第26話 思いと現実の中で (6)


美奈と映画に行った後、少し遅い昼食を一緒に取った。美奈は嬉しそうにしながらオープンサンドを食べていた。


“なぜ、この子には抵抗がないんだろう”自分自身が理解できなかった。幼いころから常に自身をわきまえ、発言を厳しく律することが、相手にとって、そして自分にとっても大切なことだと教えられてきた。


相手の言葉を考えない発言は、相手も自分も傷つくことになると。しかし、美奈には、なぜか心が開いた。


「葉月君、食べないの」

「えっ」

「“えっ”じゃないでしょう。さっきから私の事ばかり見て、食事に手を付けない」

「あっ、いや、食べる」

そう言って、自分もスパゲティにフォークを出した。


「美奈」

「うん」


優一は、ふと頭に浮かんだ事を聞こうとした。だが流石にその言葉は止めた。まだ、この子とは何も知らない。自分の家の事も言っていない。そう思うと


「美奈、可愛いね」

「今頃気がついたの」

そう言って嬉しそうな顔をして、またオープンサンドを口にした。


結局、その日は、遅い昼食の後、買い物に付き合って別れた。まだ五時前だった。美奈は三咲や美佐子のように、決して後ろを引きずらない。当たり前の事かもしれないが、それが優一にとって、少し心を残す感覚にもなった。


「花音」

いきなり声を掛けられた妹は“キョトン”とした顔をして


「お兄様、何か」

ほほ笑みながら言う妹に


「頼みがある」

兄にこんなん言葉を掛けられたことのない花音は不思議そうな顔をして


「どのようなことでしょう。お兄様から私にお願いとは」

そう言って、母親の入れてくれた紅茶を口元にした。


漂う香りだけでなく、舌に乗せた紅茶の味が素晴らしい。言葉など何も意味を持たないほどに美味しい紅茶だ。


「まあ、そのようなことを」

花音は大学にいる友達の会話や本では読んだことのある話に


「花音は、女性としてお答えします。決して心のバイアスを入れないように」

そう言って、カップをティソーサーに戻すと少しだけ時間を置いて


「“目の前にある感情”と“心の底にある思い”とどちらを選ぶか、お酒をお飲みになった時の心も、お兄様の本当の気持ち。心の底にいつもいらっしゃる方への気持ちも、お兄様の本当の気持ち。どちらの方へも嘘偽りのない気持ちであることには間違いありません」

カップを細く柔らかそうな手に持つと口元に持って行きながら


「お兄様の気持ちは花音にお話しになった時、既に決まっていたのでは。ただそれを私から肯定してほしかったのではないですか」

あまりにも鮮烈な真実を妹の口から溢されると優一は何も言えなかった。


「ふふっ、嬉しいですわ。お兄様。花音に相談頂けるなんて」

そう言ってもう一度“ふふっ”と笑うとカップを口元に運んだ。


花音は、久々に行った学校の帰りに同じ大学に入った三井かおるの娘、あおいを誘って話をしていた。


「あおい、いかが。大学での学びは」

「花音、まあまあって言うところです。想像とは違っていました。もっと実践的なお話をうかがえるのか思っていましたが、自分の書かれた書物の説明ばかり。あおい、少しがっかりです」


「どのようなところが」

「はい、EMEAにおける経済の停滞の原因をディスカッション形式で学生たちとお話頂いた時、教授はいつも、理論を優先し、現実の整合を模索しませんでした。私は、現在のEMEAの経済停滞は世界経済の動向より、むしろ国内にある不安定さからもたらす要因が大きいとお話したんですが、教授は、ご自身の書いた本にこだわり、その動向を一緒にお考えにはなりませんでした」


