それぞれの憂鬱(8)(終)

「お父様はお仕事が忙しいの。だからお母様と待っていましょうね、ルマ」

 いつも王妃は寂しそうな顔で、娘である王女ルマに言っていた。

 言葉の通り、待っている妃と王女の元に、父である国王が姿を現したことは、記憶の限り、数えるほどしかない。

 否、数えるまでもない。王女と母が共にいる部屋に王が訪れたのはただの一度だけだ。もっともその時の王妃は既にこの世の人ではなくなっていたのだけれども。

 ――つまり王妃は王に見捨てられていたも同然。少なくとも宮殿の者たちは、何かしら国王夫妻の不仲を感じていたし、近しい者になればなるほどそそれは明らかだった。

 それでは互いの感情は冷め切っていたのか、と言えば必ずしもそうではなかった。いつも母の側にいたルマは感じていた。母は父のことを信じ、愛していたことを。

「どうしてお母様は、お父様を嫌いにならないの?」

 それは子供としての素直な問いだった。父王は家族を顧みない。仕事が忙しいのが本当だとしたって、さほど離れてもいない自室をたずねてお休みを言うことすらしない王。

 酷い。自分や母に悲しい思いをさせている。お父様なんて嫌い。大嫌い。

 ルマが父に対して嫌悪を抱き、父が来ないと知って悲しそうな顔をする母を見て、憐れに思うのは自然なことだった。

「だってお父様は、エルフェリアや私たちの為に一生懸命お仕事して下さるのよ。そんな事を言ってはいけないわ」

 大人だったらまだ納得できたかもしれない。だが幼い王女には、目の前に見える現実が全てだった。

 父が来なくて寂しそうな母。母の悲しむ姿は見たくない。ならば側にいる自分が何とかしなければ。

 健気に母を支えようとルマが決心し奮闘しようとするのも、またその流れでいつまで待っていても現れない父に期待するよりも、側にいる自分をしっかり見て欲しいと思うのもまた自然の流れだった。

  王妃はいつもルマに顔を向けながらも、どこか遠くを見つめているようだった。

 一番近くにいるはずなのに、頭をなでられたり、抱きしめられたりして、そこに確かに温もりを感じるのに、心から幸せだとルマは感じた事はなかった。

 母は私を愛してはいないのではないか。愛する王の子だから、大事に扱っているだけではないだろうか。

 冷静に考えれば思い当たる節はたくさんある。だが自身も寂しさに耐えかねていたルマはこう考えて疑わなかった。

 一番側にいる自分が父より遠くにいるはずがない、と。

 いつだって側にいた。ルマの話に王妃は笑ってくれていた。怒ることはなかったけれども、微笑みも、悲しみも……時には涙も。王妃の全てを見ていた。全部受け止めていた。健やかなる時も。

 そして、蒼白に顔を染め、病に倒れるその瞬間までも。

 王妃が息を引き取る直前のことはルマの脳裏に焼きついている。

 ただ、その殆どは苦しそうな王妃をどうかこの世にとどめて欲しい、一人にしないで欲しい、と切に祈る気持ちで他は何も見えていなかったのだけれども。

「陛下にはお知らせしたのですか?」

 医師が王妃の侍女に尋ねる声で、他にも意識が向いた。

 同時にそれまでにない父王への憎しみが襲ってきた。こんな時にまで貴方は私たちから目を背けるのか。何てひどい人。

 伸ばされた母の手をやさしく包み込みながら、ルマの双眸からはこらえきれなくなった涙が零れ落ちる。

 苦しげながらも、うっすらと開かれ、現世を繋ぎ止めているだろう母の瞳。

「……ね」

 消え入りそうな声を拾うために、手は握り締めたまま、顔を近づけるルマ。

「……いる……のね」

 娘の存在を確かめているのか。そう思ったルマは心なしか、手を握る力を強める。

「いるわ。ここに、いる、から」

 嗚咽をぐっと堪えて応えると、安心したのか王妃はまぶたを閉じる。

「……いや、駄目!」

 思わず叫ぶと再びまぶたが開く。しかしそれは先ほどよりも弱弱しいものだった。

 別れの時は近い。認めたくはなくとも。直感したルマはただ事の成り行きを見ているしかなかった。すぐ側でしっかりと自分と母をつなぎとめて。

 一心に神に祈る中、弱弱しく発せられた声。それがルマが聞く母の最期の言葉になった。

「……へい、か」

 その表情は見たこともない、穏やかな表情だった。



*      *      *



 目が覚めたルマは最初に見たのは、椅子に座ってうたたねしているレイアーニの姿だった。起こさないようゆっくりと上体を起こす。

 見える暖炉の火はゆらゆらと穏やかに揺れながら、おぼろげに部屋を照らしている。

 すでに夜は更けていたが、元々床に入ったのが夕刻だったからたいした時間は経っていないのだろう。それでも仮眠したというのに、脱力感は消えていなかった。むしろ寝る前よりひどくなっているかも知れない。

