見開いて雪輝の顔を見つめた。
「な、なんだよ?」
「……テルキチって、変わってるね」
「は?」
「冴島先生が無理やり私たちを引き合わせた理由、ちょっと分かったかも」
「なんだそれ」
「テルキチ、冴島先生に信頼されてるなって意味」
「はは……信頼っていうか、良いように使われてるっていうか……何なんだろうな」
自嘲気味に言うと美心も少し笑った。その顔を見て、雪輝は少し安心した。
「私ね、名古屋の中学にいた時は、信仰の事でみんなから変な人扱いされて、だから高校では隠し通そうって決めていたんだ。だけど守らないといけない規則が多いから、冴島先生にだけ相談して、色々助けてもらってたの。……食事の時とか」
その言葉で雪輝は先ほど繰り広げられていた光景の意味を理解した。
「さっきのは食事のお祈り的なやつか?」
「まぁそんなところ。厳密には三次元世界の執着への懺悔と、救心の宣誓なんだけどね」
「なんか難しそうな話だな」
「うん。細かい事は話すと長くなるかも。とにかく私はご飯の前に、さっきみたいな事をしないといけないの。だから教室でお弁当なんて食べれないでしょ。冴島先生にこっそり商業棟のカギを貰って、そこで毎日お弁当を食べてたんだけどね……まさか使えなくなっちゃうなんて先生も知らなかったみたいで、それで急遽ここを使わせてもらってたわけ」
「相談室じゃダメなのか?」
「先生にも最初そう言われたんだけど……相談室には人も来るじゃん。私、絶対に他の人に知られたくなったから……」
「そんなに……。でも先生はそれを知ってて、半ば無理やり俺をここに連れて来たんだろ。酷くないかそれ」
「ううん、いいの。私もね、いつかは信頼できる人に自分の生き方を話せたらいいなって思ってて、先生、それも分かってたから」
「……嫌じゃないのか?」
「最初は戸惑ったけど。でもテルキチだったから、安心した」
「なんだよそれ」
「私ね、実は知ってるんだよ。テルキチが二人に怪我させた理由」
「え?」
「クラスでも知ってる人は知ってるの。緘口令って言ったって限度があるし」
美心はまた笑った。先ほどまでの緊張感はもう抜けた様な、そんな穏やかな笑顔だった。
「タケル君達、東雲さんの机に酷い事しようとしてたんだってね」
「……あぁ」
雪輝は一言そう呟いた。
「放課後、教室に出たゴキ……虫を三人で退治した後に、それをタケル君が東雲さんの机の中に入れようとしてたんだって?」
「誰から聞いたんだ?」
「それは内緒。その人怒られちゃうし」
「はぁ……」
雪輝はため息をつく。
「タケルが最初ふざけ始めて、リョウもそれに乗ってさ。二人して虫の死骸と教室中のゴミを東雲の机に入れようとしてよ。趣味悪いからやめろって言ったのに、ノリ悪いなって返されて、その時の二人の顔見てたら、なんて言うか、嫌な気持ち思い出して……気づいたら手が出てたんだ」
「東雲さんを守ったんだね」
「そんなんじゃねぇよ。……本当にそんな褒められるような感情を持ち合わせてなかった。ただただ、嫌な気持ちになったから殴っちまっただけなんだ。冴島先生も買いかぶりすぎなんだよ。別に俺はいい奴なんかじゃないんだ……」
「もしかして、結構複雑?」
「小牧原ほどじゃねぇよ」
「あはは」
「俺の話は終わり。小牧原の番に戻るぞ」
「あはは……」
乾いた笑いが響く。
「友達とかにも言ってないのか?」
「作れないんだ、私。友達」
「え?」
ボールを拭いている手が止まり、美心の顔に視線が囚われる。
「アカシヤの救徒ではね、教えに従う人を救徒、つまり救う人としていて、それ以外の人たちは没心人(ぼっしんと)っていう風に呼んでるんだけど――」
「ちょっと待って、ボッシント?」
「心を没した人って書くの。人の形をしていて思考があるけど、心を持たない器だけの生命。私たち救徒は、そんな器の人たちに、教えによって心を宿してあげるのが役目なの」
雪輝は、自分が想像していたものよりも大幅に斜め上をいく彼女の言葉に、頭が追い付かなかった。
「私たちは救う側。そしてテルキチ達は心を持たない器。だからその関係は救心活動を行うだけで、それ以上の関りを持っちゃいけないっていう戒律なの。あっ、救心活動って言うのは布教活動とかの事で――」「つまり、信者以外と友達になれないって事か」
