それぞれの憂鬱(3)
教育官が完全に去ると、ルマは思い切り窓を開け放った。晩秋の冷たい風が頬をなぞったが、暖炉の熱が充満していたせいで火照っていた顔にはとても都合が良かった。
虫が入ってはいけないし、落ちたら危ないから窓は極力開けるな。ウォールはいつもそう言う。そんな馬鹿な話があるだろうか。ここは私の部屋なのだから私の好きにして何が悪い。虫が入ったら追い払えばいいし、落ちないように気を付ければいいだけだ。
(確かに落ちそうになったこともあるし、寒くなって来たから長く開けていたら風邪を引いちゃうかもしれないけど……)
でもその懸念は開け放った瞬間に広がる開放感の前には、容易く消え去ってしまう。
正直月の宮での暮らしは窮屈だ。ただ窓を開け放つ程度で心が晴れやかになるくらいには。……などと声に出してしまったならば民は怒り狂うだろうか。だけどいくら綺麗な服や美味しい食べ物を与えられようと、心に住まう閉塞感が消えないのだからどうしようもない。
理由は解っているのだから諦めない限りはきっと解決の糸口はあるのだろう。だが、今更どうこうしようなどとはルマは思っていなかった。
否、何もするまい、と二年前堅く誓ったのだ。期待などしない、と。
唐突に現れる憂鬱な気分は拭えないけれども、どん底に突き落とされるよりはずっとましだ。ちょっと我慢すれば平和な日が続く。何の問題もない。
ただ、たまに外の景色を眺めるだけでは我慢しきれない時がある。そして今、それが久々に降りてきているようだった。だからこそ晴れ渡る空を見て、いてもたってもいられなくなっている。
まだ日は高い、実行するなら今だ。ルマは窓を開けたまま、天蓋付きのベッドに駆け寄る。おもむろに座り込み、ベッドの下に手を差し込んだところでなれた声が耳に届いた。
「ルマ様。レイアーニです」
侍女の呼びかけに、伸ばしかけた手を慌てて引っ込める。
どくんどくん、と鳴る胸元を押さえながら再び窓辺へと戻る。
「入っていいよ」
「失礼致します」
芯の通っているようなまっすぐな声。吹き込んだ風が、長いルマの髪を乱す。顔にかかった髪をルマが煩わしいと思っていたと同時に、きゃっと軽い悲鳴が背後から聞こえてくる。
窓を閉め、振り返ったルマの視線の先には、黒い侍女服のスカートの裾を直し、軽く浮き上がったこげ茶の髪を押さているレイアーニの姿があった。
「ごめんね、レイアーニ。穏やかそうな陽気だったから」
王女に謝られたからなのか、えっ? とレイアーニは目を瞠り、慌ててぶんぶんとくびを左右に振る。
「そんな、とんでもない事ですわ。こんなに良いお天気なのですもの。お外の空気に触れないのは損というものです」
にっこりとした笑顔を目に写すと、もやもやしていた感情が晴れていく気がした。
今に限ったことではなく基本彼女と一緒にいる時は穏やかに気持ちになれる。深入りはせず、かといって邪険にすることもなく、気を許せる人間なのだ。生まれた頃から城に存在する者など沢山いるというのに、二年ちょっと前からの付き合いであるレイアーニと一番仲が良いと言うのも不思議なものだ。臣下としては最も近しく、毎日会っている世話役なのだから当然といえば当然なのかも知れないが。
人と人の絆は年数を掛ければ必ずしも深まる訳ではない。レイアーニと話していると良く解る。
「そうだよね! もったいないよね! なのにこの間たまたまウォールが外から気づいたらしくてね。すごく文句を言われたの。落ちたら取り返しの付かないことになるのですよ、とか。信じられないわよね。流石にそんなに身を乗り出すほど幼くもないし、無鉄砲でもないつもりだわ」
胸元程の高さにある窓枠をぽんぽん叩きながら口を尖らせるルマ。
肘を突くことさえ、背伸びしなければならないこの窓からは台などを使わない限り、落ちるほど身は乗り出せない。
「遠まわしに言ったりなんかしないではっきり言えばいいんだわ。逃げ出そうとしても無駄だって」
「自覚がおありなら、こちらに言わせぬ努力をして頂きたいものですな」
廊下から響く声にルマは目を瞠った。気まずそうに目線を下にやるレイアーニを確認してまもなく、壮齢の黒髪の男性が部屋に足を踏み入れた。
「まだ入っていいとは言ってないわよ。ウォール=シリンズ」
レイアーニと話している時とは打って変わって、冷ややかな視線を浴びせかけるルマ。
「貴女様が素直に応じて下されば、このような手段に出たりは致しませんよ、王女様」
明らかに向けれた拒絶に、しかし国王の従者は動じる素振りは全くない。琥珀色に染められた眼鏡のせいで色が解らない両の瞳はうっすらと閉じられているようで、しっかりとルマの姿を捉えている。