「そうですか。あおいは確か、横山教授に教えを頂いていたのでは」

「はい」

花音は堅物で有名な教授の顔を思い浮かべながら“あの教授ではどうしもない”と考えていた。


「ところで、花音、もう四年の秋ですね。卒論も終わりまして」

「ええ、“地球環境の変化が世界経済に及ぼす影響”という論文を書きました。長澤教授が難しそうな顔をしていましたが、素直に受け取って頂きました」

「そうですか」

あおいも難しそうという顔をすると


「あおいも四年の頃には何も問題なく読んで頂けますわ」

「ところで花音、来年三月には、もうご卒業ですね。どちらに行かれるかはもうお決まりになって」


花音も来年は就職だ。あおいも既に二年になっている。周りはほとんど決まっていたが、本人は、どこに行くわけでもなくという感じで決めていなかった。


周りは、花音が就職活動をしないことを不思議に感じていたが、いつも来ている洋服やしぐさから、仕事もしなくても困らないお嬢様程度に思っていた。


だが、花音からすれば、理由は父親の立場にある。葉月コンツェルンの傘下のグループ会社のいずれかに入るのだろう位にしか思っていなかった。


二人は、いつも利用する大学の近くの、青山通りから表参道方向に少し入った左側にあるレストランを兼ねた喫茶で会っていた。


「そう言えば花音、覚えています。二年前に二人でいたずらをしてお母様に厳しく叱られた時に会った男の方」


 花音は、記憶を遡るとあおいのお付きの者、石崎が宙に舞った事を思い出した。ただ、自分には関係ない事と思っていたので記憶の引き出しの中に入れて有った。


「ええ、でもいかがしたのですか」

「ええ、あの時の方、また見かけました。お二人でいらしたのですが、それが」

 少し、戸惑ったような顔をすると


「あの時の方、今回は普通に綺麗な洋服を着ていたので、思いだすのに時間かかりましたが・・・、花音のお兄様によく似ていらしたのです。美しい女性の方と一緒でした」


花音は、自分の耳を疑った。兄に似ている人がこの世にいるとは思いたくなかった。冷静を意識的に保ちながら


「どこでお会いになったの」

「いえ、会ったわけではありません。お見かけしただけです。渋谷の東急本店でした。私がハンドバッグを買いに行った時のことです。その時は、あの方たちも買い物をした後のようでしたが」


「そうですか」


花音は、遠い昔の記憶の隅にある事を思い出していた。あの時の母の目の一瞬の戸惑いは忘れようがなかった。


その時、秋山裕一は仕事で貯めたお金で母親の秋山元花に洋服を買ってあげ、食事の為にちょうど東急本店の一階に降りた時だった。


一瞬で分かった。“あの時の女の子だ”そう思ったが、例によってお付きの者がしっかりと後ろに付いている。東急百貨店の責任者らしい男もそばにいた。


何気なく横目で三井あおいを見ながら通り過ぎて行く時、向こうも自分たちを見ているのがはっきりと分かった。


秋山元花は、自分の息子の視線の先に、記憶の中にある“ある人の顔”が重なった。そして一瞬有ることが甦ると、すぐにその場を立ち去りたかった。


もう二度とあの人たちの前に現れないことを約束している以上、早くその場を立ち去りたかった。例え、本人たちではなくても、仕舞い込んでいた記憶を甦らせたくはなかった。


やや早足になる母親に“お母さん”と思いながら自分もその足の速度に合わせた。そして百貨店の外に出ると


「どうしたんですか。お母さん、急に早足になって」

「お腹がすいて。早く食事したいなと思って」

可愛い息子の言葉にほほ笑みながら言うと、裕一は明らかに何かを隠している母の顔を心配そうに見た。


「それで、その方たちはどちらへ」

「分かりません。急に急ぎ足なられたと思うと出て行かれました」

「そうですか」

花音は、記憶の奥底にあるものをそれ以上出そうとはしなかった。


花音は、家に戻った後、あおいの行った言葉を母親のカリンに言おうと思ったが、止めることにした。

“お母様の心を乱すような言葉は慎まないと”そう思って話題にするのを止めた。“知らなくて良いことをわざわざ公にして、いらぬ心の戸惑いを誘ってはならない“と思ったからだ。


