小牧原美心はいただきますが言えない 4
翌日。
昼休みになり、雪輝は商業棟に向かった。
到着すると既に扉は開かれており、一階の左の部屋で漆野が鼻歌まじりに掃除を始めていた。その後ろ姿に声をかけると、彼女の背中がビクンと小さく跳ね、ゆっくりと振り返る。視線の先に立つ雪輝を確認して、彼女はほっとしたような表情を見せた。
「び、びっくりした。なんだ吉祥寺君か……こんにちわ」
「おいおい、今ので気絶とかはやめてくれよ」
「もぉ、流石にしないよぉ」
少し怒ったように否定する姿に笑い、雪輝はバケツにかけられた雑巾を手に取った。
「どこやればいい?」
「あ、うん。とりあえず私が埃を取るから、吉祥寺君はその後を雑巾で拭いてもらえるかな?」
「了解」
指示通りに、ある程度埃がなくなった部分を雑巾で拭き始める。その様子を漆野がじーと見つめていた。
「……なんだよ」
「ご、ごめん。……そのとても丁寧な雑巾がけだなって思って」
「あぁ、言ったろ。俺も奉仕活動で学校中掃除しまくってるって。家でも掃除は俺の仕事だったし、結構慣れてんの」
「へぇ」
得意げに言う様子に、漆野は感心したように呟く。
「男子っていつもお掃除を適当にやってたから、なんか新鮮かな」
にっこりと嬉しそうな笑顔を見せる漆野。その笑顔に雪輝は軽く照れて唇を尖らせた。
「ホントに掃除が好きなんだな」
「うん! 私もね、初めはママのお手伝いから始まったんだけど、ほらお掃除って、雑巾についた汚れとか、ちょっとずつ塵取りに溜まる埃とか、努力の形が目に見えて分かるじゃないですか。あぁ私こんなに頑張ったんだって思えるのが楽しくて、気がついたらお掃除の虜になっちゃったんです」
「俺もそれは何となく分かるな。ちょっとずつゴミが集まっていってさ、それで終わった後に綺麗になった部屋を見た時の、あのなんとも言えない達成感は確かに癖になる」
「……」
頷きながら言う雪輝の顔を、漆野は手を止めて見つめていた。その目は少し水気を含み、キラキラと輝かせている。
「……私、初めてかも」
「え?」
キョトンとする雪輝。
「お掃除の話、人とこんなに出来たの初めてかもです……!」
「お、おう」
「吉祥寺君! その、よかったら、これからも私と一緒にお掃除してくれませんか!」
ギュッと箒とカラの雑巾を握りしめ、漆野は彼女にしては大きな声で叫んで頭を下げた。雪輝は少し驚いたが、小さく震える彼女を見て笑った。
「はははっ。別にそれくらい、そんな仰々しく頼まなくてもいいのに」
「で、でもぉ」
「俺は別にいいよ。どうせ暇だし。……でも漆野はいいのか?」
「ん? どういう意味ですか?」
「いや、なんていうか、実は漆野は嫌われているわけじゃないみたいなんだわ」
「……お経の悪戯の事ですか? もしかして何か分かったんでしょうか?」
「うん。まぁ分かったっていうか、神原先輩がいろいろ詳しくて、漆野に悪意を持っている人はいなさそうって結論に至ったんだよ」
「そう……なんですか。それが本当なら、安心しました」
小さく胸を撫でおろす。
「だからさ、暴力事件を起こした俺なんかが一緒にいたら、今度こそ漆野に何か良くないことが起こるかもしれないだろ?」
「……でも私、もっと吉祥寺君と一緒にお掃除していたいです」
目を潤ませなが、消え入りそうな声で雪輝を見つめる。その姿にドキッとする。
「ま、まぁ。漆野がいいんなら」
照れ隠しか、目を合わせずせっせと雑巾をかけながら雪輝は答えた。すると漆野も少し恥ずかしくなったのか、くるっと後ろを向いて箒を掃き始める。ガラスに映ったその顔は、真っ赤に染めあがっていた。
「……明日もよろしくお願いしますね」
「おう」
その会話を最後に、二人は気恥ずかしさの中黙々と掃除を続けた。
漆野が埃を取り、その後を雪輝の雑巾が追いかける。塵取りはみるみるうちに溜まっていき、雑巾もあっという間に真っ黒になった。
しばらくして雪輝がバケツの水を変えようと思った時、ふと思い出したように漆野が話し始めた。
「そういえば、結局私が聞いたのはなんだったんですかね?」
神原の話を聞いた雪輝は、その問いの答えに三通りの物語を想像していた。一つ目は漆野の幻聴だ。幽霊が出るという噂と、初めて入る薄暗い商業棟の不気味さで、漆野はちょっとした物音にも敏感になっていたのではないかというものだ。彼女の気の弱さから考えると、あり得ない話ではないと考えていた。