気圧される悔しさを押し隠すべく、ルマはかたく手を握る。
「何度言っても同じことよ。私はお父様と話すことなんて何もないわ。ルマは貴方の後継者だけど、貴方の娘ではありませんものね。そう伝えなさい」
言い捨てて、背を向けるルマ。沈鬱な感情とは裏腹に、窓からは相変わらず澄み切った青い空が見える。
「何一つ、陛下の言い分をお聞きにならないで……私には貴女様が意地を張っているようにしか思えないですがね」
ずきり、と心が痛む音がはっきりと聞こえる。
解っている、十分過ぎる程に解っているのだ、そんなことくらいは。どんどんと鼓動の速さが増していく。胸元をぎゅっと押さえこむ。
澄み切った空のように、心の中にあるぐちゃぐちゃな気持ち全部、まっさらになってしまえばいいのに。何もかも忘れて、国を継ぐことだけ考えられるようになればいいのに。
また今回も聞き入れられない、と悟ったのか背後から呆れたかのようなウォールの深いため息が聞こえた。
「残念ですな。今日もこれで失礼すると致しましょう。ではまた、いずれ」
「もうこなくていいわよ」
感情も大分薄れた言葉が口をでる。
「決めるのは陛下でありますゆえ」
言葉はただ耳を通り抜けていくだけ。つまらない。嫌だ。もうこんなやり取りをするのはうんざり。窮屈で、窮屈で息が詰まりそう。
「程ほどになさいませ、本当に」
「……だったら、強引にでも直接連れに来ればいいのに」
なんともなしに呟いて、ルマは慌てて口を引き結んだ。しまった、と思ったと同時に、鼓動が更に早くなる。どうして口に出してしまったんだろう。諦めたと決めたはずなのにどうして。
冷や汗すらかきそうになり、ゆっくりと後ろを振り返った先に見えたウォールはしかし、ルマの不安とは裏腹にいつもどおりの表情をみせているのみだった。
「言いたいことがおありなら、もっと大きな声ではっきりと仰って頂きたい」
聞こえてはいなかったようだ。胸をなでおろし、ルマは応える。
「口うるさいオヤジはとっとと下がれっていったのよ。失礼するって言ったらその時点でいさぎよく去りなさい、国王の腰巾着様!」
急な剣幕に目を丸くしているレイアーニを他所に、ウォールはほんの少し眉根を寄せるのみだった。
「確かに貴女様からすれば四十過ぎの私は立派な『オヤジ』なのでしょうな」
「解っているなら下がりなさい」
一瞬ウォールは顔をしかめたものの、それ以上の追撃はしてこなかった。
軽く会釈した後、背を見せることなく部屋を後にする。流石は『歩く王室規範』と呼ばれる忠臣。敵と対峙するとき以外、主君に尻など見せられない、と。立派なことだ。
しかし、ルマにとってはそんな振る舞いも目障りなことこの上なかった。一秒たりとも見つめられたくないというのに。全く。
「申し訳ありません。ルマ様」
予想だにしなかったレイアーニの謝罪の言葉が、半ば激昂しかけていたルマの感情を鎮めた。
「な……なんでレイアーニが謝るの?」
「私が先に出てくれば油断するからって……シリンズ様に押し切られてしまいまして……何かルマ様を騙すようなことしてしまったものですから」
だから、どこか気まずそうだったのか。理由が解ったルマの心にウォールの策略に対する怒りは何故か降りてこなかった。これは心の奥底では自分も悪いのだ、とルマが理解しているからの反応に他ならなかった。
(だけど……私はお父様とは、近寄ったりなんてしない。できない)
気持ちは押し隠し、ルマは侍女に微笑みかける。
「レイアーニは悪くないよ。悪いのはあの陰険従者なんだから」
王族たるもの、言葉の使い方にはお気をつけなされよ。ウォールならそういってくるだろうが、目の前のレイアーニが返したのは軽い笑いだった。
「確かにもうちょっと言い方がおありなのでは、と思いますわ。全く」
口を尖らせながら、愚痴るレイアーニの姿を見て、本当に彼女は良い侍女だな、とルマは感じていた。ここの人達は、みんな壊れ物を扱うかのように、接してくる。そして、「立派な世継ぎ」を求めてくる。そこに自分の意思の入り込む隙はほぼない。だから、窮屈だ。
レイアーニは敬意は示しながらも、ルマの自分らしさを尊重してくれている。判断にも同意してくれている。だから完全に本心を出すにまではいたらずとも、自分らしくいられるのは彼女の前でだけなのだ。
「そうそう。だから全然気にしないでね。あ、そうだレイアーニ、せっかく来たついでに一つ頼みたい事があるのだけど」
はい、どうぞ。微笑むレイアーニに対し、ルマは同じように笑顔で言葉をつむぐ。