「花音、いかがでした。あおいさんは」

「はい、お元気でした。教えを頂いている教授との経済のディスカッションに少しつまらなさを感じているようでしたが、大体は順調にそして素直にお過ごしのようです」


「そう。今度おうちに呼んで、ティパーティをしましょうか。そう、かおるも一緒だと嬉しいな」

「かおる叔母様も来られるのですか。嬉しい。花音もお会いしたいです。もうずいぶん会っていないと思います」

そう言って、切れ長の目が美しい女性の顔を思い浮かべた。


「そうね、花音が大学に入学した時に会ったきりだと思うわ」

花音から見れば、既に四年近くが経っていた。もっともカリンは、優一の事や他の事で何かと電話したり会ったりしているが。


優一は、花音と話をしてから既に一か月以上が経っていたが、三咲にも美佐子にも何も言っていなかった。いや言えなかった。ただ、花音の言った言葉は自分自身理解していた。


 三咲の我がまま、そして比較がないほどに可愛い笑顔は、とてもたまらなかった。しかしそれがいつまでも続くわけではない。それを考えれば植村美佐子を選ぶことは必然であった。だが、それは自分自身で今決断出来るほどにはなかった。


 それは自分の体に流れる葉月家の男の血を何とも言えなく感じていた。急接近して来た、石原美奈はまだ、ここまで真剣に考える範疇の外だと思うと会うことに気が楽だった。


彼女とはあくまでも“同期の仲の良い友達”。ただ、彼女に対してだけは、自分の心が素直に開く不思議さを理解できないでいた。その石原美奈が目の前に座っている。

今年も十一月になり、寒さも増して来ていた。


「葉月君、ここ少しにぎやかだけど安くておいしいのよ。もちろんお酒もいっぱい種類があるし。一号ずつ色々飲める。体温まるしね」


前の二日酔いの一件以来、優一が飲めるのが分かると美奈も自分がお酒に強いことを話していた。

 店員が持ってきたおしぼりで手を拭きながら、メニューを嬉しそうに見る美奈に、なぜか心が和んでいる。


「ねえ、何にする」

「まず、生中を頼んでおいてゆっくり見ようか」

「うん」

そう言って目を合わせると店員に手を挙げた。テーブルに来た店員に


「先に生中二つ」

と言うとメニューに視線を落とした。優一も平岡や同僚と一緒にこういう店に入っているので、何も抵抗はない。

 店員が持ってきた、生中がテーブルに置かれると


「注文いいですか」

と言って色々頼んだ。注文が終わると二人で生中を手にして


「お疲れ様」

と言うと美奈は美味しそうに口を付けた。


「葉月君、土日は普段何をしているの」

“どういう意味の質問なんだろう”と思って少し考えていると


「ねえ、葉月君はなんでいつも、なにか聞くとそんなに考えるの。わたしそんなに難しいこと聞いていないよ」

美奈は、何回かの優一との食事とお茶で優一の性格が分かってきていた。


「あっ、いや。いつも相手の言葉を聞くとその意味を考えてしまうんだ。だからすぐに答えられない」


“わあー、なんで、この子にだけは”頭の中が混乱し始めていた。三咲にも美佐子にも答えた事がない。三咲も美佐子も優一のこういう態度には、素直に身を引く。


ところが美奈は、それを要求してくる。なぜかそれに抵抗がない雰囲気を持たせてくれていた。


「そうなんだ。葉月君は、頭がいいのね。いつもそう言って相手の言葉に壁を一度作る」

「そんなことない。ただ、頭に浮かんだことをすぐに言うのは、相手の言葉の意味を良く理解しないで答えてしまう。それは相手に対して失礼だと思うと、どうしても一度考えてしまうんだ」