二つ目は神原が最後に言っていた、漆野の事が好きな生徒による「ちょっかい」の線だ。コロコロと変わる彼女の表情を見て、確かにちょっかいを出したくなるという気持ちも雪輝にはある程度理解できたのだ。一人で怯える彼女の姿を想像すると、小動物の様で可愛らしいと思える。しかしそれにしてはやりすぎだし、気絶した彼女を放っておくのかと考えると、少し疑問があるストーリーだった。
三つ目は聞き間違え。ここは普段教師も含めて誰も立ち入ることのない場所。つまり、例えば昼休みにここに人が集まって、隠れてゲームなんかをしている生徒たちがいても全く不思議では無かった。あの部屋には確かに人の入った形跡があった。昨日もたまたま部屋に不良生徒が集まっていたと考えると、その音や声を、漆野が幽霊の噂になぞらえて勘違いを起こすというストーリーは、容易に想像がつく。
「そうだな、幽霊がいるとは考えにくいし、やっぱ聞き間違えじゃないのか?」
「聞き間違え……ですか。うーん。私の耳にはまだあの時のお経が残っているので、簡単には割り切れないですけど……そうなんですかね」
「そう思っておこうぜ。今日は聞こえないわけだしさ」
漆野の表情にまた不安の色が浮かんでいるのを見て、雪輝はわざとらしく明るく言った。
「思っておく……そうですね。それに、もし本当に幽霊でも吉祥寺君がいるから安心です」
にっこりと笑顔を見せる。雪輝も頷いた。
「さ、じゃあ俺はちょっとバケツの水を変えてくるよ」
「はい! お願いします」
汚れた水の溜まったバケツを持ち上げ、部屋を出ていこうとする。この棟の水場は一階と二階に奥に備え付けられたトイレだけだった。そのトイレも、場所を大きく取れないため、一階が女子トイレ、二階が男子トイレとなっている。雪輝は少し迷ったが、バケツを持ったまま二階に上がる気にもならず、そのまま一階の奥の女子トイレの水道を目指した。
トイレには扉はなく、雪輝はそのまま中に入って水道にバケツを置いた。こつんという乾いた音が響き渡る。するとそれに呼応するかのように、トイレの奥の方から「ひぃっ」という小さい声が聞こえてきた。
「……え?」
雪輝は音のする方に視線を向けて固まった。個室は三つある。手前の二つは扉が開いていたが、一番奥は閉ざされていた。誰か入っている。恐る恐る声をかけた。
「す、すまん。誰か入っていたか」
「……」
返事はなかった。
「水場だけ借りたらすぐ出るから」
そう言ってバケツの水を流す。大きな水音が響き、急いで蛇口を捻ろうとしたとき、奥の個室から「その声テルキチ?」と聞こえてきた。
蛇口の前で手が止まる。再びトイレの奥に視線を囚われ、雪輝は「小牧原?」と呟いた。今度は個室の方から大きな水音が聞こえ、立て付けの悪い扉が音を立てて開かれる。中からそっと顔をのぞかせる様に美心が出てきた。
「ここ、女子トイレなんですけど」
「すまんって。掃除で水を変えるだけだったから、誰もいないと思って」
「まぁいいんだけどね」
そう言って雪輝の隣に立ち、手を洗い始める。
「でも流石にトイレの音を盗み聞きされるのは私も恥ずかしいんだよ」
ツンとそっぽを向いて話す美心。
「い、いや何も聞こえてない! 何も聞こえてないから!」
「ホントぉ?」
慌てる雪輝に、美心は打って変わって悪戯な笑みを浮かべて、その表情を覗き込むように見つめた。
「ホントだって」
「そっか。ま、信じてあげようかな」
クスクスと美心は笑った。それが照れ隠しなのか、悪戯心なのか、雪輝には分からなかったが、いつも通りの、どこか掴めない小牧原美心を見て少し安心した。
「ていうかどうしてこんなところにいるんだ?」
雪輝は蛇口を捻ってバケツに水を溜める。その大きな音の中、美心の「それは、えぇと」という少し言い淀む声が聞こえる。
「お昼食べてたの」
「こんなトイレでか?」
「もーそんなわけないでしょ。そこの部屋で」
指さした方向は、漆野が声を聞いたという一階の右の部屋だった。
「なんでまたこんなところで」
「静かに本でも読もうと思ってね。ほら、教室だとうるさいじゃん」
話しているとバケツの水はいつの間にか溢れるほどに溜まっていた。雪輝は蛇口を閉め、バケツを少し傾けて量を減らす。辺りにはまたここ独特の静けさが戻った。
「なぁ、昨日も来てたりしてないか?」
「え、昨日? どうして」
「実は昨日そこの部屋からお経が聞こえてきたとかでさ、美化委員で掃除に来ていた三組の子が怖がっちゃってて」
「そ、そうなんだ。昨日は、えーと。お昼食べた後に先生に呼ばれてたから、本読む時間なかったかな」
「そうなのか……」