「……そういう事だね。友情も恋愛も全部だめ」
「……」
「ねぇ、そういう私たちってどう思う? やっぱ変? 普通じゃない?」
「い、いやちょっと待ってくれ……」
「……いいよ、別に。言葉は選ばなくて」
「そういう訳じゃ……」
「分かるんだよ。テルキチ優しいから、私が傷つかないようにずっと言葉選んでる。私、そうなるのも嫌だったんだ……」
「小牧原……」
「私はね。ずっと普通だと思ってた。小学校に上がった時も、自分以外のクラスメイトは食儀(じきぎ)もしないし、授業で禁書を読むしで困ってたんだけど、でもそれはみんなに心が宿っていない証拠だと思ってて、いつかはみんなを救ってみせるなんて考えもしてた」
美心は膝をギュッと抱えた。
「でもちょっとずつ不安になっていったの。クラスの人たちと過ごしていると、どうしても心が無いなんて思えなくなっていって、段々と私のやっている事っておかしいのかなって疑問も出て来て……怖かった。救心活動でママと一緒に本を配る時も、クラスの子と出会わないか怖くなった。給食の時も、何してるのって言われるのが怖くなった。人の目が……怖くなったの」
「……」
雪輝は言葉が詰まった。
「ごめん。なんか暗いね。今は大丈夫だから。クラスでもみんなとは戒律の範囲内で仲良くやれてるし、冴島先生のおかげで高校生活とちゃんと両立出来てるから、結構楽しいんだ」
「でも人に知られるかもって思うと、やっぱ怖いんだろ?」
「怖いよそりゃ……さっきもテルキチに話すんだって思うだけで心臓が弾けそうだったんだからね」
「プルプル震えてたもんな」
「もぉ、忘れてよ」
美心はそう言って雪輝の脇腹を小突く。
「……まぁでも、テルキチだし、いっかぁ」
「どういう意味だこら」
「だって人に話す話さない以前に、教室にも戻れそうにないしね」
「うるせぇ、すぐ戻ってやるからな」
「ふふっ。……あとその、ごめんね」
「何がよ」
「ほら、三組の子の件、アレきっと私のせいだよね」
「あー……忘れてたわ。あの日もやっぱいたのか?」
「うん。テルキチには嘘ついちゃってたね」
「嘘はアカシヤの救徒的にどうなんだ?」
「駄目です。だからあの日は帰ってすぐに名古屋の会館まで行って懺悔してきました」
美心は笑いながら言う。
「わざわざ……大変だな」
「そうでもないよ。私たちはこれが普通だから」
「普通、ね……」
「それに、会館には優しい人が沢山いるから、行くのは楽しいんだ」
「へえ」
「気が向いたら今度遊びに来てよ。みんな歓迎してくれるよ」
「それは勧誘か?」
「あーそうなっちゃうね」
おどけた様に言う美心。すると倉庫の外から薄っすらと声が聞こえて来て、校庭が少しずつ騒がしくなり始めている事に気づく。昼休みの終わりが近い。
「体育の人たち、集まりだしたね。私、そろそろ行かなきゃ」
「そうだな。邪魔して悪かった」
「ううん。私こそ、変な話聞かせちゃってごめん」
「いや、なんて言うか、小牧原の事ずっと気になってたから。今日ちょっとでも知れてよかったって思ってるよ」
「私も、話せて良かったのかも」
「困ったことあれば、冴島先生だけじゃなくて俺にも相談してくれよな。まぁ何が出来るかは分からんけど」
「ありがと」
外が更に騒がしくなる。
「もう行くね。テルキチもお仕事頑張って」
「おう。またな」
美心はゆっくりと扉を開き、外を確認する。近くに誰もいないのを確かめたら、音を立てないようにこそこそと外に出た。
見送った雪輝は再びボールを磨き始める。手元に向けられた視線の先の床では、さっき落とした米粒がなくなってた。蟻がどこかへ運んだのだろう。自分の体の倍はある物を蟻は運ぶ。人間には出来ない事を普通にやってのけるのだ。雪輝は感心すると同時に思った。当たり前の事だが、人間の普通と蟻の普通は違うのだと。もっと言えば、人ひとりにだってそれぞれの普通があるのだなと、なんとなくそんな事を考えていた。
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