「ちょっと喉渇いちゃったの。お茶、淹れて来て貰えない?」
「お安い御用ですわ。昨日、クム産の紅茶を買いましたので淹れてきますわね」
にっこりと笑顔を見せる、レイアーニの姿にこころがずきん、と痛んだ。これから自分がしようとしている事は、彼女を騙す行為に他ならないのだから。
「それではお待ち下さいませね。あ、そうだルマ様ちょっとお耳を」
罪悪感が一変、一体なんだろう、と首を傾げるルマにレイアーニはそっと呟いた。
お気を付けて、と。
* * *
知略長けている、という事は何も良い結果のみを生み出す訳ではない。やりようによってはより効果的に相手を追い詰め、落とし入れることも容易く出来てしまうという事だ。頭脳明晰なものは悪いことはしない、などただの思い込みに過ぎない。大事なのは持つべき能力をどのように利用するか。実力以上に問われるのはそこである。
まさに今、合同訓練のために宮殿内の鍛錬所に来たエルラドは痛感していた。
明らかに人数が足りない。一人、二人なら遅刻しているのか、で話は済むが(もちろん後に減俸なりの処罰はある)目にしている光景はそんな生易しいものではなかった。
「……こりゃまた随分と解りやすいこった」
アーサーのあきれ返った声が、むなしく耳朶に響く。
目測でも半分近くは来てないだろう。どう考えても偶然ではあり得ない。
出来る限り部下を信じたい、疑いたくないと願うエルラドではあったもそこに潜む悪意の片鱗を感じざるを得ない。
否、少し前からおかしいと感じてはいたのだ。最初こそは淡々としていたものの、部下達は従ってくれていた。反応は少ないけれども、何とかやってはいけそうだ。そう思っていたが思わせぶりなのでは、と疑い始めたのは一月ほど経った頃。自分なりの指揮の形が何となく出来て、手応えも覚え始めた矢先にちらほらと欠席者が目立つようになった。
それが毎日であったならば、すぐに疑問に思ったかも知れない。ただ不規則で多くても三人くらいだったので、個人訓練で怪我をしたとか、妻が急病だといった理由を普通に受け止めていた。
その休んでいる人間にある共通点を見出したのは、更に一月ほど通過した頃だった。
「シファン隊長殿」
背後からかけられた声にエルラドはびくり、と肩を震わせた。
振り向いた先にいた、副隊長の、今となっては部下の騎士はエルラドの反応は気にもせず、「良い部下」の素振りを見せるのみだ。
「時間はとうに過ぎていますよ。始めてはいかがかと……来ない者達は、意思なしと、見切りを付ければいいではないですか」
にこやかな表情の裏には、相手に対する嫌悪が多分に潜んでいる。
不思議なものだ。責任の重さが格段に違うのは言うまでもないことだが、ただ立ち位置が変わるだけで今まで見えてこなかった現実がここまで見えてくるとは。
一人で多数を見なければ解らなかっただろう。同時に今までは自分一人で精一杯で思っていた以上に周りを意識していなかった事に自己嫌悪を覚えたが、おかれている現実が否応なしにその感情を薄れさせていく。
休んでいるのは、副隊長の派閥に属している人間ばかりだったのだ。そして今日いないのもその中の人間の者ばかり。
十中八九糸を引いているのは彼に間違いない。だが決定的な証拠はなにもない。何よりもその主犯格がただの一度も休んでいない、というのが追及できない理由の一つでもある。あからさまな嫌がらせを受けたのならばまだ対応のしようもありそうだと言うのに。あくまに穏やかに、じわじわと。それが相手のやり方。……そう思った矢先の集団放棄だ。
これは落差で精神的な攻撃を与えようとでもしているのだろうか。意図は解らないが現状を受け入れていつも通りの訓練を始めてしまえば相手の思うツボだ。
だがどうすればいい。所在も解らない。よしんば全員の所在がわかったところで全員探し出す間に時間がなくなってしまう。
ならば今いる隊員だけで訓練を始めるのが一番いい。だが、それでは何の解決にもなりはしない。じゃあ何か策があるのか。思い悩んでいる間にも時間は止まってくれない。
隊員達のまだかまだかと言わんばかりの視線が痛い。無言で件の主犯格に一瞥をくれているアーサーの姿に申し訳なくなる。仕向けられるままに、流されるしかないのか。
「時間だ。本日の合同訓練を始める、一同整列!」
気を取り直すべく、いつもより力強く号令をかけるエルラド。
列を作ろうと動く隊員達の中、口の端をあげた副隊長の姿がやけに鮮明にエルラドの目に映った。
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