3
ふと目を開けると、まず目に入ったのは、白い壁だった。それが、天井であることに気が付くまで、数秒かかった。さらに数秒後、加奈は自分の身体が拘束されていることに気が付いた。
「……ここは……?」
「やあ、やっと目が覚めたみたいだね」
加奈の小さなつぶやきに、足元から声が答える。甘めのテノール。ひどく耳触りのよい美声。
あたりを見回そうとするが、頭上で手首を拘束され、横を向くこともままならない。ましてや起き上がることも。拘束された腕は、さらにその上部に固定されているようだった。
「ああ、これでは話しにくいね。抵抗しないというのであれば、体を起こしてあげよう」
「……起こしてください」
声に向かってそう答えると、近付いてくる気配が分かった。
固定をはずされるが、手首の拘束はそのままだった。それでも、両手を挙上したまま固定されていた時より、ずっとましだ。胸の前に下ろした手首には、紐や縄ではなく、布に綿を詰めたベルトのような器具がはめられていた。固定を外したのは、見覚えのない青年……成人するかしないかの、まだ若い男だった。
「起きられそうかい?」
声の主はその男ではなかった。勢いをつけて起き上がると、一瞬クラッとした。鼻腔に残る薬剤のにおいが、加奈の記憶を呼び覚ます。そして、目の前にいる、もう一人の男についても。
「……あなたは、アキラ?」
「ああ、もう分かってしまったか。さすがにこの距離なら、見間違えないんだね、カナ」
艶やかな黒髪で右目を覆い、妖艶に微笑む姿は愛しい男の姿に酷似していたが。その抜けるように白い肌や、どこまでも深い暗い瞳は、英人とは違う。
何故、見間違えるようなことをしてしまったのだろう。その上、おめおめと囚われるようなことになってしまった。至近距離に近付いて違和感を感じた時には、意識が朦朧として……今思えば、何かの薬を嗅がされたのだろう。それにしても。
「なんで、そんな恰好を?」
「ああ、似合うかな? たまには黒い髪もいいかな、って」
初めて会った時とは違う、流暢な日本語。日本語を学び始めた外国人特有のイントネーションは見当たらない。あれから一ヶ月ほどしか経っていないことを考えると、あの時から飛躍的に日本語の技能が向上したというより、わざとカタコトに話していた可能性の方が高い。
「わざわざ、髪型まで変えて、ですか?」
「うん。イメチェン? って言うんだっけ? こういう、ミステリアスなファッションが、日本では人気なんだろう?」
「さあ。一概にそうとは言えませんが」
「でも、君は好きなんだよね? こういう感じの男が。ねえ、ミカミ・カナ」
「……そう言えば、うっかりフルネームを名乗っていましたね。迂闊でした」
「……なんだか拍子抜けするなあ。こういうシチュエーションだと、大抵の女の子はパニックになって、大騒ぎするものだと思っていたけれど。冷静だね。つまらないなあ」
「でしたら、終わりにしませんか? こんな犯罪めいた事、誰の得にもならないと思いますが」
「黙っているから、って? それも面白くないんだよね。せっかくここまで準備して、やっと君を手に入れたのに、さ。本当にガードが固くて、苦労したよ。君、一般市民だよね? 要人並みのボディーガードが常に護衛って、どうなっているんだい?」
「護衛?」
「ああ、本人も知らないんだ。君が一人になる時は、必ず護衛がついているんだよ。しかも、SPレベルのね」
「SP……?」
思い当たるのは、斎か巽だ。彼らの生家はSP養成に携わる武道の名家だ。詳細には聞いていないが、少なくとも自宅内に秘密裏に療養所を持ち、世間には公表できないような出来事を簡単に隠蔽できるだけの権力を持っているらしいことは察している。ついこの間まで、英人も「いつも見張られていて落ち着かない」とぼやいていたが。まさか、本人達にも気付かれないように、監視は続いていたのだろうか?
「まあ、できればそんな危険な存在に近付きたくなかったんだけどね。でも、仕方がない。このまま見過ごすこともできなかったからね。君が、エイトの関係者でなければ、よかったのにね」
「エイトの? あなた、いったい……?」
「あの男は、僕の愛する人を奪った。その純潔も、尊厳も、……心も。……信じられない? いいよ、別に。僕も、バカなことをしているって自覚はある」
「……ええ、信じられないわ。英人は、そんなこと、しない」
「彼自身は、そうかもしれないが、彼の『中の人』は、どうなんだい?」
中の人、というフレーズに、加奈は硬直した。
この人、どこまで知っているの?
