第4話 栗原聡

 話は変わります。

 日本三大随筆というものがございます。

 わたくしの「枕草子」、さきほど言及した吉田兼好様の「徒然草」、そして鴨長明様の「方丈記」です。

 どれも書き出しが有名です。

 春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

 これは枕の書き出し。

 現代でも気に入ってくださる方はいらっしゃるのでしょうか。教科書に載らなくなったら、忘れられてしまうのでしょうか。そうなりそうで、少し嫌です。

「方丈記」の書き出し。

 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

 見事です。

 美しいリズムの文章の中に思想が凝縮されています。

 すぐれた文学はたいていすぐれた書き出しを持っています。

 近代日本では夏目漱石様の書き出しがすばらしい。

「草枕」の書き出し。

 山路を登りながら、こう考えた。

 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

 漱石様でも人の世は住みにくかったのですね。

 現代の多くの方が生きづらいとおっしゃるのも無理はありません。

 わたくしは割と楽観的に人生を楽しんでおりますけれど。

 姿を消すときは身一つで消え、財産などに執着はいたしません。そして一から人生をやり直します。それでなんとかやってこられました。

 美貌が武器だったとは言えますけれど。

 とにかくわたくしは楽観的で、人生なんとかなると思っております。自殺など考えたこともございません。不老不死体質を活かして、人の世の行く末を見届けたいと思っております。

 もちろん今の大学生活も楽しんでおります。

 キャンパスを歩いていると、男の人から声をかけられることがあります。先日は、経済学部の教授から声をかけられました。

「きみ、清川真美子さんの娘さんとかじゃありませんか」

 清川真美子というのは、三十年前から二十年前ぐらいにかけて、わたくしが使っていた名前です。偽名ですが。

「ああ、急にごめんね。僕は経済学部の教授で、栗原聡と言います」

 なつかしい名前です。教授はわたくしの元カレでした。しわが増えていますが、整ったお顔で、二十年前の面影は消えてはいませんでした。少し白髪が混じっていますが、素敵な大人の男性で、魅力的です。

 しかしもう捨てた名前を知られているのは、要注意です。

「わたくしは佐藤清美と申します。清川さんという方は知りません」

 わたくしは今使っている名前を申し上げました。むろんこれも偽名です。

 このブログにわたくしの今の偽名を書くのはまずいかしら。

 まぁいいですわ。偽りばかりだと気が滅入ります。

「そうですか。いや、あなたが私の昔の知り合いに瓜二つなものですから。声も似ているんです」

 同一人物ですからね、当たり前です。しかししらを切り通さなくてはなりません。

 栗原教授はわたくしの顔を不思議そうに見つめておりましたが、異性の顔をマジマジと見る不躾さに気づいたようでした。

「失礼。ドッペルゲンガーかクローンかって思うほど似ているものですから」

「他人の空似でございますね」

「話し方もそっくりだ。いまどき珍しい丁寧な口調」

 教授のわたくしに対する関心が増していくようです。

 これ以上話すのは危険ですね。

 昔の知人とはなるべく接触しない方がいい。まして元カレとまた親しくするなど論外です。同一人物だとばれて、なんでまったく老けていないのかと不審がられてしまいます。不老不死がばれると、わたくしは国家に捕まって研究対象にされてしまうかもしれません。それは避けなくてはなりません。

 教授の左手の薬指には指輪がありました。わたくしは一瞬胸が潰れるような想いをしましたが、もう二十年も経っているのです。仕方のないことです。

「約束がありますので、失礼いたします」

 約束などありませんでしたが、わたくしは教授から離れました。彼がわたくしの後ろ姿を見つめているのが感じられました。

 大学を出て、静かなカフェに入り、紅茶とサンドイッチを頼みました。ほどなくして注文の品が運ばれてきましたが、わたくしはぼうっとして、しばらく手をつけませんでした。過去に想いを馳せていたのです。

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