優一にとって、こんなにまじめに話すのは初めてだった。三咲も美佐子も絶対こんなこと言わない。


「葉月君の家は厳しいの」

既に二人とも日本酒を二合ほど飲んで、相当に気が緩んでいた。


「そんなことない。いや少しあるかな。我が家は・・」

そこまで言って口を閉ざした。自分の家庭の事を言うは避けたかった。そんな優一を“じっ”見ると


「なにか、ご家庭に問題でもあるの」

美奈は少し勘違いしたような感じだった。


「いや、問題があるんじゃない。自身の立場をよく考え行動するよう、幼い時から言われている」

少し、きつい言い方をしてしまった事に後悔したが、美奈が


「そうなの。お父様はどのようなお仕事を」

「それは」

また黙っていると


「人に言えない仕事なの」

「そんなことない。でも言いたくない」

「分かったわ。じゃあこれ以上聞かない」

また、優一の顔を“じっ”と見ると“ふふっ”と笑った。“なぜっ”という顔をすると


「だって、葉月君、初めて私にきちんと言ってくれている。うれしいな」

そう言って、グラスに入っているお酒を“グイっ”と飲んだ。優一は、三咲と美佐子とは全く違う性格に少し戸惑っていた。


「葉月君、空いちゃったよ。もう一本いく」

「うん」

と言うと、店員に“〆張り鶴”を注文した。


二人が、外に出ると九時半を過ぎていた。駅まで行けば別方向の電車だ。


「葉月君、少し歩かない」

と言って、公園通り方向に足を向けた。優一も寒さで少しは、覚めるだろうと思うと頭を縦にして頷き一緒に歩きはじめた。


一緒に並んで歩いていると前から来る人達をよける為、どうして美奈は、優一の体に触れてしまう。“どきっ”としながらも触れあうたびに、何か心の中に疼くものがあった。


 やがて、少し開けたとこに来ると人もまばらになってきた。優一は、自分の心の中に、なにか理解できないものが芽生えていた。


 下を向いていた美奈は、優一の腕を掴むと


「葉月君」

と言って優一の顔見た。“じっ”と見ている。優一も美奈の瞳を見詰めた。やがて美奈は目を閉じた。優一が、そっと顔を近づけると二人の唇が触れた。


 とても柔らかかった。唇が震えている。優一は、両腕でゆっくりと美奈を包むと体を引き付けた。美奈の胸が当たる。しっかりと腕の中に包むと、美奈は体を預けてきた。


 唇を吸うようにすると美奈は、必死にしがみついてきた。少しの間そうしていると美奈は、自分からゆっくりと体を離して、


「はじめてなの」

そう言って優一の胸に顔を沈めた。優一はもう一度腕の中にしっかりと美奈を感じると


「石原さん」

「美奈と呼んでいい」


それだけ言うと顔をあげてもう一度目を閉じた。優一はゆっくりと唇を合わせると右手を美奈の左胸に持ってきた。ゆっくりと触るととても柔らかかった。胸の下から包むようにして横にそしてだんだんトップに近づいてくると


「葉月君、だめ」

そう言って、美奈は優一の腕を自分の手で押さえた。少しずつ体を離しながら目をそらさずに


「葉月君、送って」

そう言って優一の顔を見た。


 タクシーの中で美奈は、何も言わずただ、優一の手を握って下を向いていた。やがて美奈の家の近く来ると


「もうここでいい」

と言ってタクシーを止めさせた。優一も一緒に降りようとすると


「葉月君、もうここでいい。今日はありがとう」

そう言って、自分だけ降りた。優一は、一緒に降りて家のそばまで送って行きたかったが、美奈の言葉に降りることを止めた。


「美奈、楽しかった」

名残惜しそうに優一の顔を見る美奈は、もう一度タクシーのそばに来ると少しの間、見つめたままに潤んだ目で


「葉月君」

そう言うと手を振ってタクシーから離れて行った。


「お母さん、ただいま」

娘の声に玄関まで出てきた母親は


「美奈、遅かったわね」

「うん、会社の同僚と食事していたの」

娘の言葉と目に何か感じた母親は、娘の顔を見ると


「お風呂空いているわよ。入りなさい」

そう言って自室に戻った。


美奈はお風呂の洗い場にある鏡の前で左手の人差し指で自分の唇を触った。頭の中が、何も考えていなかった。ただ。指先から伝わる唇の感触に何か不思議なものを感じた。


湯船の中で優一に触られた自分の左胸を見ていた。男の人と唇を合わせたのも胸を触られたのも初めてだった。


「私、どうしたんだろう」

自分の心の中が整理できないでいた。ただ心の中に少し詰まるものを感じていた。

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