もし美心が昨日も来ていたのなら、想像していた三通りの内の三つ目が正解だったという事になる。しかもその勘違いの元が美心であったとするならば、誰の悪意もない、ハッピーエンドで終了出来てていたのにと、雪輝は少し残念がった。
「吉祥寺くーん」
部屋の方から呼ぶ声が聞こえてくる。雪輝は「今戻るよ」と声を出してバケツを持ちあげた。
「言ってた子?」
「あぁ、三組の漆野さん。美化委員で来年までにここを全部綺麗にしないといけないらしいんだけど、昨日の事があったからしばらく俺も掃除に付き合ってるの」
「なるほど。テルキチも大変だね」
「まぁ結構楽しんでるよ」
「じゃあ頑張って。私はもう教室に戻るね」
「おう、またな」
そう言うと雪輝は漆野の待つ部屋に向かい、美心はその反対の部屋に弁当箱を取りに戻った。部屋につくと、トイレであった事を軽く彼女に話し、再び拭き掃除を始める。すると廊下から足音が聞こえる。扉が開き、廊下から美心が顔を覗かせ「じゃあね」と言って手を振る。人見知りの漆野は雪輝の背中に隠れて軽くお辞儀した。
昼休みが終わり、雪輝は漆野に別れを告げて相談室に戻った。部屋にいたのは來華だけだった。雪輝は彼女の向かいの席に座ると「二人は?」と尋ねる。神原は授業に出ていて、冴島は半休との事だった。
神原裕彦という男は、別にクラスでいじめを受けているわけでも、居づらい何かがあるわけでもない。彼が相談室に来ていた理由は、そこに冴島あかねが居るからで、彼女が休みとなると、相談室に来る理由もなくなり、普通に授業に出る。彼はただ『好きな人と一緒にいたい』という理由のみで、相談室登校を続ける問題児だった。
「どう彼女は?」
「特に問題は無さそうだな。でも本人が望んでるからしばらく掃除は付き合うよ」
「そう」
素っ気ない返事の後に勉強に戻る。しかし雪輝の「そういえば」という言葉でまた会話に引き戻された。
「商業棟に小牧原がいたぞ」
「小牧原さん? どうしてまた」
「静かに本を読んでたんだと」
「小牧原さん。あまり本を読んでいるイメージなかったけど、読書するのね」
「そんなイメージつくほど、お前教室にいなかっただろ……」
「人間観察は得意なのよ」
「あまり人をジロジロ見ると余計嫌われ――」
言葉の最中で雪輝はあることに思い出した。
最後、美心が部屋から弁当箱を取って雪輝と漆野に挨拶をして帰った時、その手には弁当箱のみがぶら下がっていた。本は見当たらなかったのだ。
「……小牧原のやつ。読書してたとか言ってたけど、本を持っている様子じゃなかったな」
探偵さながらに手を顎に当て、あの時の様子を思い出しているところだったが、來華の「電子書籍ではないの?」という一言で雪輝は素に戻った。
「……確かに」
「人を疑うならもう少しマシな推理しなさい」
「……お前さ、俺の事馬鹿だと思ってるだろ?」
「ええ、思ってるわ」
きっぱりと言い放つ様子に雪輝は頬を膨らませた。
「俺こう見えても成績は学年トップ十位以内だぜ」
「知ってるわ。十位でしょ」
「は? おま、知ってて馬鹿にしてたのか!!」
「えぇ。十位の癖して、わざわざ『トップ十位以内』とか言ってしまうあたり、凄く見栄っ張りのお馬鹿さんって感じですもの」
「んなっ」
顔を真っ赤にする雪輝。
「何も言えないようね。ちなみに私も学年十位以内よ。あなたと違って、順位は一位だけど」
得意げな表情で楽しそうに語る來華。雪輝の胸の内には言いようのない悔しさと恥ずかしさが積もる。言葉にはならず、分かりやすく歯をぎりぎりさせる姿を見て、來華はまた楽しくなった。
「あぁこれがマウント……この気持ちよさ、クラスのサル共が必死で取りに行くのも分かるわね。いいものだわ」
「いや、流石にその発言はどうかと思うぞ」
「冗談よ」
そう言ってクスッと笑う。雪輝はその顔を見て少し驚いた。
「笑った顔、初めて見たかもな」
「なに……? 笑うわよ私だって」
「なんだろうけどさ、見たの初めてだったら」
「……そんなに仏頂面からしら」
「否定してやらないぞ」
そう言うと机の下で蹴りが入る。雪輝は痛っと声をあげるが、少し嬉しそうに見える。
「あははは、なんかよく蹴られるな」
「喜んでいるご様子ですけど?」
「人をドМみたいに言うな」
「え……違ったの?」
「違うわい!」
わざとらしい表情でからかう來華に、雪輝は間髪入れずに否定の文句を垂れるも、相談室生活の始まった三週間前より、会話の増えた自分たちの関係の変化に嬉しさを感じていた。
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