3
日曜日の昼下がり。
七月後半ともなれば、射すような日差しがアスファルトを照り付け、見ているだけで熱気が迫ってくるような錯覚に陥る。
街中に降りて、途端に道路が込み始める。
法定速度も出せない渋滞ぶりにイラつくのか、アキラは何度も舌打ちを繰り返す。
「……あ、偶然だね。僕もそうだよ。だから大丈夫」
楽しそうに言い切って電話を切った斎を横目でねめつける。
「ほら、よそ見しない。大丈夫だよ。彼女は丁重におもてなしするから。君が傷つけようとした三上さんは、自分がされたことをやり返すなんて低俗な仕返しはしないからね。……英人一人だったら、分からなかったけど」
「どういうつもりだ? 井川英人だけでなく、三上加奈まで、こんな……」
「僕は英人しか呼んでないんだけどね。まあ、休日に英人を動かせば、ほぼもれなく三上さんがついてくるのは、デフォルトだから。本当に君のおかげでますますあの二人の絆は強まって、この真夏に勘弁してほしいアツアツぶりだよ」
冗談めかしながら、チクチクとアキラの所業をあげつらう斎に、イラつきながらも反論できない。
「彼女、和菓子が食べたいっていうから用意させたよ。あいつ、味にうるさいからそれなりのもの準備させるよ、きっと。たまには日本茶もいいよね。あ、大丈夫。毒なんて入れないから」
「彼女を人質にして僕に圧力をかけているつもりなのか? のんきに助手席に乗ったりして。僕が命じれば、エマに後ろから君を襲わせることも可能なのに」
「そう言うってことは、そんなことできないって分かっているってことだよね? 僕が僕を襲えるような人間を背後に座らせるわけないって。君の催眠、そこまでの強制力はないんじゃない? 少なくとも直接僕を殺めるような行動に及ばせるなんて、彼女の倫理観を根底から覆すほどのこと、無理だよね?」
「……まあ、ね。君にお茶を勧めるくらいは、従ってくれたけど」
アキラは諦めたように深いため息をつく。諦観で気が抜けたのか、ハンドルを固く握りしめていた手の力も抜ける。
バックミラーに、ぼんやりとリアシートに座る恵麻が映る。まだ薬の作用は十分効いているが、逆にこんな朦朧とした状態では、手練れの斎を取り押さえることも難しいだろう。
「命には影響ないからって? ついでに僕を手に入れるチャンスだって仄めかしたんだろう? 小さな欲望をうまく焚きつけて。策士だね」
「むしろ、エマがそこまで君に執着したのが驚きだったけどね。いったいどんな手管を使ったのか」
「さあ? 何もしてないよ。でも、彼女も『現代の錬金術師』の端くれだ。しかも勘がよさそうだし、僕の溢れんばかりの才覚に引き付けられたんじゃないのかな?」
斎は軽口のつもりだろうが、否定できないのが悔しい。
唐沢宗家の影の総領を引き継ぐというファクターを除いても、その才覚は斎本人が本気になれば多分野で成功を収める可能性を秘めている。
その本気が、結果が最も出にくい芸術分野に主に向いているのは、世界レベルでの損失なのか、あるいは福音だったのか……。
「それに、これから向かう先は、ちょっと道が複雑だからね。ナビで検索しても出てこないから、アナログでも僕が案内するほかないだろう?
フフ、と鼻で笑い、アキラを脇道に誘導する。
山道を想定してエマはコンパクトカーをレンタルしていたので、多少狭い道路もスムーズに通り抜けできるが、その経路は確かに入り組んでいて分かりづらい。
斎の指示がなければ地の利のないアキラにはたどり着けなかった可能性もある。
「何でこんなに分かりづらい場所を?」
「歓楽街っていうのは余所者を排除するために分かりづらく作ってあるんだよ」
「歓楽街?! そんな場所にシアを?!」
「昼間はそんなに危険はないよ。護衛も付けてある。ちゃんと、彼女も守るように申し付けてある。君のような規格外が相手じゃない限り、傷ひとつ負わせないよ」
「……それは、信用できる」
表向きは要人警護のスペシャリスト育成に携わる唐沢宗家の護衛をかいくぐるのは、アキラでも至難の技だった。
通常の手段では加奈を拉致することも難しかった。
「さて、そこの駐車場に車をいれようか? ……ああ、英人も到着しているね」
コインパーキングに英人の青いSUVを見つけた斎は、その近くの駐車スペースに誘導する。
「さて、彼女は歩けそうかな?」
「……エマ、行くよ」
アキラが声をかけると、ぼんやりしていた恵麻の瞳に光が灯る。小さくうなづいて、車外に降りる。足元はしっかりしていた。
「……毒性はないからって、急激に大量投与しただろう? 副作用がかなり出ているよ。もう、服用は控えた方がいい。こんな状態でひとりで知らない道を運転させるなんて、僕を欺くためとはいえ、危険極まりなかったよ?」
眉をひそめて、斎が真剣なまなざしでアキラに忠告する。
「安全運転もきちんと命じたさ。だが、もう、投与は必要ない。……バックヤードも君に抑えられたらしいしね」
おそらく、アキラが不在となった山のカフェの人員は、斎の配下によって制圧されているだろう。
大学の研究室も。
車を降りながら、こっそりスマホを操作したが、トキムネから返答がない。
「イギリスからの通信もすべてシャットダウンするなんて、いったいどれだけのコネクションを駆使したんだ?」
「全てでもないよ。晃=ケネス・香月に関わる関係者付近に絞って、大学関係の通信にアクセスできないようにしただけでね。学閥関係には手を出せないとでも思っていた? いざとなれば、外堀を埋めることなんて難しくないんだよ。君は本名で活動しているしね。本拠地の交流関係なんて、すぐに把握できたよ。君の養い親代わりの教授のこともね。そうしたら、入国審査でまさか君の婚約者が、このタイミングで網にかかるとは思わなかったよ。何て運命的なんだろうね?」
