■6//二人の犠牲者(1)

 リュウジの電話の後、すぐに事務所を出て……工藤という若衆のアパートに到着したのは、夜の十時を回った頃だった。

 間垣の家と似たような、閑散とした住宅地の中にある2階建ての古アパート。その一階のひと部屋の前で、リュウジが立っている。


「こちらです」


 そう言って扉を開けた彼の後をついて中に入ると……すでにそこには、むせ返るような独特の鉄臭い臭気が漂っている。

 電灯の明かりで照らされた室内。妙に閉塞感を覚えるのは、単純に狭いからというだけではない――理由に思いを巡らせたところで、東郷はすぐに気づいた。

 部屋の窓一面にびっしりと、新聞紙で目張りが施されていたのだ。

 その奇妙な様子に眉をひそめつつ、それよりも、東郷は意識を嗅覚へと向け直す。

 後ろをついてくるヤスが「ひぇ……」と呻くのを無視しながら臭いの出どころを探ると、どうやらそれは浴室から来ているようだった。

 先行したリュウジが、戸を押し開ける。浴槽の隣にトイレが設えられた一室、恐らくは真っ白であっただろうその中は――周囲のどこを見ても、真っ赤に染め上げられていた。


「うげげ……」


 口元を押さえるコイカワ。東郷はわずかに眉をひそめながら、その惨状をただ注視し続ける。

 工藤――と思しき人物の遺体は、浴槽の中にあった。

 丁度人一人分程度の小さな浴槽には水が張られ、けれど工藤の体から流れ出したものであろう血によって赤黒く濁っている。

 そしてその中にあった工藤……否、工藤と“思しき”遺体。

 その遺体には、あるべきはずの首から上が、存在していなかった。


 乱雑にもぎ取られたかのような、汚い断面。水面をよく見ると、ちぎられた肉片のようなものと、そして長い黒髪・・・・があちこちに浮いている。


「こんなの……マトモな死に方じゃねェよ」


 そんなコイカワの呟きは、まさに正しい。

 たとえヤクザ同士の抗争でも、こんな殺し方はしまい。ヤクザの殺しは常に目的があってのもの――やるならば、もっとそれを発見した者にも「意味」を与えるような、そんな殺し方をするはずだ。

 だがこれには、そういった意図のようなものがまるでない。

 殺されたというよりはそう、“壊された”。

野生の猛獣によって襲われたような――むき出しの暴力、荒ぶる力そのものによってねじ伏せられたかのような、そんな死に様だ。


「……カシラ、こいつは」


 沈黙する東郷に、その時リュウジが浴室の一角を指差す。

 彼が示していたのは、洗面台の鏡――そこにあったものを見て、東郷は眉間のしわをより深くした。

 真っ赤な浴室の中で、ただその鏡だけが赤で染め上げられていない。

 代わりにそこには――「井」の字が複雑に組み合わさったような奇怪な文様が、血によってびっしりと描かれていた。


「これ……間垣の部屋にあったのと、同じやつっス……」


 そんなヤスの呟きに、東郷は静かに頷いてその文様と、浴槽の遺体とを見比べる。

 非常識なまでの圧倒的な力によって破壊された、工藤の遺体。

 それとは対照的に……何かの意味があるとしか思えない、鏡に描かれた記号。

 何かの意図を持ちながらにして、人智を超えた“暴”を宿すもの。


 それはもはや――東郷たちがこれまでに何度か相対してきたものたち、この世ならざる超常のものによる仕業としか、考えられまい。


「……全く、嫌な予感ばっかり当たりやがる」


 ぼやきながら、東郷はそこで何を思ったか、いきなりジャケットを脱ぐとリュウジに預け、下のシャツの袖をまくり始める。


「カシラ、何を……」


「工藤の死体を引き揚げる。ひょっとしたら何か、手がかりが見つかるかもしれん。……ヤス、コイカワ、お前らも手伝え」


 そう言って手招きする東郷に、流石に逆らえず、嫌そうな顔ながらヤスとコイカワは頷く。


「手袋とかねェのかなァ、こんなトコに手ェ突っ込んだらヘンな病気貰いそうだぜ……」


「あったッス、トイレ掃除用のゴム手袋!」


「でかした!」


 言いながらヤスが洗面台の下の収納から取り出してきた予備らしいゴム手袋をそれぞれ装着すると――まず東郷が、浴槽の中に手を入れてゆく。

 水温は、冷たい。見た目からしてもっとどろりとしているものかと思いきや、意外にもさらりとした水らしい性状のその中へと肘ぐらいまで腕を突っ込んで、東郷は工藤の体に触れる。