「……どうして今更、あんな夢」

 思わず呟きが漏れる。だがあの精神状態であったならば仕方のないことでもあったのかもしれない。

 胸に手をあてて心を落ち着かせるルマ。

 王妃の最期の言葉はルマに絶望を与え、また父との完全なる決別を決定付けるものだった。

 あれだけ遠ざけておいてなお、母の心を捕らえている父がうらやましくて仕方がなかった。その裏返しゆえの嫌悪。否、憎悪に近かったかも知れない。

 悪びれもせず、最期の言葉を求める父に対する行動はきまっていた。

 教えてなどやるものか。父を求めた言葉など、与えてなどやるものか。そのようなことをすれば、母は父の所へいってしまう。そんな気がしてならなかった。

 やわらかな笑顔も、鈴の転がるような声も、全部全部私のものだ。横取りするような真似なんてさせない。

(そう。私はお父様を完全に切り離した……嫌いだったから。何も期待しないと……思って、いたから)

 また目頭が熱くなり、ぎゅと掛け布を握り締める。

 あの時、母が死んで父を否定した時に全ては終わったはずだった。なのに何故か胸のつかえはぬぐえなかった。

 それは母の言葉を隠したことに対しての父への僅かながらも懺悔だったのか――しかしそれも時が経てば、意識することもなくなった。何をしても面白みのない、つまらない、そんな軽い憂鬱な日々は続いてはいたけれども。

 それでも、激しく心を揺さぶられるよりは断然良かった。たとえ満たされているように見えなくとも、自身がそう感じてさえいれば確かにそれは「幸せな日々」なのだ。

 自分以外の人間全てが否定したとしても。

 自分自身がそう信じていさえすれば。

(だから、さっきのはきっと気の迷いだ)

 父に後継者としてしか思われてなかったのが悲しかったとか、まだ父を求めていた、愛してもらいたいと願っていた自分がいるのに気付いていたとか――全部勘違いだ。そうに決まっている。

 否定する気持ちとは裏腹にほてっていく体。押し隠すように、ルマは再び床に潜り込んだ。

 少しして、ことん、と軽い音が聞こえた。近づく気配にレイアーニが起きて様子を窺っているのだと悟る。

 慌てたせいで、起こしてしまったのだろうか。申し訳なく思いながらも、ルマは気持ちを口にすることが出来なかった。否、しなかった。

 深いため息が聞こえ、ずきん、と心が痛む。

(ごめんね、ついててくれてありがとう)

 言葉にするのはたやすいはずなのに、思いは結実することなく、扉の閉める音を耳に、潰える。

 途端に涙があふれる。でもなんとか嗚咽が漏れるのだけは堪えた。

 素直になればいいことなのはルマ自身も解っていた。しかし、ここまで拒否しておいて今更素直になどなれない。

(期待なんてしない。しなくても私が消えることはないもの)

 それ以上に素直になっても返ってこないなら、意味はない。

(今までと同じでいいの。それでいいの)

 母がいなくなった時に決めたのだから。少々元に戻ってしまったけれども、また元に戻せばいいだけのことだ。

(それにしてもどこで油断してしまったのだろう)

 ルマは思いにふける。

 表向きでは自然さを装って、しかし内では細心の注意を払って心を抑えてきたというのに。どうして急に対応できなくなってしまったのだろうか。

 少なくとも。自覚している分にはつい先日までそんな「失態」は起こすことすら想像もつかなかったはずだ。積み重ねられた感情が万に一つでもあったとしても、それをはじけさせる何かがあったはず。

 気だるげに思考をめぐらせた末に、ルマの脳裏に浮んだのは地下倉庫であった、見ず知らずの騎士の顔だった。

 いかにもお人よし、と言った風の頼りなげで、馬鹿正直な騎士然としてない宮殿騎士。

(馬鹿が付くほど……正直な人……。だからなの?)

 騎士の姿が余りに正反対で、ルマの姿勢を否定せんとしているようだったから。

(違う、そんなはずない。そんなことで揺らぐことはあるはずがない)

 二年近くもの間築いてきた「王女ルマ」の在り方が、あんな短期間で、しかも偶然出会うことになった見ず知らずの騎士によって崩されかけたなんて絶対にない。あってはならない。

 ぐ、と体を丸めながら瞳を強く閉じる。今はとにかく一旦体と心を休ませることを考えよう。ルマは瞳を閉じる。

(目が覚めたら、また最初から始めるの)

 一旦戻ってしまった心をまた作り上げるには、今まで以上の力を必要とすることだろう。でも今までだって出来たのだからきっと大丈夫だ。

(出来る。ううん。……やるの)

 どうせ満たされないのならば。

 絶望に心つぶされるより、どこか空虚でも裏切られない憂鬱な世界の方がずっと幸せなのだから。

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