「……本当にそう思うよ。シアの渡航を決して許さないように、父親に命じておいたのに、まさか勝手に来日するなんて」
「恋する乙女の暴走は誰にもそう簡単には止められないだろう? 君も十分身に染みて分かっているだろうに。その暴走が……悲劇を生んだことも」
「……本当に、君は、どこまで分かっているんだ? 教団もそこまで把握できていないはずなのに」
「教団なんて関係ないよ。僕は、面白ければそれでいい。この退屈な現世でせっかく見つけた楽しみなんだ。たっぷり堪能させてもらうよ」
話しているうちに、狭い小路の、さらに奥まった店の入り口に到着する。
「え? シバさん……? え?」
ドアを開けようとすると、横から声が掛かる。
「ああ、店員か。あ、こいつはシバじゃないよ。まあ、兄弟みたいなもんだろうけどね」
アキラを凝視する青年に、斎は可笑しそうに声をかける。
兄弟、と言われムッとした顔を見せるアキラを尻目に、両手いっぱいに荷物を抱えた青年のために斎はドアを開ける。
「……いったいどれだけ買いこませたんだ? ホントにあいつはこだわると、限度ってものを知らないよな」
とても十人に満たない客のためとは思えない買い物の量に、少しあきれて青年に同情めいた視線を送る。
「……やめてください。シバさんが聞いたら……」
「怒ったりしないよ。ふてくされるかもしれないけどね。ああ、荷物もらうよ。君、今日は帰りなよ」
「いや、でも」
「余計な話をこれ以上聞かない方が、君のためだよ? 岡田クン?」
初対面のはずの斎に気圧され、青年――岡田は、反射的にうなづき、荷物を斎に託して、立ち去った。
「……意外に気を遣うんだな? どうせ手足のように使っている人間なんだろう?」
「何、
そのトキムネも、すでに捕らえられている可能性が高い。
そこまで情が湧いていたわけではないが、英人=シバに対する敬慕をすり替えて自分に仕えさせ、英人への復讐に役立てたことで、いくらか溜飲が下がった。使い勝手が良い存在だったことは認めざるを得ない。
非道に振舞ってきたはずのアキラの、まるで良心に訴えるようなことを口にする斎の本意は掴みかねたが、その内容には同意する。
「暑いからもう入るよ。君の婚約者も待っているだろう?」
岡田が両手いっぱいに持っていた荷物を器用に片手だけで抱えて、斎は内扉を開けて中に入る。
「ケニー!」
思ったより明るい店内に入ると、カウンターに座っていたシアがアキラに向かって飛びついてきた。
『……ちょっとラブシーンは後にしてほしいな。とりあえず、お茶でも飲もうよ』
熱い抱擁に続いてキスをねだるシアの姿に安堵して、その要求に応えようとしたアキラに、あきれたように、けれど流暢な英語で斎が声をかける。
「シツレイシマシタ」
恥ずかしそうにシアがたどたどしい日本語で答える。
シアが座っていた席を挟むように少女が二人。一人は三上加奈。もう一人は分からないが、見覚えはある。おそらく斎の関係者だろう。この場に存在を許されているということは、斎の言う護衛なのかもしれない。
カウンターに水の入ったグラスが三つ。
やや離れたボックス席から英人が立ち上がり、加奈の傍に歩み寄る。
どう見ても自分が来るまでシアを挟んで少女たちが談笑し、それを英人が見守っていたように見える。
自分とのつながりは斎から聞いているはずであるし、シア自身も表向きの関係は話しただろう。
なのに、自分が現れるまでは緊張感の欠片もなかった様子だ。シアの穏やかな表情をみれば、斎の言う心をこめた『おもてなし』を受けていたことを感じる。
「荷物は預かったよ。店員……岡田クンだったよね? 帰らせたから、あとは英人がやってね」
カウンターに荷物を置き、やれやれと凝ってもいない肩を叩いて見せる斎に、アキラに強張った表情を向けていた英人が、諦めたようにため息をついてカウンターの内側に入る。
斎に翻弄されている姿は、先程までの自分を見ているようで、恨みを抱いていたはずの相手につい同情めいた感情を抱いてしまった。
『さて、お嬢さん、しばらく大切な婚約者をお借りするよ。どうぞお茶を楽しんで』
英人の入れた玉露から芳しい香気立ち上る。目にも楽しい和菓子を前に、和気あいあいとする少女たちに場を任せ、斎はアキラをボックス席に座らせる。
不安げに英人を見ていた加奈も、状況を察して、シアのおもてなしに集中し始めた。
もっと過敏な反応を示されると予測していただけに、拍子抜けする態度だった。
「あの出来事、彼女には、それほど影響はなかったのかな?」
「そんなはずないだろう? どれだけ苦しんだか……本当だったら、こんな風に悠長に話なんてせず、殴り倒したいくらいだよ」
静かな怒りを湛える英人の左目。
そっくりなようでいて、自分とは違う、透明感のある黒瞳。
怒気に染まり深みを増した黒色の瞳は、今は自分に似ているのかもしれないとアキラは感じた。
どのような因果で、自分はこの男そっくりに生まれついたのか?
わずかな可能性を否定できず、先ほどの斎の「兄弟みたいなもの」という言葉がリフレインされる。
適当なようでいて、他の誰もが知りえない事実を掴んでいる斎の言葉を、軽く考えることはできない。
今まで必死で目を逸らしていた事実に、向き合わなければならないらしい。
英人たちに悟られないように深く息を吸い込んで気持ちを立て直し、アキラは懸命に笑顔を整えた。
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