 服は着ているようで、その端をぐいと掴みながら東郷はヤスたちに首の動きで「手伝え」と合図。ヤスたちもおそるおそる手を入れ始めたところで……その時コイカワが「ぎゃっ!」と叫んで盛大に手を引っこ抜いて尻もちをつく。

 勢いをつけて手を出したものだから水が跳ね、東郷たちの顔に付着する。その感触に顔をしかめながら、東郷が怒号を発した。


「んだコラ、コイカワ! 何してやがる!」


「ひィ、すんませんカシラぁ! ななななんか、手を噛まれたみてェな気がして……」


「馬鹿言ってんじゃねえ、風呂ん中で手ぇ噛まれるわけがあるか! ピラニアでも飼ってんのかよ!」


「うぅ、でもォ……」


 涙目になるコイカワ。そんな彼をじっと見ていたリュウジが、「カシラ」と声を発した。


「……コイカワの言うこと、嘘じゃねぇかもしれません。あの手――」


 そう言って彼が指差したのは、コイカワの左手。

 どうしたことか、その左手だけ、はめていたはずのゴム手袋が脱げていて……しかもそれだけではない。その手の小指側には、奇妙な形の赤いアザができていたのだ。


「うぇえ、何だよこれェ……!?」


 そう叫ぶコイカワ、その左手をじっと注視しながら――東郷はそのアザの形を見て、あることを思いつく。それは、


「……歯型か?」


 口で噛んだような、アーチ状のアザ。しかもその形は……どことなく、人間のそれにほど近いようにも見える。

 妙な気味の悪さを感じながら東郷はコイカワを外で休ませて、そのままヤスとともに工藤の遺体を引き揚げる作業を再開。

 二人がかりで工藤の両腕を掴んで、浴槽から引きずり出すと……床一面をこれまた赤く汚しながら、遺体が浴室にだらりと転がる。

 その有様を見て――リュウジがぽつりと、呟いた。


「ひでぇもんですね、こいつぁ」


 東郷ほどでないにしろ、幾度の修羅場をくぐり抜けてきた彼をしてこう言わしめるほどに、遺体の状態はむごたらしいものだった。

恐らく部屋着だろうスウェット姿。首から上は先ほども見た通りだが、体の方の損壊も激しく……四肢はトラックにでも撥ねられたみたいにあらぬ方向へ曲がり、ねじれている。

 分かることなど、何もなかった――彼の身に一体何があったのか、想像することすら難しい。


「……イカれてやがる」


 ぽつりと呟きながら、その時東郷はヤスが浴槽の中を見て何かをしているのに気付く。

 手に持っているのは、掃除用の長柄のタワシか――それで浴槽の中を漁っているらしい。

 東郷が見ていると丁度その時、ヤスが「ん?」と首を傾げた。


「どうした」


「その……風呂ん中に、何かあるっぽくて」


「んだと? 出せそうか」


「えぇ……けっこう深そうなんスけど……あっ、分かりました! やるッス! やらせて下さいッス!」


 東郷の睨みに負けてそう言いながら慌てて彼は浴槽に両手を突っ込み、底の方で何かを掴むと息を止めながら一思いに引っ張り上げる。

 飛沫を上げながら出てきたもの。思いの外重かったのか、「うぎゃ!」と悲鳴を上げながら後ろに転がってしまうヤス。

彼の腕の中にあったそれ・・を見て……さしもの東郷も、絶句した。


 ヤスが抱きかかえていたのは、人の頭。短髪で、見たところは男……恐らくは工藤のもの。

 水の中で膨れ上がったのか、その大きさは小ぶりなスイカほどもあって――けれど東郷が注目したのは、その口元だった。

 まるで食いしばるように歯をむき出しにした、その口。

 そこには……先ほどにコイカワが付けていたゴム手袋の片割れが、噛み締められていたのだ。

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