「『シバ』だったね? まあ、彼の他の人格がかなりセーブしていたのか、犯罪まがいのことはしても、一線を越えないようにはしていたみたいだね。でもね、教唆も一応犯罪なんだよ? それで、人生を狂わされた人間もいるんだ。ほら、そこにも、ね」
ここにいる、他の人間。加奈は思わず横を向く。若い、男。見覚えはないはずだが、どこかで会った気もしなくはない。
「
「スガヤ……? あ……」
昨年の夏、文化祭の夜に、俊に暴行を加えた、あの。
加奈は直接面識はなかったが、名前は聞いていた。同じ校内にいたので、すれ違ったことくらいはあるかもしれない。
「彼もね、身から出た錆とはいえ、『シバ』にいいように使われて、どうやらひどく恐ろしい目に遭ったようなんだ。心が壊れてしまっていて、完全には聞き出せていないんだけど。なのに、『シバ』のことは、とても尊敬しているらしい。こんなまがい物の指示も聞いてしまうほどにね」
自分のことを『まがい物』と指さして、アキラは笑う。
「たまたま僕の知り合いが彼を拾ったんだけど、おかげで沢山の収穫があったんだ。例えば、タカマ・シュン、のこととか」
「……」
加奈は答えることができなかった。英人が――シバが何故、俊を襲うように命じたのか、加奈はまだ詳しくは知らない。斎には事情を話したらしいが、本人の口からは聴いていない。斎は「英人も巻き込まれていただけだから。本人が落ち着くまで、自分で話すまで待って欲しい」と珍しく真面目に言ってきたので、それに従ってはいた。一番の被害者の俊がそれを受け入れていたので、加奈も追及せずにいた、が。
「……君は、何も知らないんだ? そうか。じゃあ、君を拘束していた意味もないな。事情を訊き出すっていう理由は使えなくなってしまったな」
「何も知らないわ。だから、訊いても無駄よ」
それは、嘘偽りない真実。
「うん。だけどね、僕個人は、それでは気が済まないんだ。おまけに、イガワ・エイトを無傷で保護しろなんて制約もあるから、フラストレーションが溜って仕方がない」
「英人を、保護?」
「ああ。つまり、君にはまだ利用価値があるんだよ。例え、何も知らなくてもね。だから、まだ解放なんてしてあげないよ。それに」
急に黙り込んで、アキラは加奈の頭の上から足元まで、丹念に眺める。冷ややかな視線が刺さるようで、加奈は身をこわばらせる。そこには、一切の熱が感じられず、氷か、いやドライアイスで肌を撫でられているような錯覚を覚えた。冷たい、を通り越して、凍傷を起こしそうだった。
「エイトは、まだ君には手を出していないのかな? 大切にしているみたいだね。そんな最愛の女性が、他の男の手にかかったなんて知ったら、どれほど嘆くかな?」
「な……!?」
「君は知らないかもしれないけど、『シバ』はね、この男に言ったんだって。きっとタカマ・シュンは、自分のせいで大事な女性が、辱しめを受けて、世間には見せられないような姿を写真に撮られて、学校やネットでばら蒔かれたら苦しむだろうなあ、って。そう思わせるだけでも、彼がヒドく傷つくだろう、って。悪辣だね。でも、僕は好きだな。エイトは嫌いだけど、『シバ』とは仲良くなれそうだ」
その話は、聞いている。俊本人は話さなかったが、巽がとらえた男達や志摩が話していた。
確かに、その話を聴いた時は、なんてひどいことを、と彼らを憎らしく思ってはいた、が。
「でも、甘いよね。まあ、純朴な高校生のタカマ・シュンなら、それで騙せるかもしれないけれど。きっと、エイトには通じないよね? だから、ね?」
「……」
加奈は無意識に、拘束された手首を胸に押し付け、足をすくめる。今までにない身の危険を感じた。それが、単なる性衝動ではないことは、彼の視線を見れば分かる。そこには、欲情めいたものは何もない。ただ、英人を苦しめたいがために、加奈の身を汚そう、と彼は言っているのだ。
「ああ、残念だけど、僕は手を出さないよ? エイトによく似た僕となら、君も少しは気持ちが楽だったかもしれないけどね。僕は、自分の愛した人としか、そう言う行為はしたくないんだよ。君のことは、まあ、かわいいとは思うけどね。世間一般の男なら、十分に欲情できるだろう。なかなか魅力的な肢体だ。でもダメなんだ、ゴメンね」
「だったら……」
「でも、こんな機会、次はないかもしれないからね。これからは、さらに監視も厳しくなるだろうし。だから、彼に頼もうと思うんだよ」
チラッと、加奈の隣に佇んでいる須賀野に目を送る。
「彼、割と君のことは気に入っていたみたいだよ。だから、きっとじっくり愛してくれると思うよ。それこそ、それを知ったエイトが嫉妬で狂うほどに。ああ、楽しみだな。彼はどんな顔をして嘆くだろう? 苦しむだろう? 体は無傷で、とは言われているから、その分、心は滅茶苦茶に傷つけてやりたいな。『シバ』も驚くかな? 一年前に自分がやろうとしていたことを、まさか真似されるなんてね。まあ、無意識に君を傷つけないように配慮するくらいだから、自分の罪深さに
「……やめて」
「やっと、怯える表情を見せてくれたね。そうだ、無理やり好きでもない男に組み敷かれて泣き叫ぶ君の姿を、記録に残しておかないとね。スマートフォンでいいかな? 大丈夫、僕はネットに晒したりしないから。でも、エイトにはちゃんと見せてあげるね」
「やめて!」
恐怖にひきつる加奈の表情を見て、アキラは溜飲が下がったように満面の笑みを浮かべ。おもむろに胸ポケットからスマートフォンを取り出す。
「じゃあ、始めようか。のんびりしていると、この場所も見つかりそうだからね。一応、防音はしっかりしているから、大声は出してもいいよ」
絶望的な言葉を、英人に酷似した顔と声で言われ、加奈は目の前が真っ暗になったような気がした。
「さあ、トキムネ、彼女を好きにしていいよ」
ピッ、とスマートフォンのカメラが作動する音が聞こえ、それを合図に須賀野が加奈に近付く。
「い、いや……」
それまで無感情だった須賀野の目に、熱情が灯る。
加奈の手首を拘束具ごと片手で掴むと、元のように頭上に押し上げる。身を捩り暴れる加奈の抵抗も気に留めず、そのまま押し倒し、加奈に馬乗りになると、残された手を加奈の首元に伸ばし。
「いやぁーっ!!」
欲望に目を滾らせた男の手が、加奈のブラウスのボタンを引きちぎろうと襟元を掴み、力任せに引き裂いた。
迫りくる狂気と絶望に、加奈の目から涙が零れ落ちた。
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